この世の果てまで

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              【3】  梅雨が明け、夏の日差しと気温が顔を出し始めたころ。  僕は憶えたての煙草を持って講義を抜けだすサボりを憶えた。  煙草の味なんて自販機で買った缶コーヒーで消し流すのに、それでもやめられず屋上に昇っては時間を潰す。  屋上は日差しが直に当たり、さらには地面のアスファルトをフライパンのように熱する。当然、雨が降ればわずかに出っ張った屋根の下以外は濡れることになる。快適とは言えないが、だからこそ利用者のいないこの秘密の喫煙所は居心地が良かった。  毎週月曜の二限。口から発せられる一音一音が全て繋がった状態で発声される教授の声と退屈さに耐えられなくなり、秘密の喫煙所へと逃げ出すのがいつものルーティンになっていた。  五回目の授業から、逃げ出した先に先客がいることも多くなっていた。いないときは僕より後にやってくることも。  その当時はお互い離れた位置で、干渉もせず、存在だけを認識していただけ。僕が皐月に抱いていた印象は、風がたなびかせる黒髪が初夏の空を跳ぶ蝶みたいだなと、その程度。紫煙は風に巻かれて消えていくけれど、彼女の髪はずっと残り続けている。頭皮と繋がっているのだから当たり前なのだけれど、それは彼女の意思に反しているようにも見えた。  そんな蝶も雨になれば跳ぶのを自粛する。  持ち主は濡れるのを嫌って屋根の下へと逃げてきた。  蒸し暑い風は彼女から僕に。風下は僕がいる方で。彼女が吐いた煙も僕のほうに。  喫煙者である僕が他人の吐いた煙に文句など言えるはずなく。甘ったるい匂いが初夏の雨特有の臭いを上書きし、僕の鼻をつまむ。  女性が吸う煙草の代表格だけれど、すました目つきと雰囲気には似合わなくて、 「────」  思わず笑ってしまった。 「────」  睨まれた。  視線は氷点下の風のように鋭くて、だけど、顔を背けることもできなくて。  目を反らして誤魔化してみても、通せるか通せないか。  舌打ちが聞こえた。  舌を鳴らす舌打ちじゃなくて、本当に〝チッ〟と発音する下手くそなやつ。  出来ないならしなきゃいいのに。きっと舌打ちと言う感情の表現方法を最近知ったのだろう。僕も小学生のとき、漫画のキャラに憧れて多用していた時期があったからよくわかる。カッコいいとかカッコ悪いかもそうだけれど、何より大人に近づけた気が舌を動かしていた。難しい言葉は意味が分からないけれど、舌打ちなら簡単に感情を表現できる。本当の気持ちなんて自分でも掴めていないのに。  反抗期ってやつかもしれない。  仲良くしてくれる友達や良き理解者である大人たちじゃなくて、当時の僕が欲していたのは敵だったのかもしれない。  今の僕は大人なので、舌打ちされても彼女の敵にはならない。反応しない。無視する。  相手も一応大人なのでその日はこれ以上のことは起きなかった。  僕が吸い終わるころにはもう、彼女の姿は消えていた。残り香すら置いていかず。  代わりと言うように不思議なことが起こった。  次の日から、大学構内で彼女と顔を合わせる機会が増えたのだ。  授業を組み直したわけじゃないから、授業と授業、教室間の移動ルートが変わったわけでも無い。もう七月も半ば、テストが目前へと迫っているこの時期だ。彼女のほうもまさか出席する授業を変えたわけではあるまい。お互いに今までと同じ生活習慣のはずなのに、すれ違いと視線のぶつかりが増え、いつもの月曜二限では煙草を吸いながら会話するようになっていた。  血液型、学年、学部、お互いサークルに入っていないこと。バイト、彼女のバイト先が貸しスタジオであること、僕のバイト先は何の面白みのない居酒屋であること。取っている授業は違うが、暇で抜け出したい授業時間は被っていることなど。実にくだらない、お互いの名前以外の色々を。  