四、曖昧ノスタルジア

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四、曖昧ノスタルジア

 クリーム色をした二階建てのビルを前に茅は佇んでいた。この建物の二階に昼子の海という出所者を支援するNPO法人が入居しているはずであったが、年季の入った建物であるせいか物々しい雰囲気で、茅の来訪を拒んでいるようだった。  葦船市で起きた凄惨な殺人事件は、市内だけには留まらず全国ニュースとして放映された。決して大きいとは言えない田舎町で、三人もの人間が惨殺されたことになっているのだから無理もない。とはいえ世間を騒がせている事件の犯人はおそらく自分なのだから、茅はどうにかして決着をつけなければならないという思いでいっぱいだった。  発見された遺体のうち身元が判明したのは縊死した男の死体だけで、彼の氏名や職業は電波に乗って瞬く間に全国へと知れ渡った。情報の流出は恐ろしいほどに早く、インターネット上では男の勤め先から出身校までもが拡散されていた。そして彼が過去に罪を犯し、刑務所に入っていたことも——。  だから東から男が元受刑者であることを聞いたとき、茅はそのことに関して何も思わなかった。男の個人情報を根掘り葉掘り調べ上げて、インターネットに垂れ流している悪趣味な人間の方が余程身近に思えて怖かった。  茅が展望台で見た死体の男は、松木という中年男性であったという。彼は死体になる数日前からすでに行方不明届が提出されており、一応捜索されていたのだ。松木が元受刑者を支援する団体から援助を受けていたことを東から聞いた茅は、その団体の名前に引っ掛かりを覚えた。 「昼子の海……」  ビルに入居しているテナント名を表すプレートには、確かにその名前が刻まれていた。    入庁したばかりの頃、新人歓迎会と称する飲み会へ連れて行かれたことがあった。他人と会話するのも苦手で酒も好まない茅にとっては、苦痛を伴う夕食の場でしかなく良い思い出ではない。宛てがわれた席も管理職に囲まれている居心地の悪い場所だった。  とはいえ何も喋らないというのも気が引ける。一体何を話せばよいのかと口籠っていると、白髪が疎らに混ざった髪を丁寧に撫でつけた中年男性が茅に話しかけた。  彼は市民課が属している市民環境部の次長であった。同じ部署である人権擁護課の課長も兼任していたため、仕事で関わることはほとんどなかったが、茅の通っていた大学が彼の母校でもあったらしく、そのことについて尋ねてきたのだ。  仕事のことについて話すよりは、大学について話す方が茅にとってはよっぽどマシだった。それから少しだけそのことについて話したが、話題はどんどんと移り変わっていき、次長と二人で会話をしたのはそれが最後であった。  その後も特別交流はなく、庁内ですれ違えば挨拶をする程度で、その次の年には早期退職で市役所を去ってしまった。それきり会うことはなかったが、何かの折に退職祝いのお礼と近況を述べた葉書が届いた。文面にはとあるNPO法人にて第二の人生をスタートさせたと書いていたように思う。そのNPO法人こそが「昼子の海」であった。  松木が昼子の海と関わりを持っていたと聞かされたとき、脳裏に浮かんだのは例の葉書で、茅は家中をひっくり返して次長の連絡先を捜した。そうして見つかった災害時に使用される連絡網が書かれた紙には、次長の名前と電話番号がしっかりと記されている。電話というコミュニケーションツールを茅は酷く苦手としているが、背に腹は変えられない。憂鬱が頭を擡げるのを無理矢理押し込めて、茅は発信ボタンに指を触れた。  茅による突然の一報に次長は面を食らったようであった。兎に角、「昼子の海について尋ねたいことがある」と必死に熱弁すれば、向こうは事情が飲み込めないながらも来訪を了承してくれた。どう勘違いされたかは知らないが、全ては会ってから決着をつければよい。  重たいガラス扉を押し開けて、茅はビルへと足を踏み入れた。フロントを突き進んだ先にあるエレベーターに乗って二階に行けば、狭い廊下の先に件の事務所が陣取っている。  飾り気のない白の扉を三回ほどノックすると、中から声が返ってきた。茅はおそるおそる扉を開けて、怯えた小動物のように顔を覗かせる。    プリンターの前でファックスを送る準備をしていた女性社員が、茅を見るなり作業を止めて話しかけてきた。 「こんにちは。お電話いただいていた方ですか?」  和やかに話しかけられて戸惑っていると、パーテーションの向こう側から聞いたことのある声がした。 「ああ、鬼生田くん」  銀色の頭髪を撫でつけた老紳士が仕切りから姿を現す。記憶の中より幾分か老いを重ねた姿であったが確かに次長その人で、茅は慌てて頭を下げた。 「ご無沙汰しております」  赤べこになった茅を見た女性は、不思議そうな顔でパーテーションの方へ振り返った。 「村田さんのお知り合いですか?」 「前の職場で部下だった子ですよ」 「あら、市役所の……」 「うちの話を聞きたいそうで、今日は来てくれたみたいです」  女性は感嘆の声を出すと、「隣の部屋が今なら空いてますよ」とスケジュール表を見ながら付け足した。所在なさげに佇んでいた茅は、村田に伴われてこじんまりとした会議室へと案内される。
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