三、背徳アタナシア

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 正面玄関近くに居を構える交通課へと歩みを進めれば、免許更新に来庁した市民でごった返していた。  交通安全協会の職員はそんな光景にも慣れた様子で、表情一つ変えることなく仕事をこなしている。  ふと正面玄関から制服姿で出ていくのも悪目立ちするだろうかと思い、裏口に行こうか迷っていたところで聞き慣れた声が東を呼んだ。  咄嗟に振り向いてみれば、そこには茅が所在なさげに佇んでいた。彼は首元の詰まったパーカーを着ており、袖口を引っ張るようにして握っている。茅は家ですら傷を見せまいとしきりに気にしていたので、家の外ならば尚更だろうと東は思った。 「よかった。ちゃんと東くんだった」 「何だよ、ちゃんとって」 「制服着たお巡りさんってみんな一緒に見えるから、声かけたのはいいけど違ったらどうしようと思って」 「一緒に見えるもんかなあ」  茅は少しはにかんでから、不思議そうな目で東を見つめた。 「そういえば、今日はどうしてこっちにいるの? 交番は?」 「書類のストックが切れたから寄ったんだよ。これから交番に帰るところ」 「良かった。別に事件が起きたとかじゃないんだ」  茅はホッと胸を撫で下ろすと、周囲をキョロキョロと見渡す。東もその視線につられて辺りを見回したが、茅が何を探しているのかはわからなかった。 「どうしたんだ?」 「あ、いや、刑事課はどこだろうと思って……」 「ああ、二階にあるよ。案内しようか」 「いいよ。お巡りさんは早く町の平和を守りに行って」  手を口元にやり、茅は小さい子供のようにころころと笑う。その笑顔に懐かしい面影を見て、東は笑い返した。 「じゃあ、またね」 「ああ。あんまり無理するなよ」 「大丈夫だよ」  茅は手をひらひらと振って東を見送る。後ろ姿が遠ざかっていくのを見届けると、少年のような笑顔はすっかり消え失せて、陰鬱な顔で階段へと歩みを進めた。  正直なところ、事情聴取にはあまり乗り気ではない。元より知らない人間と対話するのに体力を消耗するというのもあったが、塞ぎ込んでからというものの突然何もかもが面倒になることが多かった。  事情聴取に関しても話を聞いたときはどうとも思っていなかったが、今日になってふっと嫌になってしまったのだ。  こうなると自分でも打つ手がない。仮病と偽って布団から動かずにいたかったが、何せ行き先は東の職場である。茅は警察組織の連絡網がどうなっているかなど知る由もなかったが、警察署に行かなかったことを東が知らないとも限らなかった。彼に心配をかけるのは忍びがない。それに心配をかけたという事実が自分の心を重くする。  だから仕方がなく、いつぞやサイズを間違えて買ったきりタンスの肥やしになっていたパーカーを引きずり出して、鬱々とした気持ちのまま家を出た。  とぼとぼと迷子になった子供のように歩いていると、刑事課と書かれたプレートが見えてくる。部屋は扉が開け放たれていたが、茅には重厚な鉄の門のように思えた。  しかし彼らも仕事でやっていることなのだ。ここで自分が気怠げな態度をもって臨めば、さぞかし不快な思いをするに違いない。それは茅にとって不都合である。彼らは部署は違えども、東の仕事仲間なのだから。  深呼吸をして気分を入れ替える。できるだけ真剣な顔つきをすると、茅は開け放たれたドアを三回ノックした。 「すみません……」  窺うように扉の先を覗けば、体格のよい強面の男たちがこちらに視線を向けた。思わず後ずさりしそうになるのを堪える。  小さなモニターを神経質そうに見つめていた男が一人立ち上がると、疲れた笑顔で茅のもとへと駆け寄った。 「こちら刑事課なんですが、どうかされましたか」  中年男性がひしめき合うこの部署の中で、男は比較的若手のように思えた。隈があるせいでわかりづらいが、東と大して年齢も変わらないだろう。