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「たぶん、今夜だと思う。」  二人で暮らしはじめてちょうど二十日経った日の、朝だった。コーヒーを二人で飲みながら、カナトはゆっくりと呟いた。  カナトはあれ以降毎日早起きして、俺のコーヒーに付き合っていた。今朝は二回目のマンデリンだ。彼のいた、インドネシアの豆。一度目は、一口飲むなり顔をしかめて「酸っぱい」と残した。珍しく手に入れた浅煎りのマンデリンは、独特の酸味と土臭さがある。カナトにはまだ早かったな、そう言ったのが彼のプライドを傷つけたのか、その後しきりにリベンジをしたがった。だから今朝、もう一度淹れてやった。毎朝いろんなコーヒーを飲むなかで舌が肥えたのだろう、今朝のマンデリンはすんなり飲んだ。相変わらずの雨模様だが、雨どいから滴るしずくの音が心地よく、存外に爽やかだった。  二人で静かに、互いの故郷の話なんかをしていたとき、彼はその話の続きをするかのように、今夜だといった。雨雲の青色が彼に映り、その頬を透き通って見せていた。 「そうか、」  俺はなるべく優しく聞こえるように、彼の目を見ずに言った。 「じゃあ、夕食はお前の食べたいものにしようか。何にする、」 「バニラ味のアイスクリーム」 「デザートじゃないか、」 「いいじゃん、好きなんだから。あとさ、コーヒーを淹れてよ。コスタリカの、さるさる……」 「エルサルサルセロな」  俺は笑いながら、覚えとく、とだけ言って、部屋に戻った。いつかこの日がくる。はじめからわかっていた事だ。今さら感傷的になる必要もない。そう自分に言い聞かせて、普段通り研究室に向かった。  車から見る空は、久しぶりに青色を覗かせていた。千切れた雨雲が太陽光に透かされ、街にまだら模様を作っている。爽やかな朝だった。  研究室に到着してすぐ、科の統括教授から声をかけられた。今期の契約の終了をもって、俺のこの大学での研究・教職を打ち切ることになった、そうだ。君は別の大学でお呼びがかかったんだよ、などと言っていたが、恐らくは俺を追い払いたいために他の大学に押し付けたんだろう。 「わかりました。任期まで精一杯頑張りますよ」  反論はしなかった。する気力がなかった。教授は面食らった顔をしながら、残りの期間もよろしくね、と言った。その言葉を背中で聞きながら教授の部屋を出た。  俺はいよいよ、全てのものを失って宙ぶらりんになるのだと思った。向井。研究。カナト。全て俺の手を離れる。俺の意思とは関係なく。  研究室に戻って扉を閉めたあと、そのまま俺は立ち尽くした。あの日、向井はこの扉に立っていた。幼いカナトを連れて。カナトに出会わなければ、向井に出会わなければ。こんな仕事なんて、しなければ。  けれど俺には今、部屋で待つカナトがいる。それだけは確かなことだった。彼にうまいアイスを買って、好きなコーヒーを淹れてやらねばならない。彼の門出を、祝福せねばならない。  仕事の片付けもそこそこに、俺は近くのスーパーに寄って帰った。アイスクリームは一番高いやつにしてやろう、それ以外にも……食事にも好物を入れてやろうと思った。スーパーで食材を見繕っている間、何でも美味しそうに食べていたカナトの姿が浮かんだ。これ美味しいね、これも好き。お世辞かどうかは定かではないにしても、並ぶ食材の一つ一つに、彼の笑顔が重なっていく。こんな幸福な買い出しは初めてだった。  カナトはリビングでテレビを見ながら待っていた。俺はいつものように「ただいま」を言い、カナトもいつものように「おかえり」を返した。これが最後だなんて、信じられなかった。彼は嬉しそうに駆け寄ると、俺の手にぶら下がった買い物袋を受け取り、「ダッツ!」といって目を輝かせた。 「じゃあ、カナトの門出を祝って」  少しだけ手の込んだ料理を食べ、デザートには手持ちの中で一番良い器に盛ったバニラアイスを出す。リクエスト通りコスタリカの豆を引き、二人ぶんの湯を注いだ。 「夜の、いつぐらいなんだ」  俺が聞くと、唇の端にアイスをつけたカナトが顔をあげる。 「夜明け前だと思う。個体差はあるけど、仲間は大体そうだって言うから。」 「夜明け前に、羽化するのか」 「羽化の始まりだね。羽化しきって、飛び立つのは夜が明けたころって感じ。」 「……その後はどうなんだ、」 「心配は要らないよ。他の蝉とは違って、俺たちは成虫の期間の方が長いんだ。何度も季節を巡りながら……世界じゅうを旅するんだよ。きっと、楽しいと思う」 「そうか、」  それから俺はもくもくとアイスをすくって食べた。さすがに普段食べるような100円のアイスと違って、バニラとミルクの風味が口一杯に広がる。すでに食べ終えていたカナトは、テーブルの反対側で俺の食べる姿をじっと見つめていた。 「なに、」 「別に、ほんとに最後なんだと思って」  嘘みたいだね、そう言って彼はコーヒーを一口飲んだ。ソーサーに戻ったカップが、かチャリと音をたてる。 