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「どうしてお金が必要なんですか」
「そりゃ酒買うために決まっとるやろ」
男は片手に握りしめていた缶ビールを逆さまにひっくり返した。飲み口からは一滴も雫が溢れないところを見ると、すっかり飲み干してしまったらしい。
襟元がよれよれになったシャツに着古したジャンパーが見窄らしく、この男に必要なのものが酒ではないことだけがわかる。
「お父さん、飲み過ぎじゃないですか? 家帰って休んだ方がいいですよ」
「儂ゃもう帰るとこなんかないけん、ええんじゃ」
男は突然声を張り上げると茅の肩を小突いた。手を出されるとは思っていなかった茅は、身体のバランスを崩し後ろへ転倒しそうになる。
他人に攻撃されたと思い込んだ自分がまた誰かを殺すかもしれない。咄嗟に茅は頭を打たないよう地面に手をついて転んだ。手を擦りむいたようで一瞬顔を顰めたが、特に大きな怪我をせずに済んで安心する。
老人はばつの悪そうな顔をして、茅に手を差し出した。
「ほんなちょっと小突いただけで大袈裟に倒れんでもええやろ。儂があんた、悪いみたいやんか」
差し出された手には小指が欠けていた。
茅は「あっ」と声を漏らして、男を見上げた。差し伸べた手をいつまでも握らず、驚いた顔でこちらを見る茅に男は訝しげな顔を向けた。
「何ぞぉ、兄ちゃん」
「失礼ですが、桃園誠一をご存知ではありませんか」
茅は縋るようにして男の腕を掴んだ。興奮のあまり見開かれた瞳は真っ直ぐに男を捕らえている。
茅はその昔、祖父が家に連れてきた仕事仲間に指のない男がいたのを思い出した。小さい茅が男の指に爪がないのを不思議に思って見つめていると、男は茅を近くに呼んで第一関節のない指を眼前に差し出した。男は仕事中に誤って指を落としてしまったのだと笑った。笑い事ではないと茅は怖くなった記憶がある。その男は紛れもなく、目の前にいる赤ら顔の老人であった。
「桃園さんとこの子ぉか!」
老人は大きく口を開けた。茅の顔をしばらく眺めて感嘆の声をあげる。
「えらい大きなったなあ。奥さんは元気にしとるんかいね」
「……はい。祖母は元気にしています」
「ほうかぁ。そりゃえかったわ。桃園さんの葬式にも行けんかったけん、どないしよんか気になっとったんよ。元気ならええわ」
茅は老人に少し待つように頼んで走り出した。近くの自動販売機で適当に飲み物を買うと再び川原へひた走る。息を切らしながらも子供のような笑顔を浮かべて、老人にコーヒー缶を差し出した。
「よかったら少し喋りませんか」
柄にもないことをしていると自覚はあった。ただ生前の祖父を知っている人間に会えて嬉しかったのだ。ぼやけていた家族との思い出が輪郭を取り戻していく。
老人は少し考え込む素振りを見せたが、礼を言って缶を受け取った。二人は川に臨んで座り込んだ。
「桃園さんが亡くなってからもう何年経つんかいね。お世話になったのに別れの一つも言えんで申し訳ない」
「よかったら線香をあげに来てください。祖父も喜ぶと思います」
「合わせる顔がないけんなぁ」
「どうしてです」
「そりゃ見たらわかるやろ」
男は快活な笑い声をあげて、自身の格好を指差した。ところどころ汚れて襤褸になった服が目に入る。
「祖父は気にしないと思います」
茅は静かに首を横に振るが、老人は寂しそうに笑うだけで返事をしない。
「いろいろあったんよ、いろいろ……」
男はゆっくりと流れる川を見てしみじみ呟いた。
彼に何が起こったのか茅にはわからなかったが、少なくとも良いことばかりという人生ではなかったのだろう。そうでなければ平日の昼間から酒に溺れて、他人から金を借りようとするはずなどない。
しかし何があったのか尋ねるのは憚られた。他人のことをあれこれ詮索するのは好ましいことではない。かといって、老人に何と声をかけるのが正解なのか茅にはわからなかった。
「その……お金が必要だとおっしゃっていましたが、今は手持ちがないので、後日でよければいくらか……」
「いらんいらん。やめてくれや」
「僕なんかにできることはないかもしれないけど、何か困っているなら話を聞きます」
老人はしばらくの間黙り込んで水面を睨みつけていたが、やがて乾いた笑いを漏らしながら茅の方へと顔を向けた。
「おっちゃんなぁ、お酒好きなんや」
本当に老人が酒を好きなのかは兎も角、飲まずにはいられないのだろう——茅は何も言わずに彼の足元に置かれた空のビール缶を見た。
「ほどほどにしとけばええのに、ついつい飲みすぎてしまう。飲んでる間は気ぃが大きなってなぁ。ほんで人に怪我させてしもたんや」
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