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茅は公園内の第一駐車場に車を駐めて一息ついた。
園内マップによると第三駐車場まであるというが、精々花見の季節にしか使われることはない。園内の植物たちも春に向けて眠りにつこうとしている今は、車もまばらに停まっている程度であった。
ふと携帯電話に目をやれば、東から数件連絡が来ていた。
おそらく昼休憩中にメッセージを送ったのだろう。体調を心配する内容が綴られている。文末は「冷蔵庫にゼリーあるから食べていいよ」という文章で締め括られており、茅は思わず苦笑した。
以前、果物が詰まったゼリーを食べていたとき「おいしい」と感想を漏らしたのが聞こえていたらしい。食欲のない友人もこれなら食べられると思ったのか、それ以降、冷蔵庫にゼリーが入っていることが多くなった。
実を言うと、茅はゼリーが好物というわけではない。中に入っている果物が好きなのであって、外側の甘いゼラチンはなくてもよいのだ。けれどせっかく買ってきてくれるのにそんなこと言うのも気が引けるので、茅は黙ってゼリーを食べることにしていた。
——何も食べていないって正直に言ったら、また心配されるだろうな。
悩んだ挙句に「ありがとう」の五文字だけを返信して、茅は車から降りた。
澄んだ空気に肺が満たされる。人生の大半をこの町で過ごしているからか、特別に空気が綺麗だのおいしいだのとは思わないが、自然が多い場所は気分が良い。
夜景を見るには時間が早いが、せめて町と海を眺めてから帰ろうと茅は山道へと向かった。
城跡は麓から約二十分ほどの山頂に位置している。緩やかな傾斜に整備された山道のおかげで、子供からお年寄りまで誰でもハイキングを楽しめるというのが公園の売りだった。
道の途中には藤棚の下で休めるベンチが置いてあり、春頃ならばここを登る市民や観光客も少なくはない。
冬の訪れを感じる今、道を行くのは茅一人だけであった。少し歩くだけだと思っていたが、予想以上に体力の消費が激しい。子供の頃はもう少し楽に登れていたような気がするのだから、身体が衰えているのだろう。
足に血が通っているせいか痒い。横腹も引きつるように痛い。呼吸が苦しくなって、息をするたびに喉が焼けつく。
少し歩いただけでこの様なのか。茅は内心ショックを受けていた。外出が億劫で避けてきたが、少しぐらい運動した方がいいのかもしれない。
額に浮いた汗を手の甲で拭う。空気は涼しいのに身体は熱い。五分も経てば明確な目標もないのに気分で山に登り始めた自分に嫌気が差してきた。
頂上へ近付くほど道が暗くなっていく。まだ夕方前のはずなのに、鬱蒼と生い茂った木々のせいで夜のようだった。
荒い呼吸のまま道なりに進めば、藤棚のある東屋が見えてくる。屋根に絡みついた藤の木が無数の腕のようで、一息つくにはあまりに不気味な様子であった。
その昔、花見の時期に見た藤棚は綺麗なものであったから、この場所はこんなに陰気なものだっただろうかと茅は首を捻りながら通り過ぎた。思い出を美化するのが人間という生き物の常であるが、果たして——。
木々が少なくなり、視界が開けた。ひんやりとした風が吹く。頂上に辿り着いた安堵で茅は力なく蹲み込んだ。
「耳、痛い……」
呼吸を整えながら、寒さで赤くなった耳を覆って暖める。しばらくそうした後に、茅はようやく立ち上がった。二十分ほどで着くはずの山頂にその倍の時間を要した気がする。
景色を眺めようと辺りを見回すと、見慣れない建物がそばにポツンと立っていた。円筒状の建物に螺旋階段が巻きついている。剥き出しの屋上には望遠鏡が設置されており、そこが展望台であることを表していた。
知らないうちにこんなものが造られていたのかと見上げていると、死角にいた人影が目に入る。展望台の影になった螺旋階段に人が佇んでいるのだと気付き、茅はすぐに首を捻った。
「揺れてる……」
黒い影はゆらゆらと揺れていた。糸に吊るされたマリオネットのように。頼りなさげに揺れる身体を見ているうちに、茅は血の気が失せていくような思いがした。
果たして自分の目に映っている人影は、生きている人間なのだろうか。自分の見えている世界が真実ならば、その人影の足は地面についていない。
目と鼻の先で縄に吊るされた死体が揺れている。生まれてこの方、葬式以外で死体を見たことがない。脳裏に浮かぶのはおそらく死体など見慣れているであろう友人の顔で、肝心の電話番号が出てこなかった。茅は携帯電話を取り出して、しばらくの間、螺旋階段に吊り下がった死体を眺めていた。
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