三、背徳アタナシア

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 叫び声と共に茅は身体を起こした。全身が汗でぐっしょりと濡れそぼち、シャツが肌に張りついている。心臓は目眩がするほどに激しく脈打ち、まともに呼吸ができない。  先ほどまで寝台代わりにしていたソファにしがみつくようにして顔を埋め、無理矢理深呼吸をする。ぐらついていた世界は安定を取り戻し、ようやく自分が自宅の居間にいることを思い出した。  病院での検査を終えて、特に異常なしと判断されたため帰宅することにしたのだ。重い身体に鞭を打ってタクシーに乗り、どうにか家まで帰ってきたが、疲労困憊の身体はそれ以上言うことを聞かなかった。ソファに深く身を沈めると泥のように眠っていたのである。しかし——。 「今のは……?」  酷い悪夢を見た。いや、夢なのだろうか。  殺されたはずの己が黒々とした粘液を滴らせる恐ろしい姿で蘇り、怪物の血肉を啜っていた。普通に考えてしまえば滑稽な夢であるが、どうにも空想上の出来事として受け止めることができない。昨日、自分が体験した出来事は、どこまでが現実でどこまでが夢なのだろう。  そう考えると不安定な足場に立っているようで恐ろしい。現実と夢の区別もつかない今、自身の存在は庭を飛んでいる蝶であり、水槽に浮かぶ脳でもあった。自分という存在が不確かで曖昧であることほど心細いことはない。  すぐにでもこれが夢ではないことを証明する必要があった。  茅は生白い足を床に下ろし、ゆらゆらと陽炎のように立ち上がり洗面所へと向かった。  洗面台の前に立った茅は鏡に映る自分を見た。ガラス板を挟んで向かいにいる自分はいつもの姿だ。長い間日に焼けていない白い肌に、伸びっぱなしになっている黒髪。すっかり肉の落ちた身体は以前よりも薄弱で、痣や切り傷が一面に散らされていた。  戸棚に手を伸ばして中身を漁る。洗剤や詰め替え用のシャンプーが雑多に詰め込まれた中から、袋に入れられたI字型の剃刀を手に取った。袋から一つ中身を取り出すと、茅はしげしげとその刃を見つめた。  刃が剥き出しになったそれは、子供の頃であれば危ないからと触ることすら咎められていただろう。けれども茅はもう小さな子供ではなかったし、刃物を持つことを止める家族もいなかった。  小さく喉を鳴らす。頬を抓って夢かどうか確かめるように、身体に痛みを与えてこの瞬間を確かめたい。  もしも悪夢が現実ならば、きっと痛みを感じるだろう。血も出るに違いなかった。けれど問題ない。身体は元に戻るのだから。  これが夢ならばそれでいい。首筋を掻き切った途端、悪い夢から目覚めて現実に戻るはずだ。その現実が一体どのようなものかわからないけれど。少なくとも今よりはずっとましな世界だろう。  冷たい刃を首筋に沿わせる。鏡に映る自分に怯えはなく、高揚した表情さえ見せていた。この刃を引いてしまえば、今よりもっと良い世界が訪れるはずだ。  鏡の自分が笑う。茅は首筋を掻き切った。鋭い痛みが走る。切れた部分が焼けつくように熱を持つ。つうっと赤い雫が首筋をなぞる。  刃が古くなっていたのか、それとも加減を誤ったか、首には薄く赤い線が残っているのみで、期待していたような惨状にはなっていない。 「あはは」  渇いた笑いが口から漏れ出る。その場に崩れ落ちるように座り込んで、首元に手をやった。拭い去るように手を動かしてみれば、べちゃりと血がついている。 「ちゃんと痛いじゃん」  誰に言うわけでもなく不満を口にした。ヒリヒリとした痛みがあるだけで、傷口が治る気配はない。  誰もいない家で一人、剃刀を持って首から血を流している自分が何だか情けなくなった。生に対する情熱も死に相対する勇気もない。中途半端でどっちつかずの臆病者だ。  東が帰ってきたらきっと怒られるだろう。軽蔑されるかもしれない。いや、優しい彼のことだから心配するのだろうか。それならばいっそ、侮蔑の目で見られた方が幾分か気持ちが晴れる。  こんな半端なままでは駄目だ。生きることにも死ぬことにも執着している。蝙蝠のままではいられない。  もう一度、刃を握りしめる。次は失敗しない。鏡の中の自分がもう一度笑った。首元に沿わせた刃を、今度は味わうようにゆっくりと引き切る。 「ふ、ふふ、ふふふ……」  意味のない笑い声と一緒に首筋からたらりと雫が垂れていく。ぞわぞわとした感触が背中に走る。それは脳に到達すると、暴力的な快楽と苦痛を全身に駆け巡らせていった。  飢えきった獣の締まりのない口から漏れ出す涎のように血が溢れていく。急速に世界から安定と音が失われ、何もかもが遠のいていった。視界はぼんやりとしているのに、鏡の自分は口角を吊り上げているような気がした。  止まらない出血に思わず手が首筋を押さえる。どくどくと溢れ出す血が手も首も服も床も汚していく。  最早立っていられなくなった頃、心臓がドクンと跳ねるように鼓動した。荒い呼吸はそのままに視界が真っ黒に染まっていく。眩んでいるというよりも黒い何かに目隠しされているような感覚に脳が焼けついた。虫が眼球を這うように粘液が眼孔から這い出て周囲を包み込んでいく。身体中の穴からそろそろと這いずり出た彼らは首筋に集ると、ジュルジュルという不快な音を立てながら傷口を埋めていった。  ふっと身体が軽くなる。朝一番の日光を浴びたかのように視界が明るくなった。顔を上げて鏡を見てみれば、首元には血の一滴も垂れていない。薄らと瘡蓋になった線だけが残っていた。  それでも先ほどの光景が夢でないことは、赤く染まって重たくなったシャツが教えてくれていた。受け入れざるを得なくなった悪夢の続きに、茅は腹を抱えて笑いたくなった。
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