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第一章:消えたコンパス①
「……なるほど。エリリンはコンパスをご所望と」
「あのさ、それやめてほしいんだけど」
彼女は――多々良部映理は――もうさっそくこの店に入ったことを後悔していた。
店の奥、バーのカウンターのような仕切りを挟んで、御大層なひじ掛けのついた椅子に座る店主代理の少女――作楽と向かい合いながら、深くため息をつく。
「何で? 可愛くない?」とまるで悪びれずに椅子でくるくると回る少女の奔放さに、映理は耐え切れずカウンターをバンッと叩く。
「可愛いかどうかじゃない、失礼かどうかだっ!!」
「ビッ……くりしたぁ」
「初対面の相手をあだ名でよぶな!!」
「コンパスだったら、確かあっちの方に……」
必死の叫びも虚しく、作楽はそそくさとカウンターを出て、店の奥へと隠れていってしまう。まさしくのれんに腕押しであり、映理はガクリとカウンターに倒れ伏し、これまでの人間関係がいかに秩序に守られたものだったのかを振り返っていた。
映理は転勤族だった。その土地に慣れるが早いか、住む場所がまた変わり、人間関係が構築されてはまたリセットされを繰り返してきた。そのため、映理はこれまで、深い人間関係を築いたことがなく、そのうちに周りとは当たり障りのない距離感を保つ癖がついてしまっていたのである。
自分から話しかけることは滅多にないが、話しかけられればそれなりに応対はする。そうして、集団で孤立することはないが、中心になったり、目立ったりすることもない。それが映理の処世術だった。
そういう事情で、この町に引っ越してきてからまだ一ヶ月も経っていないが、映理なりには今まで通り上手くやってきたつもりだった。
今日コンパスを買いに来た原因でもある「あの事件」が起きるまでは……。
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