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「ただいま」
玄関の引き戸を開けて家に入ると、醤油の匂いが漂ってきた。懐かしい匂いにつられて台所に向かえば、鍋の前で腕組みしている東が目に入る。
「ただいま、東くん。何作ってるの?」
「おかえり。角煮作ってるんだけど、できたら食うか?」
「角煮? どうしてまた急に……」
「何か食いたくなったから。それより着替えて来いよ。晩飯にするからさ」
「ああ、うん。そうだ、マフラーありがとう。洗って返すね」
「いいよ別に。洗うと言ってもこの家で洗うわけだし」
東はキッチンタイマーをセットし終えると、茅が首に巻いていたマフラーを外した。それから茅が手に提げていた本屋の袋を見て、期待したような笑顔を浮かべる。
「おっ、何か面白い漫画あったか」
「残念だけど東くんが喜ぶような本じゃないよ」
茅は一冊の本を取り出すと、東に表紙を見せた。つるりとしたハードカバーの装丁には、「葦野の歩み」と筆字の書体で記されている。
「何だこれ」
「葦船市の歴史や文化についての本だよ。郷土史というか風俗史というか。そういう本」
「確かに俺が喜ぶようなものじゃないなあ。何でまた急にそんな本を?」
「うん、まあ、ちょっと興味があって」
「へえ。じゃあ、晩飯できたら呼ぶわ。それまで読んでろよ」
「そうする」
茅は上着を脱ぎながら二階の自室へと向かった。手に持っていた上着を放り投げて床に寝転ぶ。買ってきた本を袋から取り出すと、寝そべったままの姿勢でページを捲った。
目次には葦船市とその近辺の土地に関する歴史や民俗文化を取り上げた章が並んでいる。昼子島に関する記載がないかと流し読みしているうちに、土地にまつわる伝承や昔話の記述に差し当たった。
「葦船市におけるヒルコ伝説……」
見開き一ページの短い内容ではあったが、ヒルコの字が目に留まり、茅は本を捲る手を止めた。
「伊邪那岐命と伊邪那美命の間に産まれた水蛭子は不具の子であったため、葦の舟に乗せられ放流された。葦船市の伝承では、放流中に舟は波にさらわれたとある。水蛭子は島に漂着し、舟は浜へと辿り着いた。このことから島は昼子島、浜は葦浜と呼ばれるようになったとされる……」
文字の羅列を指でなぞりながら、確かめるように読み上げる。
葦浜はその後、律令制の導入により葦野郡と呼ばれるようになり、今の葦船市へとその名前を変えていく。江戸時代に鉱山が発見されるまでは漁業が盛んな地域であったために、このような伝承が残っているのではないかと本の中では推測されていた。
——それじゃあ一体、水蛭子は何の象徴なんだ。
スマートフォンを片手に水蛭子について検索する。片っ端から水蛭子についての記述を読むが、言及されている資料が少ないのかあまり多くの情報は手に入らなかった。
脳裏に老人の言葉が過ぎる。祖母ならば伝承について知っていることもあるかもしれない。覚えているかどうかは定かではなかったが、自分のルーツにまつわる好奇心を茅は抑えきれなくなっていた。
しばらく本を読み耽っていたが、興味深くはあれどめぼしい情報はなく、そのうちに東が階段を上ってくる音が聞こえた。本を閉じて扉から顔を出せば東と目が合う。こちらを覗いているとは思っていなかったのだろう。東は少し驚いた顔を見せたが、すぐに笑顔を浮かべると夕食の用意ができたことを告げた。
食卓には皿いっぱいに盛られた角煮が鎮座していた。茅は小さな器にほんの少しだけ白米をよそって席に着く。
こうして食べられるだけの料理をテーブルに並べるたびに仏飯のようだと茅は思う。自分が死んだ後に誰かの手を煩わせるのも嫌なので、仏壇も飯もいらないとも思うのだが——。
茅がぼんやりと考え事をしていると東が口を開いた。
「そういえば、あの買ってきた本は面白かったのか?」
「え? うん、まあ、どうだろう。興味深いという意味では面白いのかな。でも僕の知りたいことの答えは載ってなかったよ」
「知りたいこと?」
「うん。東くんはヒルコの子って聞いたことある?」
「何だそれ。聞いたことないな」
「だよね。僕もないんだけど、昼子島出身の人をそう呼ぶ習慣があったんだって。あんまりいい意味ではなかったらしいけど」
「知らないなあ。まあ、悪い意味で使われてた呼び名なら、聞かなくなった方がいいんじゃないか」
「それもそうなんだけど……でも、やっぱりどうしてそういう言葉が生まれたのか気になるじゃん。僕も一応は島の血筋が入っているわけだし」
「そんなもんなのか?」
「僕は気になるかな。東くんは自分のルーツとか興味ないの?」
「ないな。親のことも全然知らないし興味もない。父親に至っては顔も覚えてないよ、俺」
「そう……」
茅は小さく切った豚肉を口に入れて、気まずそうに黙った。東は茅のきまりの悪そうな顔を見ると、弁解するように手を振る。
「本当に興味ないんだよ。物心つく前に父親も出ていっちゃったしさ。言い方はよくないけど、どうでもいいというか……。今の俺には関係ないしさ」
「まあ、そうだね……」
「でもそうやって、いろんなことに興味持てるのはいいことだよな」
「いいよ別にフォローしなくても……それこそ人それぞれだし」
小さな声でもごもごと訴えながら、茅は東のことについて考えていた。長年親交はあるが、彼についての多くを茅は知らない。それは彼が自分のことを語りたがらないことや、他人の家庭事情に安易に踏み込むべきではないという自身の考えのためでもあった。
けれども時折、少しだけ寂しさを感じることもある。仲が良いということと相手の全てを知ることは、必ずしもイコールで結ばれるものではないと思うのだが、彼は自分について深く知っているのに対し、自分は彼についてあまり知らないのが不公平に思えるのかもしれない。
だから時折、彼についてもっと知りたいと好奇心が湧く瞬間があるのだ。それを決して彼に告げる気はないのだけれど——。
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