五、妄想コギトエルゴスム

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五、妄想コギトエルゴスム

 窓ガラスに映る自分が、鏡の向こうにいる自分が、水面に揺らめく自分が——もう一人の自分が笑っている。  自分は確かに自分なのだろうか。不安の雫が心の海を玉虫色に染めていく。  これまで過ごしてきた人生への自信が急速に失われつつあった。果たして今の自分が記憶している過去が妄想でないと言い切れるだろうか。家族のいない自分を証明してくれる存在など見当たらない。 「僕は……」  気付けば茅は自宅に戻っていた。放心したように運転席へもたれかかっている。ガラス越しに見える庭の風景は何ら変わりないはずなのに、馴染みのない場所のように思えて酷く恐ろしい。  ガラスに映る己の顔は母に似ている。遺影の母に。母は——母親は本当に存在していたのだろうか。最早思い出の中にしかいない母が、生きていた証はどこにあるのだろう。  突然、ガラスに映る茅の顔がどろどろと蝋のように溶けていく。その白い肌は姿を変えて鈍色に光る奇妙な塊になった。粘つく塊の中には幾つもの眼球が埋まっている。それらは瞬きすることなく、いっせいにこちらへ視線を向けた。茅は耐えることができなかった。 「ああっ、あっ、ああ……」  情けない悲鳴をあげて車から飛び出す。玄関扉に手をかけるが開かない。鍵を持っていることも忘れて、茅は必死に扉を叩いた。 「開けて! 開けて! お願いだから……」  とめどなく溢れる涙で顔をしとどに濡らし、しなだれかかるように扉へ身体を預けて戸を叩き続ける。  そのうちに家の中から足音が聞こえた。ふ、と音に気を取られた瞬間に扉が開かれる。玄関に倒れ込んだ茅の身体を東が受け止めた。茅は東の身体にしがみつくように抱きついた。小さな子供のようにしゃくりあげながら東の肩に顔を擦りつける。 「どうした?」  焦りを帯びた東の声が耳元に降ってくる。東の手が困惑したように宙を漂った後、茅の背中にゆっくりと回された。 「茅……?」  東の体温が伝わる。茅は安心すると同時に怖くなった。自分の過去を証明できるのは彼しかいない。もし彼が自分の妄想の産物ならば、本当に自分を証明できる人間がいなくなってしまう。 「東くん」  茅は東に強く抱きついたまま口を開いた。目元は赤く染まり、涙の雫が小さな宝石のように睫毛を飾る。 「東くんは僕の妄想じゃないよね?」  確かめるように、祈るように、縋りつくように。震える茅の声が寒々しい冬の空気に散っていく。 「妄想?」  東は一瞬怪訝な顔をしたが、茅の意図を察したのか、彼の背中をあやすような手つきで叩いた。 「俺はここにいるよ」 「東くんは生きてるんだよね。僕の妄想じゃないよね」 「ああ、そうだよ」  優しい声で囁かれ身体の力が抜ける。茅にはもう一つだけ東に尋ねたいことがあった。 「ねえ、どうして東くんは僕に優しくしてくれるの」 「えっ?」  明らかに戸惑った東の声に茅は顔を上げた。名残惜しそうに身体を離し、東の顔を真正面から見据える。 「怖いんだ。優しすぎるから。東くんの優しさは僕に都合が良すぎる。だって、こんなのってあり得ないでしょ? どんなに東くんが善良な人間だとしても、友達付き合いを損得だけで考えていないとしても、赤の他人の僕にここまで優しくできるなんておかしいよ……」  東と暮らすようになってから数年間、澱のように溜まっていた茅の不安が溢れ出す。  本当は東の優しさを否定するようなことは言いたくなかった。彼の優しさに支えられて茅は生きているのだから。けれどもその優しさに依存すればするほど、自力で生きていけなくなる。それが茅は恐ろしかった。 「僕は……東くんが優しすぎて怖い」  心の奥底に眠っていた淀みが言葉になる。東は顔色一つ変えることなく、茅の言葉を聞いていた。 「俺のこと、信用できない?」 「違う! ただ僕は……怖い、怖いんだ……」  茅は東の肩に手を置き、彼の瞳を覗き込むように顔を近付けた。 「東くんのことが好きなんだよ……僕。東くんがいるから、その優しさがあるから僕は今生きているのに……これが全部嘘だったらと思うと僕は……」  茅の身体はその場に崩れ落ちる。 「僕は死んでしまいそうだ」  か細い声で呟くと、茅は胎児のように蹲った。 「茅」  平素と変わらぬ東の声が茅を引き上げる。抱きかかえられるようにして土間から床板へと運ばれた。目を閉じた茅の耳には、玄関扉を閉める東の足音だけが聞こえる。 「茅、お前に話しておきたいことがあるんだ」  東は茅に背をむけたままそう呟いた。 「話しておきたいこと……?」  茅の目蓋がゆっくりと開く。そのまま緩やかに上体を起こして東を見れば、引き戸の曇りガラスから差し込んだ光が彼の顔に影を落としていた。 「お前は、俺の妹にそっくりなんだよ」  東の表情は逆光で隠れている。茅には彼がどのような顔でそう自分に告げたのかわからなかった。
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