一、肉食グランギニョール

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 うつ病を患って一年弱になる。  実際のところそれ以前から傾向はあったのだから、より正確に言い直すとうつ病と診断されてから一年弱経ったことになる。  自覚があるのかと問われると難しい。心身共にすこぶる調子が悪いのだから、まともな状態でないのは確かなのだが、最早元の自分がどんな思考の持ち主で、毎日どうやって生きていたのか日に日にわからなくなっていた。  お前は病気なのだ、と言われればそうなのだろうと思うし、「僕は元来こういう奴で、今まで自覚していなかっただけなのではないか」と自身に問えばそうだったような気もしてしまう。  記憶や思考が常に曖昧で、霧がかかった森の中を彷徨い歩くように自己の所在がない。  仕事も休職してしまった。診断書を提出してから休むまでの数日間、少ないながらも任されていた仕事を引き継いでいる間、生きた心地がしなかった。  どれほど迷惑な人間だと思われたのだろう。ただでさえ窓口業務で忙しいのに、一人抜けてしまうのだから。いつ帰ってくるのか期間が不透明な分、一番困る休職の仕方かもしれない。  いや、愚図な自分が一人消えたところでさして困りもしないだろう。せいぜい雑用係がいなくなったぐらいにしか認識されていない可能性もある。  結局のところ、自分の存在は社会において何の役にも立っていないし、いなくなったところで代わりは星の数ほどいる。休職しても二年間は給与が一応支払われるのだから、そういう意味では貢献もなしに市民の血税で飯を食べる金喰い虫みたいなものだ。早く死んだ方が世のため人のためなのかもしれない。    病院も受診はしている。田舎にしては大きい精神科の病院だったが、主治医は常にカルテに向かってボソボソと喋り、付き人である東に時折話しかけるぐらいで、茅と会話することはあまりなかった。  「調子はどうですか」から始まり、「ご飯は食べていますか」「夜は眠れていますか」という定型文のような質問に、茅が二、三言返事をすれば問診が終わり、あとは薬をもらって帰るだけだ。  茅はSNRIと呼ばれるセロトニン・ノンアドレナリン再取り込み阻害薬という薬と睡眠導入剤を処方されているが、この薬がどのように作用してどのような効果をもたらすかについてはまったく知らない。  ただ薬を服用していると少しはマシになっているような気がしたし、飲まないと東が心配するので義務的に摂取しているだけだった。  そもそも病院自体、茅を心配した東に半ば強引に連れて行かれていなかったら受診していなかっただろう。毎日が辛いとは思っていたが、当然周りも辛いと感じていて、自分だけが特別苦しんでいるとは思わなかった。  病気と診断されてから、茅の生活は様変わりした。張りつめていた糸がプツンと切れたように何もできなくなった。  布団の上でぐったりと横たわる時間が生活のほとんどを占めている。今までは仕事と祖母の介護が生活の中心だったので、両方なくなった今、やることがない。  やらなければいけない家事は東がしてくれていた。仕事が忙しいのを知っているので、茅にとってその事実は心苦しい。  警察官である彼は三交代で勤務しているので、夜勤明けはほとんど寝ずに帰ってくることも少なくはない。それでも嫌な顔一つせずに接してくれるし、今日のように一人で苦しんでいると助けてくれる。  彼がいなければ自分の生活は成り立っていないだろう、と茅は思う。それと同時に心苦しくもあった。自分の知る限り、東という人間は正義感が強くて優しい男なのだ。きっと弱りきった友人を放っておけないのだろう。  東が自分を支えようとしてくれるのはありがたいが、彼には彼の人生があるのもまた事実だった。いつまでも自分に構っていたら、彼の人生が疎かにされてしまうのではないかと思って怖かった。  かと言って今の状態のまま東に捨てられてしまったら、自分は本当に立ち行かなくなるだろう。そうなれば潔く死を選んでしまう自分がいるのも確かだった。  矛盾した思いを抱え続けている。  こんなことを考えてしまう自分が嫌いだ。他人の好意に甘える自分が、向けられた好意を蔑ろにしようとする自分が——嫌いだ。  静かな夜は駄目だ。考えても仕方のないことをぐるぐると考え続け、どんどん自分を傷つけていく。  何も考えずに寝てしまうのが一番なのに、思考は止まることがない。早く薬が効いて眠れたらいいのに。すっかり眠ってしまって、いっそのこと目が覚めなければいい。眠るように死ねたらどんなに幸せだろう。  自分の呼吸だけが響く暗い部屋で、茅は物思いに耽りながら夜明けを待った。
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