一、肉食グランギニョール

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 煤けた白い建物を見上げる。もう何十年とこの町に立つ庁舎は、茅にとって鬱屈の対象でしかなかった。目眩がする。気分が悪い。空気は涼しいぐらいなのに汗が止まらない。  動かない身体に鞭を打ち、来客用の駐車場から入口へと向かう。    一階のフロアへと足を踏み入れる。ガチャガチャとした喧騒が耳に入って気分が重くなった。電話のコール音、タイピングの音、人の話し声——全てが耐えがたい雑音に聞こえて耳を塞ぎたくなる。  茅が市民課へと足を運べば、職員が市民と向かい合う窓口の光景が見えた。ほんの少し前まで自分もあの席に座っていたはずなのに、酷く昔のことのように思える。  ずかずかと中へ入って行くのも気が引けて、茅はカウンターの端に立ったままでいた。仕事をしている職員たちを見ていると声をかけるのも気が引ける。しばらく棒立ちのままでいると、職員の一人と目が合った。声を出すのも憚られて、茅は無言のまま頭を下げた。  課員の多くは茅に無関心だった。いや、無関心のように振る舞っていた。腫れ物に触るような彼らの態度は決して心地の良いものではなかったが、もし自分が彼らの立場でもそのように振る舞っていただろうと思う。うつ病を患った人間への接し方など茅は知らない。自分が患ってもなお、声のかけ方などわからない。自分でも正解がわからないのだから、他人に正解を求めようなどと思わなかった。  主幹の女性職員が席を立ち、茅へと歩みを進めた。今年で五十に手が届いたという彼女は、部署の中では比較的親切な上司であった。茅が入庁したばかりの頃、自分にも同じ年頃の子供がいると言っていたから、それが親切の理由なのかもしれないと思う。  自分の母親が生きていれば、彼女と同じぐらいの歳になっていたはずだ。両親は茅が子供の時分にこの世を去った。記憶の中の母と父は若い姿のままだ。  それに気付いてから彼女と言葉を交わしていると形容できない寂しさが湧いて、時折胸が詰まるような気持ちになった。 「茅くん、来てもらってごめんね。今日は課長も同席したいとおっしゃっているんだけど大丈夫?」 「課長が……ですか……」  挨拶ぐらいはしなければと思っていた茅はいきなり出鼻を挫かれて閉口してしまった。課長が面談に参加することを拒否するつもりは毛頭ないが、茅にとって課長は理不尽と恐怖の対象でしかない。  喉の奥がキュッと狭まり、呼吸がしづらくなる。茅は蚊の鳴くような声で「問題ありません」と返事をした。  主幹は課長に一言声をかけた後、茅を引き連れて庁舎の三階へと向かった。総務部が集まるこのフロアには人事課があり、茅の面談には決まって人事課所属の保健師が同席する手筈になっていた。  ところがいつもの席に彼女はいなかった。約束の時間が近いにもかかわらず、保健師の姿が見えないことに主幹は困惑の表情を浮かべる。 「あら、白井さんに今日は面談があるって伝えたはずなのに。理恵ちゃん、白井さんどこ行ったか知ってる?」  プリンターの前で資料をコピーしていた若い女性職員が顔を上げる。彼女は保健師のデスクをちらりと見やると、「福祉部に呼ばれたみたいですよ」と答えた。 「だいぶ前に出られたのでそろそろ戻ってくると思いますけど……。急ぎでしたら連絡しましょうか」 「ああ、いいのいいの。庁舎にいるなら問題ないわ。福祉部に行ったのも例の件でしょ。国保にも保健師さんがいるんだから、わざわざ白井さんを呼ばなくてもいいのにね」 「そうですよねぇ。人事は保健師が一人なのに連れて行かれると困っちゃいますよ」  果たして彼女たちが何について会話をしているのか、茅にはまったく見当がつかなかった。会話へ割り込んでいくような気概を持ち合わせてはいないので、彼女たちの話を黙って聞くことしかできない。  居心地の悪そうに佇んでいると、主幹は「先に会議室へ入ってましょうか」と茅へ声をかけた。 「ごめんね。しんどいでしょ。ちょっと座って待っていましょう」 「すみません……」  気を遣わせてしまったことの罪悪感と申し訳なさの中、茅は会議室の椅子へ腰を下ろした。 「お忙しいのに申し訳ありません」  息を吐くように頭を下げれば、主幹は手をひらひらと横に振った。 「別に茅くんのせいじゃないのよ。最近、行方不明になる高齢者が増加しているから、一人暮らしの高齢者を対象に住居を訪ねた方がいいんじゃないかって話が上の方からあったみたいでね。それに割ける人員なんていないからどうしようってなっているみたいなの」 「それで白井主幹が呼ばれたのですか」 「白井さんだけじゃなくて、元福祉部でノウハウがある職員とか若い子たちを他の部署から拝借してパトロールさせようって言っているみたいだけれど、どうかしらねぇ」 「そうですか……」  主幹と向かい合うように座っていた茅は床に視線を落とした。  そういえば、ここ最近行方不明者が多いのだと東がぼやいていたことを思い出す。彼は地域課の交番勤務員であるから、行方不明者捜索のためによく駆り出される。捜索対象のほとんどは高齢者なのだと言っていた。  十年以上警察に勤めているせいか、東にとって死体は身近なものであるらしい。  先日、珍しく疲れた顔で帰宅した東にどうしたのかと問うと、行方不明者を捜すために山へ入ったのだという。 「それで見つかったの」 「いや、死んでたよ」  それでも見つかったから遅くならずに帰って来られたのだと彼は笑っていた。  茅は東を尊敬していたし、好ましいとも思っていたが、どこか淡白な人間であると感じていた。  昔、警察という組織がどのようなものか興味本位で訪ねたことがあったが、市役所の旧社会が可愛らしく思えるほどに過酷な環境であった。ハラスメントは当然のように横行しているが、それでも入校した頃よりは随分優しくなったと東が笑っていたことを覚えている。  彼の淡白さは生来のものというよりも歪な環境に取り込まれて構築されたものなのだろう。  怒鳴られることにも殴られることにも慣れたのだと東は言う。理不尽を飲み込める彼が羨ましい。それを羨む自分が浅ましくて見苦しい。
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