一、肉食グランギニョール

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 扉がノックされる音で、茅の意識は現実へと引き戻された。  主幹が返事をすると金属が擦れる甲高い音を立てて扉が開く。件の保健師が申し訳なさそうな表情で顔を覗かせた。 「遅れてすみません」 「あら、白井さん。福祉部の用事は大丈夫なの?」 「大丈夫よぉ。国保の人たちと話してたら長くなっちゃって。鬼生田くんもごめんなさいねぇ」 「ああ……いえ……」  どのような状況であれ他人から謝られるのは苦手だった。良い返答が思い浮かばず、茅は俯いたままもごもごと口を動かす。  そのように狼狽えていると再び扉を叩く音がした。無遠慮に開け放たれた扉の向こうには、茅が最も苦手とする上司が立っていた。 「ああ、課長。お疲れ様です。すみません」 「お疲れ様」  主幹は立ち上がると課長を席へと案内する。  茅は机を挟んで上司たちと向かい合うような形で席に座ることになった。心臓が圧迫されそうで息が詰まる。背中を曲げて俯いたまま立ち上がり、茅は課長に頭を下げた。 「お忙しいところ申し訳ございません」 「ああ、はい、お疲れ様」  呼ばれた身であるから謝罪が見当違いであるのはわかっていたが、居心地の悪さから謝ってしまう。  一刻も早く面談を終わらせてこの場を去りたい。この空間にこれ以上いたらどうにかなりそうだ。全身を掻きむしりたくなるような衝動を堪えて、茅は上司らに向き直る。 「じゃあ、始めましょうか」 「鬼生田君、調子はどうなの」  全員が席に座るや否や課長は手元のメモを覗いたまま茅に話しかけた。 「ああ、ええと、その、特に変わりがない、と言いますか」 「悪いの?」 「悪い……悪いと言えば、悪いのかと、思います……」 「全然良くなってないわけ?」 「いや、その、はい、あまり……」 「病院の先生にはもう少し休んだ方がいいって言われてるんだっけ? でも僕としては鬼生田君の意見も聞きたいんだよね。先生の意見は抜きにして、君自身はどうなの? こうして外に出て来られるぐらいには良くなっているわけでしょ。復職は考えてないの?」 「復職……復職は、そうですね。ただ、今の僕が職場に戻っても、ええと、やはり皆さんに迷惑をかけると思いまして……」 「いや、そういうことじゃなくて。君の主治医のことをよく知らないわけだからさ、わからないけどね? 先生としては、君に調子が悪いと言われたら休んだ方がいいとしか言えないわけじゃない。でも君に復職の意思があるなら、少しずつでも復帰していこうって話になるんじゃないの?」 「すみません……」 「いや、謝ってほしいわけじゃないんだよ。確認しているだけだから。別にここの課に復帰するのが嫌なら、忙しくない部署にも行けるんだから。その方がいいんじゃないのかな。向いてないと思うよ。いや、これは君のためを思って言っているんだけどね」 「はい……すみません」  茅の顔はすっかり血の気が失せて紙のように真っ白になっていた。  世界の音が遠のいていき、相手の話していることが理解できなくなる。ただ相槌を打ち、頭を下げて、解放される時をひたすらに待つ。  視界がぼんやりとしてきた頃、主幹に声をかけられて初めて顔を上げた。すでに課長は部屋を出て行っており、面談が終わったのだと気付く。 「茅くん。悪いことは言わないから、復職するなら別の部署の方がいいと思う。市民課はどうしても窓口で市民の対応をしなければならないし、この間みたいに変わった人が来ることも多いわ。ひとまず体が治るまでよく休んで、これからのこと考えられそうだったら考えてみて。今度、白井さんに復職するときのプログラムを聞いておくから」 「すみません。お忙しいのにお時間をとらせてしまって……」 「こちらこそごめんね。これからの面談も時々課長が同席されるかもしれないけど、あまり気にしないでね。課長も茅くんのこと心配しているのよ。課のみんなも頑張ってくれているから、ゆっくり休んでね」 「……はい。ありがとうございます。すみません、体調が優れないのでお先に失礼致します」  茅は深々とお辞儀をすると、逃げ出すようにして会議室を飛び出した。こんなところには少しの間もいられない。  エレベーターを待つのも辛くて、重たい身体を引きずりながら転がるように階段を下りていく。市民課の前を通るのが憂鬱だったので、地下にある休日専用の入口から市役所を抜け出した。  向いていない。茅にもわかっていた。市民課での仕事どころか、働くことそのものに向いていない。接客が得意でもなければ、機械に強いわけでもない。体力もなければ、力仕事もできない。何か技術を持っているわけでも、資格を持っているわけでもない。語学に堪能でもないし、母国語でですら他人とのコミュニケーションが上手に図れない。  もう何もできない。生きているだけだ。ただ毎日息をしているだけの何も役に立たない存在だ。社会に貢献することもできず、月のほとんどを暗い自室で眠るように過ごしている。 「僕には生きている資格も、理由もない」  運転席に座り込んでポツリと呟く。茅の目から涙が溢れた。  こんな風になりたくてなったわけじゃない。できることなら元の生活に戻りたい。けれど戻り方がわからない。毎日毎日自分を責めて、他人と比べて嘆いて、どうして生きているのか自問自答し続けている。    ——いっそのこと、死んでしまえたらどんなに楽だろう。  生きるということは死ぬことなのだ。人間は母親の胎内から産まれて声を上げた瞬間から死に向かって走り続けている。その死に辿り着くまでの過程を少しばかりショートカットするだけで、苦しみから解放されるのだ。  ——どうせ、どうせ、どうせ! いずれ死ぬのだから今死んだっていいじゃないか! こんな人生、これ以上生きて何の価値がある?   湧き上がる気持ちに茅は押し潰されそうだった。希死念慮は脳内を蝕んでいく。唇を噛み締めてハンドルに凭れ込んだ。  死にたい。消えてしまいたい。ああ、でも、死ねば周りに迷惑がかかる。誰にも頼らずに生きることもできなければ、誰にも負担をかけずに死ぬことすらできない。    ——いっそのこと生まれなければ良かった。そうすれば、誰も傷つけることなどなかったのに。
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