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「糸!」
逸る気持ちを必死で押しとどめ、玄関のドアを開けると、糸はまだトイレにいた。
「ぶちょう……」
右手に検査薬、左手にスマホ。俺と電話を切って、二十分くらいそうしていたらしい。
荷物を廊下に放り投げて、狭いトイレでそこに現れている一本の線を見た。
糸はなぜか涙ぐんでいる。
「……糸?」
身体がつらいのだろうか。妊娠が嬉しくないのだろうか。不安なのだろうかと心配したのも束の間、
「私に、赤ちゃんを、ありがとうございます」
そう言って、俺にぽすんと身体を預けてきた。
「嬉しいです。幸せです……」
糸の手から検査薬とスマホを預かって、トイレの中の飾り棚に置いてやるとその手を俺に回してきて力を込めてきた。
俺も思い切り抱く。
「バカか。……ありがとうも、嬉しいも幸せも、ぜんぶ俺の台詞だわ」
涙が出そうになって、小さな天井を仰いでこらえる。
まさか、本当に俺が父になるとは。
「……部長、なんか、急に、吐き気がしてきた気が……」
「いやいやお前、それはさすがに自分に酔いすぎだろ」
「いや、ホントに……ウっぷ」
時刻を確認すると、二十時過ぎ。さすがに救命救急の外来案件でないことくらいはわかる。
「…………姉ちゃんとこ、行くか」
受診は次の日でもなんら問題なかっただろうが、人間というものはつかめる藁があるとつい頼ってしまう。しかし、糸のおっぴろげた股の間を義兄が見る、そのことにまだ葛藤はあった。しかし義兄もプロだ。俺ら営業マンが数字や商品を見る感覚と同じに違いないと自分に言い聞かせ、結局は、無理が言える義兄の病院に駆け込む羽目になった。
「夏至くん、おめでとう! ちょっとフライングだけどネ! その辺は僕がうまくごまかしてあげるから」
「ども、助かりますゥ……」
結婚式の三日前のことだった。
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