三、背徳アタナシア

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「ふっ……うっ……」  息を止める。剃刀で撫でるように腕を切れば、痛みと共に鮮血が走った。ほうと一息吐いて目を閉じる。赤い血がたらりと腕を伝うだけで治る気配はない。 「やっぱりそうなのかな」  身体中をくまなく見回す。  シャツもズボンも脱いで下着だけになった茅の身体には真新しい傷がいくつもついていた。首筋、腕、胸、腹、脚、指先——身体中から薄っすらと血が滴り落ちている。  茅には自身を故意に傷つけようという意思はなく、全ては実験のためであった。身体中のあらゆる部位を様々な力加減で損傷させ、修復されるかどうかの有無と修復される過程を観察しているのである。  それは側から見れば単なる自傷行為に過ぎなかったが、今の茅にとっては非常に有意義な行為であった。  茅は時間も場所も忘れて身体中を切り刻み、はたと思いついた。剃刀だけでは不十分であると。   短く小さい刃ではなく、長く大きい刃物で身体を一突きしたらどうなってしまうのだろう。  考えるだけで脳が甘やかに痺れる。きっと痛いし血が出るに違いない。だけどその後はどうなるのだろう。想像だけで留めておくにはあまりにもったいない。  茅は剃刀を放り捨てると洗面所を後にした。  居間に戻る。開け放たれたカーテンの向こうはとっぷりと暮れていた。窓ガラスには傷だらけの己が反射しており、その滑稽さに茅は笑ってしまう。  一体自分が何をしているのかも、どうしてこんなことをしているのかもわからない。ただ熱に浮かされるように台所へと向かった。  祖父は釣りをする人であったから、この家には立派な刺身包丁があった。滅多に台所に立つことのなかった祖父であったが、魚を釣ってくると必ず自分で捌いていた。  茅は今でもその光景をよく覚えている。銀色に美しく光る刃が、透き通った魚の身を泳ぐように切っていく。そして皿に盛られた彼らは食卓に上るのだ。  思い出を彩った包丁を引き出しから出してみるが、長らく主人を失っていたそれは鉛色の鈍い輝きを放つばかりであった。  仕方なく茅は砥石を取り出すと、いつか祖母がしていたように砥石を水で濡らして研ぎ始める。素肌を晒して包丁を研いでいる自分がいよいよ阿呆に思えてくるが、この刃渡りで身体を傷つけたらどうなってしまうのか好奇心の方が勝った。  流水を薄く纏った砥石で刃を研磨すれば、いつか見た煌めきが姿を現した。包丁を研いだことなどなかったので、覚えている姿よりは不完全な状態に思えるが、それでもほかのどんな刃物よりも一等美しいことに変わりはない。  これで身体のどこを刺してしまおうか思案に暮れる。顔、首、胸、腹、腿——と包丁の背を滑らせるように押し当てた。  そういえば祖父が魚を捌くときに腹に刃を入れて下ろしていた光景を思い出し、どうせなら自分も同じように捌いてしまおうと切っ先を腹に向ける。  薄っすらと骨の浮いた肉のない腹に刃先が触れただけで、茅は気持ちが高揚した。脳から迸る快楽物質が身体中を毒す。興奮で頭がどうにかなってしまいそうだった。  そうして夢中になっていたものだから、茅は玄関の戸が開く音を聞いて肩を震わせた。突然のことに身体が反応できず、シンクを背にしたまま居間の扉を見つめる。  ただいま、という聞き慣れた声と共に扉が開き、東と目が合った。 「おかえり……」  とんでもない痴態を見られたようできまりが悪い。羞恥のあまり東の顔を見られなかったが、ただいまと言われたのに返事をしないのも悪い気がして、蚊の鳴くような声で呟いた。  そんな茅の葛藤など東にはわかるはずもない。  目の前には全身に刻まれた傷口から血を垂らし、包丁を持って今にも自殺しようとしている茅の姿。考えるよりも先に身体が動いていた。  東は包丁を持っていた茅の手を蹴飛ばす。床にカランと乾いた音を立てて包丁が落ちた。茅が拾おうとするよりも先に、東は包丁を足で薙ぎ払う。それは二人の手の届かない場所へと床を滑っていった。 「あっ」  茅は遠ざかっていく包丁に視線を向けたが、目の前に東が立ち塞がったので、嫌でも彼に目をやることになった。おそるおそる彼の顔を覗き見れば、予想していたどんな表情とも違う苦しそうな顔をしている。  茅には何故、東がそんな顔でこちらを見るのかわからなかった。  東は茅の前に腰を下ろしてその手を引く。細くて頼りのない身体はそれだけで前に倒れる。東は両腕で包み込むように茅を抱きしめた。  東の身体にすっぽりと覆われた茅は身動きがとれず、しばらくそうして固まっていたが、だんだんと彼の体温の心地よさに身体の力が抜けていく。茅は東の身体にもたれかかるようにして目を閉じた。耳元で聞こえる東の呼吸は酷く震えている。 「東くん?」 「……茅」 「うん」 「二度とこんなことしないでくれ」  背中に回された腕に力がこもった。苦しいほどに抱きしめられていたが、その苦しさが茅には心地よい。 「……ごめんなさい」 「茅が謝る必要なんてない。守ってやれなくてすまなかった」  東がどんな顔をしているのか、抱きしめられている茅にはわからなかった。ただ泣きそうな声でそう言うものだから、自分がとんでもなく悪いことをしてしまったような気がして、罪悪感だけが胸に残る。 「あのね、東くん」  抱きしめられたまま茅は口を開いた。  東はその呼びかけに小さく返事だけして動く気配はない。 「僕、人殺しちゃった」  東は何も言わなかった。茅も東が口を開くのを待つことなく話し続ける。 「僕ね、人じゃないかも。怪物かもしれない。黒くて粘ついた気持ちの悪い何か。どんなに自分を傷つけても、致命傷になる傷だと治されるの。死ねないんだよ。だから心配しないで。死なないから」  息をするのも忘れて言葉を吐き出す。妄想や幻覚だと言われたとしても、吐露せずにはいられない。いっそお前は疲れているのだと笑い飛ばしてほしかった。 「茅」 「うん」 「俺はお前の言うことを信じるよ」  どうして、と呟く。こんな荒唐無稽な話を東が信じるとは到底思えない。  東は茅の身体をゆっくりと離す。向かい合うように座れば、東の真剣な瞳が茅を見据えた。  途端、気恥ずかしくなって茅は顔を背ける。考えてみれば服も着ていない。羞恥で顔が赤くなる。 「話があるんだ」 「……その前に服着てもいい?」  東は真面目な顔で茅の言葉を聞き、数秒の間を置いてから大きく息を吐き出すと、力が抜けたように笑った。 「そうだよな。もう寒いしな」  とりあえず、と東は着ていたウィンドブレーカーを茅に羽織らせる。 「服、取ってくるよ。ジャージでいいよな」 「うん」  身体は冷え切っていたし、全身の傷が痺れるように痛い。どうして今まで何も感じていなかったのだろうと不思議に思うほどに、痛覚や感情が流れ込んでくる。  東は忙しなく音を立てて茅のもとに戻ってきた。手にはジャージが握られており、「ほら」と茅にそれを放り投げる。 「ありがとう」  いそいそと渡された服を着ていく。ちらりと東の顔を見やれば、仕方ない奴と言わんばかりの呆れ顔であった。
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