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終点と終電を告げる車掌の声。 重い瞼を開く。 ぼやけた視界の中、手元の腕時計を見ると日付が変わろうとしていた。 今日もまた終電での帰宅である。また新しく蓄積された怠さを感じながら、私は顔を上げた。 ゆっくりとした速度で深夜の景色が流れていく。灯りの消えた、眠った街。いつもと変わらないそれは、黒塗りの書割を彷彿とさせた。 正直な話、この時間の帰宅はもう慣れてしまっている。特に忙しい訳ではない。ただ、上司とお局のかじりかけの仕事を私達部下が片付けているといやでもこうなるだけだ。入社して八年。ずっと改善されずそんな調子なので、定時帰宅がかなった事など三回くらいしかない。うちの会社はそういう、一昔前の体制で回っている危ない所なのだ。 とはいえ、その環境に甘んじている訳ではない。慣れこそすれど辛いものは辛い。そろそろ転職でもした方がいいかな、とはずっと思っている。ただ、行動に移すには色々なものが足りなかった。転職という考えだけはあれども、金銭もキャリアも私には持ち合わせがない。 あまつさえ、この環境を変える勇気がなかった。例えば、転職が決まったからと言って、そこがいい場所だとは限らない。最初この会社に入社した時と同じように、いい事だけアピールして中身は全然ダメだということだって有り得る話だ。あとは環境が良かったとしても、自分のキャパシティを超えてしまうような仕事内容だったら、それは失敗だとも言える。そうしてあらゆる失敗を考えてしまうと怖気付くというか、今の、やりなれた環境のままの方がいいのではないか、とどうしても思ってしまうのだ。 ​──私って、本当めんどくさいなあ。 疲れてもなおうじうじと考えることだけはとまらない。そんな自分につくづく嫌気がさす。 やがて、ゆっくり電車が止まった。 大きいリュックを背負った外国人の後ろについて電車を出る。生温い風がふわりと顔を撫でた。蒸し暑い。冷房の効いていた車内でもう少し休んでいたかった。 疲労感を背負い、まばらな人の流れに乗って長い階段をのぼっていく。少し息を切らしつつ改札を出ると、それからまた階段をのぼってやっと外だ。ただでさえ毎日すりへった心身を引き摺っているのに、嫌がらせのような階段は本当に勘弁してほしい。本当はもっと利便性のいい場所に引っ越したいが、生憎いい物件はない。私には運もないらしい。 ​──ああ、本当にどうにかならないかな。 ため息と共に夜空を仰ぐ。 星がたくさん瞬いているわけでもなく、月がぽつんと遠くにあるだけで特に綺麗ではない。そういえば今日はブルームーンだとラジオで聞いていたが、何がどう普通の月と違うのかいまいち分からない。尤も、わかったところで何もないのだが。 不意に、エレキギターの音が耳を劈いた。 迫力のある音は虚無の意識によく響く。驚きつつ、音のした方を見た。遠目、派手なストリートミュージシャンが、数人のギャラリーを相手に何か叫んでいる。マイクの音がこもっていてよく聞き取れないが、どうやら足を止めてくれたお礼を言っているらしい。 まもなく曲が流れ始めた。歌い出しまで若干長い。しかし前奏の長さには不思議とくどさを感じない。寧ろ、織りなされる音の繊細な掛け合いが妙に心地よく、ささやかな優しさすら感じられる。私は音楽について全く詳しくないのでどう言ったらいいのかわからないが、この曲は感覚的に好きだと思った。 気が付けば少ないギャラリーに加わって、興味のまま彼の曲を聴いている自分がいた。歌は早口な上、英語なのかいまいち何を言っているのかわからなかったが、最後には自ずから拍手を送るほどいいと思えるものだった。 だが、そうやって感動する私に反し、ギャラリーの反応は一様に冷たい。曲が終わると早々に、こんなものかと言いたげな視線を投げながら、各々何事も無かったかのように散っていく。少し寂しいと思いつつ、 私も少しずつ冷静になった。没頭したあとの余韻ほど残酷なものはない。自分らしくもなくこんな所で足を止め、あまつさえ目立つことをしていた、という恥ずかしい現実がいたたまれない。 ​──私も早く帰ろう。 少し雑に踵を返す。 すると、マイクを外した青年の声が私の背にかかった。 「あー! おねーさん待って!」 驚きのあまりつい肩を竦ませた。情けない。 ギャラリーからあんな風に反応されたら嬉しくて話しかけてくるのなどわかっていたことなのに、ここにきていよいよ、 ​──やってしまった。 と、後悔した。 しかし無視できない自分の性質[たち]が憎らしい。つい立ち止まって振り向いてしまう。 逆立てたオレンジ色の髪の毛にジャラジャラとうるさいシルバーアクセサリー。どう見ても関わってはいけない、あるいは未知の存在とも言えるだろうか。そんな存在に今に至って何を言われるのか予想がつかない。 身構え気味の私に対し、青年はどこかあどけなささえ感じさせるような笑顔で言った。 「おねーさん、拍手あざっした! マジ嬉しかったっす!」 「は、はい」 「あっ、急にさーせん! 初めてお客さんから拍手貰えたんでつい声掛けちゃったっす」 ​──割と普通だ。 思いの外、やばい、と感じる所はどこにもない。ただ、言葉遣いが粗雑で、簡素というか単純なだけで普通の青年である。少し安堵した。 そんな失礼な印象を持たれていたとは知らないであろう青年は滑らかに言葉を続ける。 「よかったらまたライブ聴きに来てください! 俺、毎日同じくらいの時間までここにいるんで!」 「そ、そうなんですね。……」 とりあえず無難な言葉を返した。 あれこれと突っ込んだことを素早く聞けるほど、会話の適応力はない。はい、と満面の笑みで受け止める彼が眩しい。 「その時もおねーさんから拍手もらえるように頑張りますんで!」 それ以上はどうしたらいいのかわからず、私は自分の言葉から一間遅れてぺこりと頭を下げると、慌ててその場を離れた。アドリブに弱い人間の精一杯の努力である。 気を付けて帰って下さいね、という彼の言葉が、雑踏のなくなった空間にしばらく響いていた。 どれくらい歩いただろう。 自分の家の近くにあるコンビニまで来てようやく落ち着けた。 淡く反射する自分の影を見る。いつも通りの疲弊した顔に、今日はほんのりと生気があった。もやもやと考え込む終電帰りの日々の中、わずかながらでもこうして感情のある顔を見たのはいつぶりだろう。随分と見ていないそれに、私は少し嬉しくなった。 つい、ふっと笑ってみせる。しかし疲弊しきっていることには変わりはないので、ガラスの中の自分は相変わらず輪をかけたブサイクだった。それでも悪い気はしない。 ​──よかったらまた聴きに来てください。 先程までのやり取りと曲が、脳裏に蘇る。 またあのいたたまれなさというか、気恥しさを感じることになると思うけれど、もう一度聴きに行きたい。そしたらまた、こんな気分になれるだろうか。 そんなことを考えながら、私はコンビニに入った。 久し振りにビールが飲みたい。 明日は休みだし、今日くらいはそんな事をしてもいいような気がした。
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