呼び合う時や声をかけるときは苦労したけれど、それでも二人でいるとき居心地はわるくなかった。会話が無くとも、煙草が空白を埋めてくれる。煙を吸って吐く間に次の言葉を見つけておく。そんな感じ。  紫煙が消える前に聞ける皐月の声を楽しみだした夏の日。  これが初恋、ではない。  それは強がりではなく、彼女と出会う前に付き合っていた彼女がいるからであり、会話だけを交わしていたあの頃は、未だ彼女に恋愛感情を抱いていなかったからだ。   ちなみに、彼女も僕と付き合うことが初恋ではないらしい。何なら今も付き合っている人がいるのだと。恋をしたことが無い人間ほど信用できないと思っているので、やはり彼女とこのとき出会えてよかったと思う。  だって今が幸せだから。  信じられないものより信じられる事実が多い方がいいに決まっている。  ただ、空に舞う蝶みたいな彼女の黒髪が赤く染まっていたときは目を疑ったし、空の青と髪の赤のハレーションに視神経と脳神経が焼き切れるかと思った。  何を、どうしてそんな髪色にしたのか。ファッション、特に人の髪色などに強い興味のない僕でも彼女にとって赤い髪が似合っているかどうかはすぐに判断できた。 「似合っていない。君らしい、とは思うけれど」  つい、言ってしまった。  こんなこと他人が口を出すべきではないのかもしれない。しかし、それにしたって彼女の髪に赤は相応しくなかった。  燃えるような情熱を表現した。  わかりやすい色に頼らなくたって、火傷しても触れていたい温度は会話のなかで触れていられるのだから。 「そう──。……両親には反対されたわ」  染まったばかりの赤色を撫でながら、彼女は呆れたようにいった。  あるいは絶望したように。  このとき、僕は何かを失った。  失ったものはとても大切なもので。目には見えないけれど目の前にあるもので、手に入れていないくせに大切なことは知っていて。その時初めて手に入れたいと思って。 「私はこの色が好きで、この色でいたいと思って、誰かに見られるためにやったわけじゃないのに。どうして評価されるのかしら。裸でいるわけじゃないんだから、罪を犯しているわけじゃないでしょうに」  裸でいるわけじゃないから、罪を犯しているわけじゃない。  髪を赤色にすることは罪じゃないのだから、誰にも文句を言われる筋合いもない。  釣り合いの取れないことの多い世の中で、この理屈も不平等な論だなと思った。  こんなことを言ったら世の中からバッシングされそうだが、男が裸になるのと女性が衣服を身に纏わず外に出るのとでは罪の重さが違う。  後ろのほうから囁かれる甘い言葉に衝き動かされた時点で、見境はない。  彼女の両親が彼女の髪色に反対する理由もわからなくはない。  派手な女ほど絡む男は危険度を増すし、同時に勘違いする人間も増えていく。  娘には幸せであってほしい。夢を応援することができない親の理屈。応援してくれる親もいる世界、どちらの方が素晴らしいかなんて結局は結果論。背中を押された先は崖の下。引き止められ、辿り着いた先は花園。  数多の可能性を考慮すれば、誰だって到達する理想の彼方にも。  人生は一度きりだから、全部試すなんて無理だ。そんなこと僕らより二倍も生きている親の知っているに決まっている。  その経験値から与えられるアドバイスも基本は間違っていないはず。従っていれば、一般的な幸せは手に入る。  本人がそれを幸せと思えるかは別として。  例えば目の前の赤髪の女は自分が望むものでしか幸せを感じられない不幸なタイプの人間だ。真剣な顔をして世界の女王になりたいと語るような女だから、望みを果たすのは難しいだろうけど。  それ以上の会話も無く、その日、彼女は僕よりも先に屋上を出ていった。  どこに行くのかも教えてくれなかった。  教える義理があるのかと問われれば、それもまた微妙な話なのだが。  