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(おまけ)マグカップと糸の願い
引っ越しの段ボールの中から、緩衝材に包まれた見慣れないカップを糸は手に取った。
「この、マグカップ……」
「ああ、雷春さんが餞別にくれた」
リビングで荷解きをしていた堂道が顔を上げる。
この度、二年に渡る支社勤務を終えて、堂道は東京に戻って来た。
それを機に、糸はついに堂道に結婚してもらえることになった。
「……趣味いいですね」
形はシンプルだが、ネイビーの色がオシャレなカップだ。
「イタリアだかフィンランドだかのブランドだかで」
「イタリアとフィンランド、近くもないしなんの共通点もないし…」
「あー、会社で使えってもらったから会社持ってくわ」
「あの、スタバのは?」
「あー? あれ、どうしたっけ? そう言えば会社に送った荷物に入れた記憶ねえし、支社に置いたまんまかも。おいおい、またなんか考えてんのかー?」
堂道がキッチンにやってきて、言葉少なになった糸の頭を優しく撫でる。
「使ってほしくないか?」
「いえ、せっかく素敵なカップだし。ヤキモチとかそういうのはもうないです」
糸は明るい顔で首を振った。
本当だ。疑いようのないくらい、とくと堂道に愛された。
「……マジで、向こうでは糸がいつ来んのか、糸が来たらヤるのかヤられるのかヤってしまうのか、そればっか考えてたわ」
「もー、エロ課長、仕事してくださいよー」
「……お前が悪い」
糸は、コップをカウンターの上に置くと、抱き寄せられる前に抱きついた。
しばらく、ただ抱き合うだけの時間が過ぎる。二年間の不足を満たすかのように。存在をただ感じるために長い時間、抱き合っていた。
「……営業部、若い子が何人か入ってるから心配」
「そんな心配、するだけ損だぞ」
そうは言うけれど。
もうすぐ糸だけのものにはなる予定だけれど。
誰かが『本当の堂道』を知った時が、糸は恐い。
「一生、嫌われていてください」
「ひどい奥サンだ」
糸の切なる願いだった。
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