四、曖昧ノスタルジア

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「それは酒を飲んだ勢いで……ということですか」 「ほやなぁ。しょうもないことで喧嘩になったんよ。ほれで相手を怪我させて、駆けつけた警官の兄ちゃんも殴ってしもてなぁ」  男は力なく笑うと、両腕をぴったりと合わせて手首を上に向けた。ぐっと握り込まれた両手を見て、茅は「お縄についた」のだと思った。 「かみさんには愛想尽かされるし、仕事も上手くいかんなってしもて、今は根無し草よ」 「そうでしたか……」  茅は言葉に詰まった。  こんなとき祖父ならばどのように声をかけたのだろう。口下手な人ではあったが、その分人の気持ちに対して真摯に向き合おうとする人であった。祖父の友人であったから寄り添うような言葉をかけたいが、彼のしたことを擁護することもできない。しかし突き放してしまうのはあまりに残酷な気がした。 「……僕も似たようなものです。職場で上手くやれなくて体調を崩して……今は仕事を休んでふらふらしています」 「何の仕事しよったんぞね」 「市役所職員です」 「役所か。お祖父さんの仕事は継がんかったんか」 「僕みたいな奴にはとても……昔から体力がなくていけません。結局、市役所でも僕は何の役にも立ちませんでしたし」  茅は自嘲気味に笑った。  他人から役立たずの烙印を押される前に、自分を必要以上に卑下するのは茅の常套手段であった。茅の存在価値を決めるのは彼自身ではなく、周囲の人間なのだ。だから己を貶めて、自分への評価を下げる。決して期待されないように。期待されなければ、期待を裏切ることもないのだから。 「ええ、ええ。若いうちはそうやって悩むこともあるわ。ええんよ。若いってことは何でもできるってことやから」 「そうでしょうか。僕は若さだけでどうにかなるとは思えません」 「それが何とかなるんよ。若いってことは未来があるってことやから。何でもできる」 「……何かを始めるのに年齢は関係ないと思います」 「ほんなことないわ。やっぱり若い方がええ。儂なんかは今更どうしょうもないけど、君みたいに若い子はなんぼでもやりたいことできる。じゃけん、あんまり後ろ向かれん」  老人は皺の刻まれた浅黒い大きな手を茅の肩に置く。茅は黙ったまま小さく頭を下げた。 「ほれにこの町はそういう町じゃけん。そういう人間を受け入れてきた場所じゃけんね」 「そういう町?」 「ほうよ。ここは足りん人間を受け入れたけん、ここまで発展したんやから」 「それは……どういうことでしょう」 「今の若い衆はヒルコの子ぉの話なんか知らんのかぁ。ほいでも、儂なんかより桃園さんの奥さんの方がよっぽど詳しかったやろ。お父さんかお母さんが学校の先生じゃ言うて、この町の小さなことまでえらい知っとったわ。奥さんに聞いた方が早いんじゃなかろか」 「そうなんですか……」  祖母の両親のことについては初耳だった。祖母が郷土に関して詳しいことも。いつだって自分のことだけで精一杯で、茅は祖父母の血縁者まで考えたことはない。ただ老人の言うヒルコの子という言葉が心に引っかかった。 「ヒルコの子というのは何なのですか」 「ほれはあんた、昼子島の人間のことよ。儂らが子供の頃はそう呼ばれよった。特に人定(じんじょう)の方は鉱山で働くようになったヒルコの子が多かったらしいわ」  そう言われて茅は山の方を見つめた。  葦船市を南の方角に進めば、閉山になった鉱山がある。市内の人間でもそうそう訪れる場所ではない。道のりが険しいので油断をすると事故に遭う。茅も例に漏れず、そこを訪れたのは産業遺産研修の一回だけであった。  それよりも不思議なのは、島の人間を「ヒルコの子」と呼ぶ理由だった。茅の父親は島の人間であったが、そのような話は一度も聞いたことがない。 「何故、ヒルコの子と呼ぶのですか」 「知らんなぁ。周りはそう呼びよったけん、そういうもんじゃと思いよったけどなぁ。ほいでもあんまええ意味じゃないわ」 「……それは蔑称ということですか」 「ほうなるんやろか。……まぁ、ほうなるかぁ。まだ今でも気にしよる人はおると思う。そこらは奥さんの方が知っとるやろ。聞いてみんかい」  茅は島のことをほとんど知らない。父親の故郷であるというだけで訪れたこともない。それでも郷愁の念のようなものはあった。強く言葉にしてしまうのならば、茅は不快な感情を抱いていた。 「あの……何だか引き止めてすみませんでした。僕はもう帰ろうと思います。それで、あの、これ」  上着のポケットに入れたままになっていた名刺を茅は老人に渡した。 「そこは出所者の方の支援を行っている団体です。住む場所や就職の支援もしているそうなので、一度相談してみてください。市役所にも相談の窓口がありますから、行きやすい方に……それでは」  茅は頭を下げると、半ば押しつけるように名刺を握らせてその場を後にした。老人が背後で何か言ったような気がしたが、茅の耳に届くことはなかった。
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