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祖母のもとを後にした茅は、まっすぐ家に帰るのが億劫になっていた。本当は身も心も疲れ切っていて、すぐにでも布団に横たわりたい気持ちでいっぱいだったが、子供の頃から暮らしている思い出の詰まった家に一人でいて、正気でいられる自信がなかった。
唯一の同居人である東は仕事で帰って来ない。別に一人が殊更寂しいわけではないが、誰もいない空間にいると悪いことばかり考えてしまう。そんな考えに脳が支配されたら、今日は自分を傷つけない自信がなかった。
ふと「少し体を動かした方がいいですよ」という主治医の言葉を思い出して、茅は近くの公園に向けてハンドルを切った。
自ら進んで運動することはほとんどない。小さい頃からずっとそうだ。体を動かすことが不得手なせいで、子供の頃は随分と嫌な思いをした。走るのが遅く体力もなかったので、何をしてもすぐに息が上がり、集団競技ではいつも足を引っ張る。
転校してきた直後は、それでよくからかいを受けたり詰られたりした。それが深いトラウマになったのか、人前で運動するのが今でも大の苦手である。
車を運転し、市街地まで戻ってくる。
市内には公園がいくらか点在している。茅の向かった公園は、この町では比較的利用者の多い場所だった。
葦野公園と名付けられた憩いの場には、かつて長塚城という城があった。
平安時代末期、葦船市がまだ隣市の千代栄市と併せて葦野郡と呼ばれていた頃、武蔵国から長塚氏という地頭が赴任してきた。長塚氏は城の建築に領地を一望できる丘を選んだ。それが今の葦野公園である。
以降、葦野郡は三百年ほど長塚氏の下で繁栄したが、羽柴秀吉の軍勢と戦った長塚城の戦いで敗北し、城は討ち滅ぼされることとなった。
公園には長塚城の跡地を示す石碑がひっそりと佇むのみで、栄華を誇った時代など感じられない。茅はその夢の跡から見下ろす町が好きだった。
まだ茅が小学生だった頃、東を誘って公園を訪れたことがある。
外で活発に遊ぶような子供ではなかった茅が、東を連れ立って出掛けたのには理由があった。
幽霊が見たかったのだ。
死後の世界に興味を持ち始めたのは丁度その頃だった。両親が亡くなり、初めて「死」というものを身近に感じた茅は、人間が決して避けることのできない恐怖の対象をどう理解すればよいのか試行錯誤していた。
「死んだら人はどうなるの?」
そう無邪気に聞ける相手が茅にはいなかった。教えてくれたであろう両親は疑問の先へ行ってしまったし、娘を失ったばかりの祖父母に尋ねるのは憚られた。
自分で考えようと思った矢先、遠足で葦野公園に行くことが決まったのである。
遠足自体は滞りなく終わったが、茅はその最中、オカルト好きなクラスメイトがここは心霊スポットなのだと話しているのを聞いた。
「昔、戦でたくさんの人が死んだから、落ち武者の幽霊が出るらしいよ。霊感のある人は死者に引き寄せられて自殺しちゃうんだって」
それは根も葉もない噂話に過ぎなかったが、少年の好奇心を突き動かすには十分だった。
死者に会えるものなら会ってみたい。対話できるのならば、死ぬということがどういうことなのか教えてほしい。
一度火のついた好奇心は留まることを知らず、茅は夜中にこっそりと公園へ行く方法を画策し始めた。祖母は心配性のきらいがあったので、素直に言って外出の許可がもらえるとは思えず、茅は年上の友人に話を合わせてもらうことを思いついた。
東の家に泊まりに行くと言ってしまえば、夜間に外出したことなど知られることもないだろう。そう考えた茅は東に事の次第を話し、口裏を合わせるようにお願いした。
ところが兄のような友人は、子供が一人で夜中に出歩くものではないと真っ当な意見を返してきたのである。聞けば茅が転校してくる少し前に、公園付近で殺人事件があったとかで、夜はあまり治安が良くない場所だという。
しかし、行くなと言われると行きたくなるのが人間の性というものだ。東の意見は妥当であったが、茅が納得するには不十分だった。
彼は仕方なく、東を幇助犯ではなく共犯者に仕立て上げることにした。
「一人が危ないんだったら、東くんも一緒に行こうよ。東くんがいたら危なくないよね。二人だもの」
「子供だけで行くのが危ないんだって言ってるだろ」
「でも僕、どうしても行きたいし……。頼れるの東くんだけなんだ。だめ?」
「だめっていうかさあ」
「東くんがだめならもういいよ。止められたって僕勝手に行くし……」
あからさまに不貞腐れた様子の茅を見て、東は困ったように眉を顰めた。世話焼きな友人は結局、茅を一人で危険な場所にやることができず、渋々といった表情で誘いに乗ったのだった。
実行の日、茅は東の家に泊まりに行くと言って家を出た。
東は母親と二人暮らしで、その母親も夜遅くまで仕事をしている。秘密の外出はどちらの家族にも知られることなくスタートを切った。
二人は夜の公園へ走った。最初は不承不承だった東も夜の空気に当てられたのか高揚した様子で、茅もまた友人との探検に心を踊らせていた。
二十分ほどかけて緩やかな丘を上がり、城の跡地へと辿り着く。懐中電灯の光ではあまりに心許ない闇が脳を刺激し、本能的な恐怖を呼び起こす。
夜の涼しい風だけが吹く丘の上に石碑はあった。言われなければ見逃してしまいそうな大きさの石碑は佇むばかりで、この場所でかつて何百人もの人間が死んだとは思えないほど静かだった。
「茅、こっち」
「幽霊いた?」
「違うよ、ほら」
東につられて茅は丘の上から町を見下ろした。
「夜景って都会にしかないんだと思ってた」
東がぽつりと呟く。
眼下には闇夜が漂い、家々の光が散りばめた宝石のように輝いている。海の近くにひしめく工場は妖しげな緑の光をぬらぬらと放っていた。
茅はその光の向こうに広がる黒い海を見つめて言った。
「あの海の向こうに島があるんだって」
「へえ、そうなんだ」
「父さんの……死んだ父さんの故郷がそこなんだけど、暗くて見えないね」
「島だろ。ここより田舎だろうから明かりも少ないんじゃないか。だから見えないんだろ」
「そうなのかな」
死者の魂が眠る丘から見える生者の営みが茅は好きだった。静かだけど独りではない気がして。
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