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「まず初めに住所、氏名、年齢、職業をお願いします」
ぽつりぽつりと独白するように茅は後藤の質問に答えていく。職業は、と言いかけて口を閉じた。しばらく逡巡した後に、言い淀むようにして言葉を返す。
「市役所に勤めています。今は……その休職中なのですが」
振り絞るようにして吐き出した言葉に、後藤は相槌を打ちながら調書をとるばかりで特に反応を見せることもない。その彼の態度に茅は少し安堵した。
「公園に来られた正確な時間は覚えてますか?」
「最後に時計を見たのが昼過ぎだったので、正確な時間は何とも……。一時とかだったのかな。それから祖母の入居する介護施設に行きました。一時間もいなかったと思います。そこから十分か十五分かけて公園に到着しました。だから二時過ぎには公園の第一駐車場にいたと思います」
「なるほど。公園には何をしに?」
「その……一年ほど前にうつ病という診断を受けてからほとんど外に出なくなって。担当医が少しは外で運動した方がいいと言うので、それで散歩がてらに寄ったんです」
茅はおそるおそる後藤の様子を窺ったが、彼の態度は相変わらず平常で、自分の病気について可哀想なものを見るような素振りを見せることもない。かつて東が同期生の一人が心の病で職場を去った話をしていたのを思い出す。彼もまたそういった人間を多く見てきたのかもしれない。
そう思うと途端に話をするのが楽になる。後藤から聞かれた質問に辿々しくも受け答えがしっかりできるようになり、茅は胸を撫で下ろした。
「被害に遭われたときの状況について、教えていただけますか」
時計の長針が一周した頃、後藤がそう切り出した。茅の脳裏にあの日のことが蘇る。
首筋を噛みちぎられ、生温かい血がどくどくと流れ出していく感覚。皮膚を、肉を、突き破られる痛み。
どれも実際に体験したことであったが、この刑事に説明したところで理解してもらえるとは思えない。だからといって嘘をつき、いたずらに彼を惑わすのも道徳的ではなかった。
「その……あまり覚えていなくて。すぐに気絶したものですから」
「どんな些細なことでもいいんです。何か覚えていませんか」
茅は言葉に詰まった。覚えていないの一点張りでこの場を押し通せるほどの度胸もないが、正直に話したところで白けた顔をされるのがオチである。
「展望台の螺旋階段に首吊り死体が見えたんです」
茅がそう言うと、後藤は興味深そうな表情でペンを走らせた。
「それでパニックになっていたら足音が聞こえて、思わず石碑の後ろに隠れました」
「隠れた?」
「別に後ろめたいことはないので、隠れる必要がなかったのはわかってます。ただ僕が通報するより他の人が通報してくれた方が、僕は責任を負わなくて済むというか……。すみません。こんなのって最低ですよね。でもそのときはとても人と話せるような気分じゃなかったので……」
「なるほど」
後藤はただ一言相槌を打っただけで、特に反応を示さない。彼が自分の気持ちに理解を示しているのか、呆れてものも言えないのか、はたまた興味がないのか、茅にはわかりかねた。それでも責められないことに安堵する。
「石碑から様子を覗いていたら、展望台側の整備されていない道の方から二人組の人影が上がってくるのが見えました。黒い服を着ていてフードを目深に被っていたので顔まではわかりません。身長が高くて体格も良かったので男性のように思いました。彼らは大きなボストンバッグを所持していて、螺旋階段から死体を下ろすと、死体を折りたたんでバッグに詰め始めました」
茅は俯いて机の一点をぼんやりと見つめた。
「さすがに警察に通報しようと思ってスマホを取り出したんですけど、手を滑らせて地面に落としてしまいました。彼らはそれに気付いたようで、僕は山道目掛けて一目散に走りました。でも途中で石に躓いて転んでしまって……二人組のうちの一人が馬乗りになってきました」
「犯人の顔は見ましたか」
「顔は……その覚えていなくて」
「どんなことでもいいんです」
「その……獣のような臭いがして……」
土の匂いが。獣臭さが。甘ったるい血の香りが。微粒子となって鼻腔にこびりついているような気がして、茅は思わず吐き戻しそうになった。咄嗟に両手で口を覆い、空嘔する。
「大丈夫ですか?」
後藤が立ち上がり、椅子がガタリと揺れる。茅の顔はすっかり真っ青になっていた。
「大丈夫です……すみません。思い出したら気持ち悪くなって……」
「ちょっと休憩しましょうか」
茅は首を横に振った。
「もう大丈夫です。すみません」
後藤は一瞬戸惑ったような顔をしたが、茅が頑なに首を振るのを見てか、それ以上は何も言おうとはしなかった。
「目がギョロギョロとしていて、口は常に笑っているようでした。歯列が特徴的で……不揃いというか。すみません。あとはあまり覚えていなくて……」
真実を全て語るわけにもいかず、要素を掻い摘んで話す。怪しまれはしないかとこわごわしたが、後藤の顔は変わらず真剣で、こちらを訝しんでいる様子はなかった。
後藤は机に置いていた書類の束から一枚の写真を取り出し、茅の前に差し出す。写真に視線を落とせば、そこには薄汚れたジャンパーが収められていた。
「これは……」
「ご存知かもしれませんが、事件のあった翌日の早朝に、展望台近くの第三駐車場で三人の遺体が発見されました。これはそのうちの二人が身につけていた衣服です」
フードのついた黒のジャンパーは、おそらく茅を襲った忌まわしい怪物が着ていたもののように思えた。しかし茅の視線を釘付けにしたのは服そのものではない。衣服に付着した黒い粘液状の汚れであった。
「この汚れは……」
茅は上着についた粘液を指差し、後藤の顔を見つめた。茅の瞳が揺れ動く。そこには戸惑いの色が溢れていた。
「発見されたときに付着していたものですね。まだ何の汚れかは判明していないのですが。何か心当たりが?」
「あ……はい。確かにこんな感じの上着を着ていたと思います」
やはり夢などではない。この艶めいた厭らしい粘液は、まさしくもう一つの姿の自分のものだ。
果たして自分は怪物であったのだ。
果たして自分が殺したのだ。
「それとこれを」
後藤の声を聞いて、茅はゆっくりと顔を上げた。後藤はもう一枚の写真を差し出した。
五十代ぐらいだろうか。憮然とした表情の男が写っている。浅黒く日焼けした顔には険しい皺が刻まれていた。
「この男に見覚えはありませんか」
茅は静かに首を横に振った。
後藤は少し落ち込んだような表情を見せたが、茅はそれには目もくれず、上着の写真だけを見つめていた。
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