一、肉食グランギニョール

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 二時間眠っては覚醒し、また一時間眠っては目が覚め——断続的な睡眠を繰り返していると居間の方から物音が聞こえた。  東が出勤の準備をしているのだろう。茅は重い身体を無理矢理起こし、引きずるようにして居間へと向かった。  居間では東が制服に着替えている途中であった。日頃、自室から出てこないことが多い茅が朝早くに起きてきたのを見て、東は少し驚いた様子で茅を見た。 「おはよう。ふふ、お巡りさんみたいだね」 「みたいじゃなくて、そうなんだって。……おはよ」  目元を細めた茅に東もまた笑返す。  白いシャツに旭日章の付いた紺色の上着を着用した東が自分の知っている友人ではなく、知らない警察官のようで茅は少しおかしい気分になった。 「何か食べるか?」 「……ううん。食欲ないから」 「そうか。まあ無理にとは言わないが、今日市役所に行くんだろ。何も食べずに行くとしんどいぞ」 「ああ、そっか。今日、面談の日だった」 「何だ。それで早起きしたんじゃないのか」 「東くんが出る準備してたみたいだから、見送ろうと思って……」  言い終わるや否や、口元を緩めた東に髪をぐしゃぐしゃと撫でられる。長い前髪の間から茅の揺らめく瞳が覗いた。 「起こして悪かった」 「勝手に目が覚めただけだよ」 「昨日は眠れたのか?」 「うん、まあ……」 「面談、送ってやれなくて悪い。一人で大丈夫か?」 「……大丈夫。今日はいつもより調子がいいから」  茅は小さく笑ってみせたが、実際のところ全身が気怠くて、とても出掛ける気分にはなれなかった。けれどそんな様子を少しでも見せれば、目の前の人物が酷く心配してくる。面倒をかけるのは嫌だった。  上から更に黒いウインドブレーカーを着込んだ東がリュックを手に取る。 「水屋にレトルトのカップスープ置いといたから、いい具合に食べとけよ」 「うん」 「帰りは明日の朝になるから、何かあったら連絡してくれ」 「大丈夫だよ。ありがとう」 「じゃあ行ってくる」  茅は玄関まで東について行く。玄関扉の曇りガラスからは朝の光が差し込んでいた。戸を引くとひんやりとした空気が茅の頬を撫でる。しばらく家の中に引き籠もっているうちに、秋が終わろうとしていた。  車のエンジン音が鳴り、やがて走り去って行く音が聞こえる。まだ朝の八時にもなっていないことを確認して、茅は深くため息を吐いた。午前中には面談のために職場へ行かなければならない。  一ヶ月に一度、茅は病状を報告するために職場へ行くことを余儀なくされていた。病気の原因の一端にもなった仕事場へ難なく向かえるほど彼の状態は良くなかったが、上司からの連絡を断るほどの気力もなかった。  多少無理をすれば外出もできるし、他人と会話することもできる。病気に対して素知らぬフリをし、普通であるかのように振る舞うことだってできるだろう。少なくとも受診するまで、茅はそうして生きていたのだから。  しかし綻びは必ず現れる。無茶をしたら無茶をした分、茅の心にも身体にも傷となって帰ってきた。  面談へは辛うじて行けているだけで、終わって帰ってきてみれば強烈な頭痛と倦怠感で一歩も動けなくなるのが常である。  茅は都会というものを知らないが、田舎にある地方自治体の恐ろしさをよく知っていた。  そもそも公的な組織というのは、世間では常識となった新しい概念が何十年後に遅れて入ってくる浦島太郎な世界である。  茅は葦船市という人口十二万人ほどの町で市役所職員として勤務していた。葦船市自体が保守的な市民の多い町ではあるが、それを反映したかのように彼の勤める組織もまた風通しの悪い職場であった。    年功序列と男尊女卑が大っぴらにはされないもののしっかりと根付いている。  自分の意見を述べたければ歳を取るしかないし、年齢さえ上であれば多少の道理は捻じ曲がる。  半ば都市伝説と化した女性職員にお茶汲みを頼む光景も日常のワンシーンに過ぎない。  ハラスメントの研修が行われたところで、皆概念を知るだけで自分のしていることが嫌がらせだという自覚がない。  しかしこの閉じられた世界は変わることがない。これを不満に思う人間は早々に見切りをつけていなくなってしまうか、心と身体のどちらかを壊していなくなる。結果として、組織にはその慣習を良しとする人間しか残らない。  茅にとって仕事とは理不尽な目に遭って生活費を稼ぐことにほかならなかった。もちろん彼も公務員を志望したときには、困っている人を助けたいという善良な気持ちを持ち合わせていた。けれど現実はいつだって理想と違う。  彼の上司は若者のすることのほとんどが間違いだと思っているし、窓口に来る市民には職員を税金泥棒だと思い込んでいる人間もいる。得てして悪意を持つ人間の叫ぶ声の方が善良な人間の励ましの声より大きいもので、茅は数多の悪意に飲み込まれ心をすり減らしてしまった。
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