四、曖昧ノスタルジア

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 祖母のいる老人ホームに訪問の予約を入れて、茅は祖母のもとを訪れた。祖母はベッドに横たわり、ぼんやりと窓の外を見つめている。 「千鶴さん」  窓ガラスに映る自分の顔は紛れもなく己のもので母の顔ではない。中性的な顔立ちだと形容されることはあったが、身体に見える特徴は間違いなく男のもので母とは似ても似つかない。 「ちぃちゃん」  祖母はそれでも孫を娘の呼び名で呼ぶ。茅にとってそれは寂しさを感じることであると同時に、救いでもあった。彼女は祖父も母も生きている時間に身を置いている。家族が生きている世界の彼女は幸せそうだ。  茅は医者でもなければ、医学的な知識も持ち合わせていない。祖母に対してどうしてあげることもできないという無力感が常に彼の中に存在している。自身が病気である今、そばにいることすら茅にはできない。だからこそ娘であることを否定しないのは、それが茅にとって自分にできる唯一の孝行だからだった。 「元気にしよった?」  母が笑うように笑い、母が喋るように喋る。  しかし千鶴は茅の声に返事することなく、ぼんやりと窓に映る外の景色を見つめていた。 「どうしたの」  茅が祖母の手を握れば、祖母はゆっくりと茅に顔を向ける。その顔はどことなく憂鬱そうで、茅は握りしめた手に思わず力をこめた。 「どうもせんよ。ちぃちゃん、よく来たねぇ」 「うん。今日はね、教えてほしいことがあって来たんよ。昼子島のことなんやけどね」 「昼子島……」  途端に千鶴の顔が険しくなる。彼女は厳しい顔つきのまま考え込むように俯いた。 「お父さんのことは気にせんでええんよ」  茅の動きが止まる。お父さん、とは祖父のことだろう。  祖母の言っていることが理解できず、茅は黙ったまま彼女の顔を見つめていた。 「もうね、あの子は島の子じゃいうてのけものにするような時代は終わらせんといかんのよ。私のお父さん——ちぃちゃんのお祖父ちゃんね——もよういよった。島の人も本土の人間も何も変わらんて」 「どういうこと……?」  母としてではなく、自分自身としての言葉が茅の口から漏れ出る。千鶴は茅の異変には気付いていないようで、滔々と語り続けた。 「ちぃちゃんに言わんかったんは、知らん方がええと思ってたからよ。でもあの子が——鬼生田さんが島の人やって聞いてから、ちぃちゃんも知っといた方がええと思ったの。どうしてお父さんが結婚に反対するんか理由もわからんやろ」 「どうしてお父さんは結婚に反対しているの」  震える声で茅は尋ねた。 「昼子島はね、その昔、ヒルコいう神様が流れ着いた島なんよ。じゃけん島の人らはヒルコの子孫じゃって言われとる。ほじゃけど、ヒルコは不具の子じゃいうて海に流されてしもた御子じゃけん、本土の人らは島の人間と結婚したら同じような子供が産まれると思っとるんよ」 「だからお父さんは島の人と結婚するのを反対してるの? 生まれてくる子供に障害があるかもしれないから?」 「ほうよ。昔はね、島の人は島の人と結婚するしかないけん、近い血縁同士でも結婚しよったんやろね。じゃけんちょっと変わった子ぉも生まれよった。ほじゃけどそれも昔の話よ。島と本土の行き来も自由になっとる今は、昔みたいなこともないわ。ほいでも私らぐらいの歳の人は、ちっちゃい頃から島の人らをヒルコの子じゃいうてのけものにしよる大人の姿を見とるけん、そんなのわかってないんよ」  混乱する頭で考える。  近親婚で誕生した奇形児の存在がヒルコの伝承を生み出した。伝承は本土へと広がり、本土の人間は島の人間を「ヒルコの子」と呼んで、彼らと関わることを避けていた。  ところが、鉱山が発見されたことにより多くの労働者が必要になったのだ。多くの人間が労働者として島から葦船市にやって来たことだろう。  鉱山で働く以上、葦船市に移住するほかない。老人が言っていたように、彼らはきっと鉱山にほど近い人定地区に居住したのだ。そうしてこの町で暮らし始めた。「ヒルコの子」だと忌み嫌われながら。  だから次長は妻の姓を名乗っていたのだ。彼は島に鬼とつく姓の人間が多いことを知っていた。同郷のよしみと言っていたのだから、彼もまた島の血をひいているに違いない。けれどその姓を名乗っていると、どんな偏見に晒されるかわからない。だからこそ、村田という姓を名乗っていたのだ。  結果的に両親が結婚していることを考えると、祖父も最後は説得されたのだろう。出身地のせいで結婚できないのはあまりに馬鹿げていると茅は思う。  そうだ。島の人間がヒルコの子孫だという話は伝承なのだ。人々の無知と恐れが、切り抜かれた事実と結びついた代物に過ぎない。  それならば——それならば何故、自分はこのように醜い姿なのだ。  全てが伝承であるならば、つくり話ならば、あの悍ましいもう一つの姿も虚構の存在でなければならない。それにもかかわらず、玉虫色に厭らしく輝く汚泥のようなあの身体は確かに存在したのだ。あれは紛れもなく自分自身だった。  もしあの粘液が真の姿であるなら——顔も髪も四肢も存在しない、あの恐ろしい姿が本来の姿ならば、まさしく奇形と呼ばれるにふさわしいだろう。    室内は暖房で暖かいはずなのに、茅の全身からは冷や汗が止まらない。  ——僕は、僕は一体、何なんだ。これは本当に現実なのか。全て僕の妄想じゃないのか。全て、全てが……。
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