三、背徳アタナシア

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 手続きを終えて警察署を出た頃、空は夕焼け色に染まりつつあった。茅は車に乗り込むと、迷うことなく車を走らせる。  この町の中心を横断する線路を越えて山の方へと進んでいけば、曙という地区に辿り着く。この地区にひっそりと佇む交番こそが東の配属先であった。  交番の敷地内にはミニパトカーが駐車されており、この交番の警察官が中にいることを示している。  茅はパトカーから少し離れた位置に車を駐めた。窓から差し込んだ夕日が茅の顔を赤く染める。その瞳は蝋燭の光のように揺らめいていた。    赤銅色の壁は空の色を映して、一層赤く燃えていた。窓から中を覗けば、制服姿の東が書類にペンを走らせている。  ——普段の自分なら、仕事中の彼のもとを訪れるようなことをしないだろう。だから、きっと、少し変なのだと思う。  茅は引き戸に手をかけた。カラカラと軽い音を立てて戸が開く。音に気付いた東が来訪者を確認しようと顔を上げた。 「東くん」  抑揚のない声が東を呼んだ。  逆光になっているせいか茅の顔には影が落ちていて、彼がどのような顔をして自分を呼んでいるのか東にはわからなかった。 「茅?」  呼びかけに応えるように茅が一歩を踏み出した。古い交番の蛍光灯が放つ弱々しい光に照らされて、彼の顔が映し出される。その瞳はぬらぬらとした淫靡な光沢を帯びていた。  東の知らない顔で茅は微笑む。薄い唇が三日月を描いた。 「怖いんだ、僕」  妖艶な表情には似つかわしくない言葉に、東は一瞬たじろいだ。茅は相変わらず妖しい笑顔を浮かべたまま、東を見つめていた。 「もしまた僕が怪物になって、僕の知らないうちに誰かを殺してしまったらと思うと怖いんだ」  東は口を開くことをせず、ただ茅を見つめ返した。茅も返事がないことを気にかける様子もなく、矢継ぎ早に喋り続ける。 「やっぱり僕が殺したんだよ。僕が殺したので間違いないんだ。きっとまたいつか僕は誰かを殺してしまう。でも僕はそれをコントロールできない。次に誰を殺してしまうかわからない。もしかしたら僕は東くんを殺してしまうかもしれない」  茅の潤んだ瞳が揺らめく。 「……怖いよ、東くん。僕は僕が怖い」  東はしばらく黙っていたが、それから帽子を脱いで頭を乱暴に掻くと机の前に置かれた椅子を指差した。 「とりあえず座れよ」  茅は逡巡した後に大人しく椅子に座った。  煤けた小さな交番はどこまでも静かで、時計の針が時間を刻む音だけが部屋に響く。 「何かあったのか?」  東は眉を下げて困ったように笑い、茅の顔を覗き込んだ。今にも泣きそうな顔が東の目に入る。 「事情聴取、辛かった?」  茅は首を小さく横に振った。 「辛くはなかったけど……」 「けど?」 「刑事さんに写真を見せてもらって——駐車場で見つかった遺体の身につけていた上着だって。それがね、ぶよぶよとして気持ちの悪いゼリーみたいな粘液で汚れてたの。黒くて濁った汚い粘液で。あれは僕の一部なんだよ。僕の身体の中にはあの醜くて汚れた体液が渦巻いていて、それが体表に出ると磯巾着のようにうねうねと蠢くんだ。そうしてそれは僕の預かり知らぬところで、すっかり誰かを殺してしまうんだよ」  茅は首まで覆っていた襟を無造作に引っ張り、首筋についた赤い傷を人差し指でつうっとなぞった。 「茅はもう誰も傷つけないよ」 「どうしてそんなことが言えるの」 「俺は茅がこれ以上辛い思いをせずにいられるようそばで見てるよ」 「ずっとそばにいるなんて無理でしょ」 「いるよ。お前がそう望むなら」 「僕は……」  誰かがずっとそばで寄り添ってくれたらどんなにいいだろう。独りにしないでほしい。孤独は嫌だ。死ぬより辛い。  でも自分に人生を割くなんてことを許せない。何の価値もない自分と一緒にいるなんてことを許してはいけない。共に不幸になるだけだ。 「僕は怖いよ」  茅は手で顔を覆う。細く震える肩が彼の感情を表していた。 「どうして東くんは僕を責めないの」 「どうして責める必要があるんだよ」 「だって、僕が殺したんだよ」 「でも人じゃないんだろ」 「人じゃない、人じゃなかったよ……」 「殺虫剤で害虫を殺すことは罪か? 人を襲う野生動物を殺した人間は罰を受けるべきなのか? 虫も動物も人間も全員が同じ土俵の上で生きているわけじゃないのに、一緒くたにして考えるなんて無理だろ」 「僕は人じゃないモノを殺したから許されるの? それとも僕が人間じゃないから罰せられないの?」  茅は顔を上げた。東と目が合う。東の瞳はどこまでも冷静で、茅の質問を静かに肯定した。 「お願いだよ。他の誰が許しても、東くんだけは僕を許さないで。僕が一生罪を背負って生きられるように。良心の呵責に苛まれるように。僕を決して許さないで。僕は許されてしまったら、そのときこそ本当の怪物になってしまう。こうして苦悩していると、僕はまだ自分が人間であるような気がして安心するんだ」  だから僕を許さないで、と茅はか細い声で言った。 「わかった。俺はずっと茅がしたことを覚えてるよ」 「許さないでくれる?」 「どうかな。お前を許さないと言えるほど俺は優しくないよ。だからお前のしたことをずっと覚えてるってことで許してくれ」  茅は縋るような目で東を見たが、東は厳しい顔つきのまま表情を変えることはなく、茅の願いを聞き入れる気配はなかった。 「茅。もしお前が苦しむことがお前を救うのなら、この事件の全てを知るまで向かい合おう」 「……どういうこと」 「茅を襲った奴らが何者なのか。どうして奴らは死体を持ち帰ろうとしたのか。死体は何故あそこで首を吊っていたのか——この事件は疑問点がありすぎる。人間とは異なる理の中で生きている奴らがいることを茅だけが知っているのなら、お前だけが到達できる真相がある。この事件と向き合うことが罰になり、真相に到達することが贖罪になるかもしれないな」  それ以上は二人とも口を開くことはなかった。  五時を知らせる音楽が町中に響き渡っている。夕日の差し込む交番の中では静寂だけが漂っていた。
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