三、背徳アタナシア

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「そういうわけでもうずっと帰れてないんだよ」 「それは……災難でしたね」  東は形の良い眉をピクリと跳ね上げて、後藤の言葉に同情した。  地域課が設置された一室。  束の間の休憩に浸る後藤は同期の東を捕まえると、延々と仕事の愚痴を溢す。  東は少し離れたデスクから、こちらを鬱陶しそうに見つめる篠原の視線に多少の申し訳なさを感じながらも疲労困憊の同期にコーヒーを手渡した。 「俺もさ、仕事だから今更死体なんか見たって何とも思わないよ。もう何年と見てるんだから。臭いなとは思うけど。ただあんなもん四六時中見たくはないよ。死体見て、防カメ見て、死体見て……家にも帰らずさあ」  そんな今更、と言いかけて口を噤む。この仕事においてあってないような就業時間に今更不満を持つなんて時間の無駄だとは思うが、だからといって文句も言わせないのは酷な話だと東は思い直した。  葦野公園で死体が発見されてから二日後。事件は解決の兆しを見せることなく、疑問と不審点が積み重なるばかりで、担当刑事の後藤は頭を抱えていた。  ここしばらく目立った事件のなかった平和な町に突如降って湧いた凄惨な殺人事件は、刑事たちから休日と睡眠を容赦なくもぎ取り、後藤からは洗濯する時間をも奪い去った。彼は縒れたシャツの襟を忌々しげに直し、紙コップに注がれたコーヒーを飲み干す。 「やっぱり結婚するしかないよな」 「どうしたんですか、急に」 「刑事課の諸先輩方はほとんど妻帯者だろ。だからかなあ、なんか缶詰にされてもまだパシッてしてるというか。いいなあ。俺も家帰って家事全部してくれる奥さんがいたら、もうちょっと頑張って働くのにさ」 「はあ」  いよいよ篠原が嫌悪の表情でこちらを見てくるものだから、東は返事をしあぐねる。 「北門って家事とかどうしてんの?」 「どうって……自分でやってますけど」 「同居してるんだろ? やっぱり家事とか分担? ていうかお前、彼女とかできたらどうするんだよ。家呼べないじゃん」 「いや、まあ、ハハ……」  後藤の質問に対して具に答えるのも馬鹿らしい気がして曖昧に笑って受け流す。  そんなことより、と前置きして東は本題へと切り出した。 「さっき言ってましたけど、例の遺体、身元が判明したんですか」 「ん? ああ、トランクに詰め込まれた方だけな。松木っていう入相(いりあい)にある薬品工場に勤めてる男だったよ」 「よく割れましたね」 「前持ちだったから、そいつ」 「ああ、なるほど……。ちなみに何やらかしたんですか」 「窃盗と詐欺だったかなあ。割と出たり入ったりを繰り返してたらしい。最近になって、出所者の生活やら就職やらを支援する『昼子(ひるこ)の海』っていうNPO法人の援助を受けてたみたいでさ。一週間ぐらい前かなあ、職場にも来ないし連絡もつかないっていうんで、団体から一応届出が出てたらしい」  昼子の海という名前に東は聞き覚えがあった。葦船市では唯一の出所者を支援する団体で、仕事中に幾度か職員と話した記憶がある。 「詳しいことはわかってないんだが、どうも支援団体からの援助金をギャンブルに全部注ぎ込んだみたいでなあ。それで逃げたんじゃないかって話だったが」 「それは……まあ、ありそうな話ですけど。しかし、それだけで行方を晦ませるものなんですかね」 「さあ。こっちは身元が割れたからいいんだけどなあ。どうも残りが」 「顔のない方ですか」 「解剖に回したんだけどな」  後藤はどうにも解せないといった顔で首を傾げる。 「骨が多いって言うんだよ」 「骨が?」 「人間ってこう背骨があるだろ」  後藤はそう言って、宙に緩やかなS字曲線を描いた。 「背骨って頸椎、胸椎、腰椎の三つに分かれるんだけどさ。上から骨の数が七、十二、五個なわけ。それが遺体は二体とも胸椎と腰椎の数が通常より多いらしいんだよ。上から七、十三、七個って」 「へえ。それは変わってますね」 「変わってますね、じゃないんだよ。二体ともだぞ?」 「骨格に特徴がないよりある方がいいじゃないですか。身元も洗いやすくて」  知らないですけど、という言葉を飲み込んで東は微笑んだ。警察学校に入校して以来、地域課にしか所属していない東は、刑事課については明るくない。刑事実習で少しだけ仕事を手伝ったのが最後である。 「そういえば、今日はどうして本署にいるんだ? パト勤か?」 「いや、遺失届の書類が切れそうだったんで。あとトイレットペーパーも」 「それは急を要するな」  後藤は苦笑すると、握っていた紙コップをゴミ箱に捨て伸びをした。 「じゃあ、俺はそろそろ仕事に戻るわ。北門もサボりはほどほどにな」  手をひらひらと振って去っていく同期を見ながら、「貴方に引き留められてたんですけどね」と東は小さく独りごちた。  篠原のデスクを覗き見れば、彼女はとっくにこちらへの関心を失ったようで、パソコンを睨みつけている。  そろそろ交番に戻るかと腰を上げて、東は廊下へと出た。
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