一、肉食グランギニョール

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 目尻の涙を拭う。時計を見ればもう昼が過ぎようとしていた。昼食をとる気にもなれず、このまま目的地に向かってしまおうとエンジンをかける。  市街地から五分ほど車を走らせれば、周囲の住宅地とは一線を画す薄黄色の巨大な建造物が見えてきた。そこは市内唯一の介護付老人ホームであり、今は茅の祖母が住む家でもあった。    両親を早くに亡くした茅は、母方の祖父母のもとで育てられた。茅は父方の祖父母についても親戚についても知らない。生前の父も自分の血筋について語ることはなかったので、必然的に母方の親戚筋としか付き合いがなかった。だから母方の祖父母に引き取られたのは道理であったのだ。  両親を亡くしたことは心に暗い影を落としたが、だからといって茅は自分が不幸な身の上とは決して思わなかった。それは偏に祖父母が自分に愛情を注いでくれたからである。  祖父は職人気質で無口な人であったが、仕事が休みの日には茅を連れて釣りに出かけた。茅には釣りの楽しさがわからなかったので、砂浜で貝殻を拾ったり海を眺めたりするのが常であったが、大人になって振り返ってみれば不器用な祖父なりの愛情表現だったのだろうと思う。  祖母は祖父とは対照的にお喋り好きな人であった。家事のいろはを茅に教えながら、彼の母親にも同じことを教えたのだと語った。  茅はお母さんにそっくりよ、と祖母はいう。茅にはあまり自覚がなかったが、母親の娘時代のアルバムを寂しそうに愛おしそうに見つめる祖母を見ると、自分の顔がもっと母親に似ればいいのにと思うようになった。  そんな思い出も今は昔の話になる。  祖父はもう鬼籍に入り、祖母も施設に入った。フロントミラーに映る自分の顔は、遺影に映った母の顔にそっくりだった。    車から降りて建物を見上げる。五階建てのマンションのような形状の施設には、緑色の字で大きく「キンセンカの園」と書かれていた。  キンセンカは市の花だ。だからこの施設も地域に根差した名称になったのだろう。  最も花に疎い茅はキンセンカがどうして市の花なのかも、キンセンカがどういう花なのかも知らない。しかし彼にとっては些末なことだった。  紙袋に詰め込まれた日用品や衣類を両手に持ち、身体を使ってドアを閉める。一階のロビーにある受付へ真っ直ぐ向かうと、施設の職員が書類の確認をしている最中だった。  彼女は気配に気付いて顔を上げる。茅の顔を見ると得心した表情をした後に笑顔を浮かべた。 「こんにちは」 「あっ、お世話になっております」  茅は慌てて頭を下げた。彼女とは何度か施設で顔を合わせたことがある。祖母の面会に来たと名前を告げれば、彼女は予約表を確認して「桃園(ももぞの)さんはちょうど昼食を終えられて、お部屋にいらっしゃいますよ」と言った。 「ありがとうございます」  茅は再び頭を下げるとエレベーターへ向かった。途中、すれ違う職員や他の入居者にぎこちない笑顔で会釈をする。茅は職員が笑顔で入居者を介護しているのを見るたび感心した。それと同時に胸が苦しくなった。  自分にはできなかった。誰よりも大切な家族であるにもかかわらず。どうして、と自分が自分を苛む。もう後悔しても仕方がないことなのに。  祖母の居室は最上階にある一番小さな間取りの部屋だ。トントンとドアをノックすれば、小さな頃から聞き慣れた声が返事をした。 「千鶴さん、来たよ」  祖母の名前を呼んでドアをゆっくりと開く。顔を覗かせれば、もう随分と小さくなってしまった祖母があの頃と変わらない笑顔でベッドに座っていた。 「あらぁ、ちぃちゃん。来てくれたん」 「うん。洋服、持ってきたからね。あと千鶴さんが言ってた毛糸も買ってきたよ」 「まあ、ありがとう」 「いいよ。それより足の調子はどう?」 「いかんねぇ。もう歳やけんかしらん、よいよう悪なってしもうて」 「……まだそんな歳じゃないでしょ」 「それより、ちぃちゃん。仕事はどうなん?」 「仕事? ……順調だよ」 「そうなん。本当にねぇ、公務員がええわぁ。お父さんには悪いけど、自営業はどんなるかわからんけん」 「うん……」  千鶴は手元のかぎ針に視線を落とし、編み物の続きを始める。日用品や雑貨類を片付けていた茅は、祖母の手元を見て口を開いた。 「何作ってるの?」 「うん? がま口型のね、ポーチを作ってるんをテレビで見たんよ。あら、これなら私でも編めるわぁ思てね」 「器用だね」 「嫌じゃあ、ちぃちゃん。すっかり都会の人の喋り方になってしもて。向こうの生活はどうなん? ちゃんとご飯作って食べよる?」 「食べてるよ」 「ねぇ、あの子とはうまくいってるん? ほら、あの背ぇ高いシュッとした子よ。この間、わざわざ挨拶に来てくれたでしょ」 「別に普通だよ」 「嫌じゃかい。お父さんには言わんけん、お母さんには教えてよ。私、楽しみにしとるんよ。ちぃちゃんが結婚して子供が生まれたら、ベビー服作って着せるんが夢なんよ。きっと可愛いわ。あの子……そう、鬼生田さんやった? 礼儀正しくて優しそうな子やったわ。また連れておいで。お母さん、楽しみに待っとるけん」  楽しそうに喋る祖母に背を向け、片付けているフリをしながら茅は小さくため息をついた。  祖母にとってこの空間は、介護のために入居している施設などではない。茅の母親が就職のために家を出た直後の我が家なのだ。今から数十年も前の時間に祖母は生きている。  当然、その時代に茅は生まれていない。だからこの空間では、茅は千鶴の娘——自身の母親として存在することになっていた。  この一年で祖母の中から茅の存在は完全に消えてしまった。    仕方がないことだ。忘れようとして忘れたわけではない。脳が勝手にそうさせているのだから。  それでも胸の内に残る虚しさは何なのだろう。二十年近くも家族として過ごしたはずなのに、どうして忘れてしまったのだと責めたくなる自分がいた。そんなこと口にしても事態は好転しないとわかっている。だけど時折、その言葉が不意をついて吐き出されそうになる。  ——いや違う。悪いのは僕だ。僕が全部悪いんだ。僕が気付かなかったから。  初期症状の時点でおかしいと思って病院に連れて行っていたら、もっと早く治療を受けることができたのではないか。あの頃の自分は自身のことだけに手一杯で、祖母の様子を気にしたこともなかった。自分にとっての家族が祖母しかいないように、祖母にだって頼れる身内は自分しかいなかったはずなのに。  ——僕は最低の人間だ。 「ちぃちゃん」 「えっ、ああ、何? どうかした?」 「あんた顔色悪いよ。どしたん。気分でも悪いんかね」 「……うん。ちょっと寝不足だからかな。ごめんね、心配かけて。今日は早く帰って休むね」 「そうしぃ、そうし。お母さんのことは心配いらんけん。お父さんもおるし」 「うん。それじゃあ」  茅は部屋を飛び出すと、扉を背にして崩れ落ちた。 「祖母(ばあ)ちゃん、ごめん」  視界がぼやける。眼球を覆っていた涙の膜は、やがて耐えきれずに雫となって頬を伝っていった。
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