「ねえ、脩さん。俺のこと、論文とかに書いたらいいんじゃない。有名になれるよ」  俺はスプーンを持つ手を止めた。それはそうだろう。こんな種、今まで誰も発表しなかった。向井でさえも。  けれど。 「発表したら、お前追いかけ回されるぞ。こんなふうに」  机の上に飾っていた蝶の標本を指差す。カナトは顔をしかめ、大袈裟に気持ち悪がった。 「あはは。まぁ、今まで誰も発表しなかったんだ。きっと、そういうことだろう」 「そういうことって?」 「何ていうか……そっとしておいた方がいいいんだってことかな、」 「どうして、」 「それは……さ、こんなふうに暮らして……思ったんじゃないか、大切にしたいって」  自分でも驚くぐらい、素直で、優しい気持ちだった。俺の話を、カナトは嬉しそうに聞いている。 「ねぇ、脩さんも?俺のことは大切だと思ってる?」 「どうかな」 「そうだったら、ひとつだけお願いがあるんだけど、」  カナトは返事を待たずに俺のとなりに移動した。膝立ちになって、俺を見下ろす。 「少しだけ、目を閉じて」  言われるままに目を閉じた。それが返事だった。唇に温もりを感じた。  カナトの口づけは甘くて柔らかくて、俺はこのまま死んでも良いかもしれないと思った。もうあとは失っていくだけだ。全部、ぜんぶ。今この口づけだけが、俺をこの世界に繋ぎ止める糸のようにすら思えた。カナトの指が俺の頬をいとおしそうになでながら、長く、長く口づけあう。息が上がっていく。目を開けると、カナトの熱っぽい顔がすぐそばにあった。 「……仲間にはね。人間に入れ込むなって言われてるんだ」 「だめじゃないか、」 「脩さんのせいだ」  笑う俺の唇を、カナトがもう一度塞ぐ。その続きがしたいのだろうと言うことは何となく気づいていた。俺はカナトのしたいようにさせた。この夜の記憶のほとんどが、彼の体温で満たされていく。 「……どうして虫の研究をしてるの?」  暗闇の中で、カナトが囁く。 「子供の頃から、好きだったからな。好きなものを仕事にすれば、きっと楽しいんだって、信じて疑わなかったよ」 「楽しくなかったの」 「そういうわけじゃないけど……たまに、何でこんなことしてるんだろうなって、思うときがある」 「へぇ、」 「何でこんなに苦しいんだろうとか、もっと他の仕事を選べばよかったとか、……でも……」  空が白み始めている。いよいよだ。 「カナトに会えたのも、この仕事のお陰だから、たぶん、続けると思う」 「うん、」 「お前は?人間の生活は、どうだった?」 「大変だった」 言いながらクスクスと笑う。俺もつられて笑った。 「ほんとはもう少し人間のままでいたい。あなたの隣で、こうやってずっと……時間が止まってほしい。でも、」  カナトがゆっくりと立ち上がる。 「もういかなきゃね、」  窓からにじむ青白い光が、彼の輪郭を浮かび上がらせる。彼は羽織っていたシャツを脱いで、床にふわりと落とした。すでに胸の辺りが青白く透けている。 「本当は、羽化するところを人間に見せてはいけないんだ。いちばん無防備な瞬間だから。でもあなたは特別だ。見ていてほしい。」  そう言って肩越しに振り向くカナトの、腕、首筋、顔が、次第に透明になっていく。ガラスと一体化しそうなほど儚い彼の輪郭は、薄い膜のようになっていった。透けた体の向こうに、沈みかけの小さな星が見える。  夜が、明ける。 「……また、会えるか?」  俺は小さく言った。すでに彼の顔は透けていて、表情は読み取れない。けれど俺には、笑っているように見えた。  やがて音もなく背中が裂け始めると、膜となった体は形をなくし、絹のように床の上にすべり落ちた。その中から、一匹の白い蝉が這い出す。まだ全身が柔らかく、弱々しい。ゆっくり時間をかけて伸びていく羽に、次第に美しい模様があらわれていく。青い羽脈によって区切られた一つ一つが、それぞれ違う色に淡く染まっていった。まるで鮮麗なステンドグラスのようなその羽は、今まで見た他のどんな個体よりも美しかった。彼は方角を見失ったのか、その場で戸惑うようにあちこちを見回している。  俺はベランダの窓を開けてやった。湿気た風が部屋に入り込む。雨はない。遠くから車の走り抜ける音がする。  やがて彼は飛び立った。小さな体はすぐに見えなくなる。彼の脱け殻は、朝陽に溶けるように消えてなくなった。  タイマーでついたテレビが六時を告げたとき、俺はようやく現実に引き戻された。いつもの朝が来た。  俺は立ち上がり、コーヒーを淹れようと暗いキッチンに向かった。器具をセットし、ミルを取る。  そこに二人ぶんの豆を量り入れたとき、全身の力がするすると抜けていくのを感じた。その場でうずくまるように、頭を垂れる。ぽつり、ぽつりと床に涙がこぼれ落ちていく。  ベランダではカーテンが穏やかに揺れ、明かりのない部屋に俺だけが残されていた。 (終)
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