四、曖昧ノスタルジア

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「すみません……突然押しかけて。ご迷惑だということはわかっているのですが、どうしてもお尋ねしたいことがあって……」 「いやいや。さあ、とりあえず座って」  部屋の中央には長方形の机が置かれており、二人は向かい合うようにして席に着いた。 「いやあ、随分とお久しぶりですね。僕が退職してからだから、もう三年ぐらいになるのかな。元気にしていましたか?」 「ああ、いえ、まあ……」  元気、という単語が茅の心を重くする。  この手の質問には肯定の返事をした方が円滑な会話の障害にならないことをよく知っていた。それでも素直に「はい」と言えないのは、あまりにも陰鬱な日々に身を置きすぎたからだ。  何も考えずに生を享受できていた頃の記憶はすっかり抜け落ちてしまった。今の自身の状態は、客観的に見れば正常と呼べるものではないのだろう。しかしこの状態が何年と続いている今となっては、今日この瞬間の自分こそが日常であり、「元気」な状態なのだ。  精神障害と診断される以前に比べれば、明らかに変化してしまったことは確かであった。けれども昔の自分に戻ることは決してないのだ。自身の心は憂鬱と粘着して、一つになってしまったのだから。 「ここの活動について興味を持ってくれたということでしたが、今日はどういうことをお話しすればよいのかな」 「その……すみません。僕は上手い言い回しなどできる奴でもないので、無礼を承知で単刀直入にお伺いします。今日は松木さんについてお聞きしたくて来たのです」  松木という名前を聞いて、村田は眉を跳ね上げると難しい表情を見せた。唸り声とも溜め息ともつかない声を出すと、彼は腕を組んで目を閉じる。 「ご存知だと思いますが、松木さんは先日、葦野公園の駐車場で死体となって発見されました。彼が生前、昼子の海から支援を受けていたと聞き、彼について知りたくてご連絡を差し上げたんです」 「ううん。その、君はどうしてその方について知りたいのですか? こうして足を運んでもらったのに申し訳ないですが、僕が仮にその方を知っていても、職務上話せることなどないのはおわかりでしょう」 「そうだと思います……でも」 「おそらく冷やかしや野次馬で来られたのではないと思いますよ。それは君の顔を見ていたら何となくわかります。それに本当だったら今は市役所の就業時間だからね。そうなると君はわざわざ仕事を休んでまで、僕のところに来たことになる」 「……何故、僕が松木さんについて知りたいか説明させてください」  茅はぴったりと首筋を覆ったハイネックに指を引っかけて布をずり下げた。露出した白い肌には痛々しい傷跡が残っている。村田は驚いた表情で茅の顔を見つめ返した。 「……今は精神的な病気で仕事を休んでいるんです。それであの日——松木さんの遺体が駐車場で発見された前の日、偶然現場の公園に居合わせて首を吊った松木さんの遺体を発見しました。けれどその遺体を遺棄しようとした二人組がいて、彼らに襲われたんです。これはそのときの傷です」  茅は首元を隠して服を整える。 「僕を襲った人間は、松木さんの関係者かもしれません。松木さんについて何か知ることができれば、僕を襲った犯人を突き止めることができるかもしれないんです」  村田は再び目を閉じると眉を顰めて唸った。茅は何も言わずに村田の様子を窺う。 「君が自分を襲った犯人を突き止めたいという気持ちはわかりました。しかしね、警察にはもう十分に情報を提供しているんです。君が病を押して動くより、警察に任せた方がずっと危険もないし、解決する可能性が高い。そうは思いませんか」  白い毛の混じった眉を下げて、村田は諭すように言った。俯いていた茅はゆっくりと視線を上げる。村田の目をしっかりと見据えると覚悟したように口を開いた。 「僕は事件と向き合いたいんです。犯人を捕まえて処罰を受けさせたいのではなく、自分の気持ちと決着をつけるためにこの事件の真相を知りたい。事件のことを警察に任せたまま、自分は何もせずにいるというのは嫌なんです」  茅の言葉を聞いた村田は口を真一文字に結んだ。ここまで話したからには、手ぶらで帰る気など茅には微塵もなかった。松木について知るには、ここしか残されていないのだ。  村田は腕を組んだまま何も言わなかった。茅もまた、村田をじっと見つめたまま無言を貫いた。静まりかえった空間で時間だけが流れていく。  先に口を開いたのは村田であった。彼は腕組みを解くと、両膝に手を置いて茅に視線を向けた。 「わかりました。少しこの件についてどうにかできないか考える時間をください。君が元の生活に戻れるように、できる限りのお手伝いをしましょう」 「……本当ですか?」  立ち上がった勢いで、椅子の脚がガタリと揺れる。茅の見開かれた瞳に灯火が宿った。 「ありがとうございます」  茅は深々と頭を下げた。しばらくは柔らかな笑みを浮かべていたが、徐々に不安げな表情へと変わっていく。   「その……」 「どうかしましたか?」 「ああ、いえ……こんなこと申し上げるのもおかしな話ですが、どうして僕に良くしてくださるのかわからなくて……。次長とお話ししたのも僕が入庁したときの歓迎会以来でしたし、僕のことなんて忘れていても不思議ではないと思うんです。それなのにどうして……」 「同郷のよしみとでも言いましょうか。君のことはよく覚えていましたよ。名字がこちらでは珍しいですから」 「名字ですか」  名字が珍しいというのは、人生で何度も言われた台詞だ。元は父方のものであるこの名字を茅は祖父母に引き取られてからも名乗り続けていた。珍しさゆえに揶揄われることもあったが、亡くなった両親との結び付きを感じられるこの響きを茅は愛していた。 「昼子島ではよく聞きました。あそこは鬼と付く名字が多いからね。鬼生田くんはきっと、親御さんが昼子島出身なのではないですか」 「父がそうでした」 「やっぱりそうでしたか。実はというと僕もね、今は村田というんですけれど、これは妻の実家のを名乗っているんですよ」  村田は一等寂しげな笑顔を見せると深く頷いたが、茅にはその笑顔の意味がわからなかった。
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