茅は少し安心して口を開く。 「あの、事情聴取ということで、お話を伺っていたんですけど……」 「事情聴取……ああ、鬼生田さんですか」 「あ、はい。そうです。鬼生田茅です」 「ああ、はいはい! ご足労いただいてすみません」  男はちらりと背後を振り向き、困ったように眉を下げた。 「すみません。今、ちょっと担当の者が席を外しておりまして……。少しお待ちくださいね!」  彼は近くのデスクに座っていた同僚に声をかけると、小声で何かを質問する。大方、担当刑事がどこに行っているのか聞いているのだろう。市役所でもよく見る風景であった。  同僚から返事を受けた男は苦虫を噛み潰したような表情をする。そのやり取りを見つめながら大人しく待っていると、男はやがて申し訳なさそうな表情を前面に押し出してこちらへ戻ってきた。 「すみません。ちょっと別件で外に出ているみたいでして……とりあえず、部屋を用意してあるのでそちらにご案内しますね」  男はスタスタと歩みを進めて、廊下の突き当たり左手にあった硬質な鉄の扉を指さした。 「ここです。どうぞお入りください」  無骨な扉とは打って変わって、室内は柔らかな雰囲気であった。中央には白いテーブルと深めに腰をかけられそうな椅子が用意されている。 「少しお待ちくださいね」  疲れた顔の男はそのまま踵を返して部屋から出て行った。  何となく座る気になれなかったので部屋を一周する。  窓際には棚が置かれており、冊子が収納されていた。一冊手に取ってみれば、被害者支援についての小冊子のようだ。パラパラと軽くページを捲って元に戻す。  棚の上には花が飾られていた。見たことはあるが名前の知らない花ばかりだ。唯一黄味がかった色の百合が生けられているのはわかったが、だからといってこの場では何の役にも立たない知識である。    ぼんやり百合の花を眺めていると扉の開く音がした。音の方を見れば、先ほどの男が書類を抱えて立っている。 「座ってくださって大丈夫ですよ」  男は申し訳なさそうに笑いながら茅の椅子を引いた。 「すみません……」  茅は消え入りそうな声で謝り、大人しく椅子に座る。男がまじまじとこちらを見てくるので、いたたまれず視線を逸らした。 「今日は僕がお話をお伺いさせていただきます。刑事課の後藤です」  後藤と名乗った刑事は一枚の名刺を茅に渡した。恭しく受け取りつつも、頭の片隅では警察官も名刺を所持していることに少し驚く。よくよく考えてみれば、彼らもまた自分と同じ公務員であるのだから不思議なことではないのだが。 「大体一時間から二時間ぐらいかかると思ってください。今日は体調の方は大丈夫ですか?」 「えっ、あっ、はい」  茅は口籠りながら所在なさげに視線を漂わせた。後藤はそんな様子の茅を見て、何か思いついたように口を開く。 「鬼生田さんは地域課の北門と知り合いでしたよね」 「え? あ、はい……」  突然東の名前を出され、茅はたじろいだ。後藤はそれを気にする素振りも見せず笑顔のまま語る。 「自分、北門とは同期なんですよ」 「あっ、そうなんですか」  東と同期と言われ、茅は後藤に親しみを感じると同時に気まずさも感じた。この場で話すことが口外されないとしても、東の同期生に自分のことを知られるのには抵抗がある。自分が変わり者だと思われるのはまだよいが、東の知り合いとしてそう思われるのは避けたい。 「えっと、それでですね。もしかしたら北門から聞いているかもしれないんですが、事件についてお伺いするうえで、答えづらいことや話したくないことについても聞いてしまうと思います。しかし、捜査上必要なことになりますのでご協力していただけると幸いです」 「わかりました」  茅は今にも消え入りそうな声で返事をすると小さく頷いた。
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