今いる屋上から見つけられるだろうかと、赤く染まった翅を探したけれど、叶わなかった。もうどこかへ飛んでいってしまったのか。あるいは、屋内に身を仕舞っているのか。  東屋に降り注ぐ蝉時雨はここまで届いてこなかった。今、彼女はその中にいるのかもわからず、残り香も消えていく。  雲行きが怪しくなっていて、蝉時雨よりも雨に濡れそうだ。  彼女と屋上であったのはその日が最後だった。  あれからすぐ期末試験が始まり、終われば夏休みだ。  月曜二限にテストは無かったから──いないと思いつつも──その時間に屋上に行こうかとも考えたけれど、足は向かなかった。  ただ、クーラーの効いた図書室で身の入らないテスト勉強を友人達としていた。  付き合いの悪い僕にも付き合ってくれる付き合いのいい奴らだ。  彼らも勉強に集中できていなかったのだろう。  この大学の女生徒を狙って、道端で売春を持ちかけ、結局最後までヤッたあと眠らせて男はトンズラする事件の噂について話をしていた。  正直、ホテルまで連れ込めるスキルが羨ましいという結論と、そんなことするクズにはなりたくないという批難に行き着き、話題が尽けば小声で質問してきた。 「例の女の子とはどうなったんだよ?」 「いい加減名前ぐらい教えろ」 「ヤッたの?ヤレそう?」  他人の女性関係に首を突っ込みたがる奴らだ。下品なことこの上ないが、最初のやつが入学二週間で彼女が出来たときは、僕を含めたその他全員で胴上げしながら池に叩き込んだし、あまり人のことを言えたわけではない。ちなみにその三週間後に別れたときは全員で海に飛び込んだ。五月の海はまだまだ冷たかったが、カップヌードルがやけにうまかった。  ちなみに最後の質問をしてきたやつは自他ともに認める童貞、もとい童帝である。顔が悪いわけではないと思うのだが、なにせ発言が気持ち悪くて嫌われる人間からはとことん嫌われる。SNSのプロフィール画面の一言は使ったオナホールの数だ。そりゃあ嫌われる。  この中では一番地味な二人目の質問から答えていく 「僕も知らないよ。本当に、会って話をするだけだから」だいたい、付き合っている人がいるみたいだし。 「それでも流れで名前ぐらい知るだろ」  その通りで、苦笑するしかない。  名前を知る場面はいくらでもあったのに、お互い訊こうとすらしてこなかった。 「最近会っていないんだ。名前も知らないし、もちろん連絡先も」   そう言えば、久しく彼女の吸っていた煙草の香りも嗅いでいない。彼女の吸っていた煙草は女性に好まれる、甘いフレーバーと香りがついたもの。バイト先の居酒屋に喫煙者は多くやって来て、客数の十倍二十倍の吸殻を残していくが、そのほとんどが男性客によるものだ。女性の喫煙者は男性に比べるとドッと少ない。彼女と同じ銘柄のものを吸っているお客がいたとしても、その香りは他の紫煙らしい紫煙によってかき消されているのだろう。  久しく嗅いでいないと、なんだか懐かしく感じる。 「知っているのは煙草の銘柄ぐらい。そう、あの細いやつ」  細い指に挟むのは細い煙草。  ピアノの鍵盤が似合いそうな白い指で、ギターをプレイしているらしい。  ギターだけじゃない。ベース、ドラムス、その他自らの作った曲に必要だと思った楽器は全て。その理由は、自分ひとりでやれるから、その一点だけらしいが、いかんせん人間関係作りが下手くそなこともあるかもしれない。オナホールのやつじゃないが、彼女の言葉の端々には棘が見え隠れしていた。その棘は、僕にとっては心地よいものだったけれど、ほとんどの人がそう感じ取られるかと言われればそうじゃない。合う合わないがあって、合わない人のほうがほとんどだ。 「じゃあなんだよ、このまま自然消滅か?」 「自然消滅って。付き合っているわけじゃないんだから」  遠距離恋愛のカップルの別れ話みたいだな。  消滅するような関係性も僕らには無い。 「それならどういう関係なんだよいったい」  どう説明していいかわからない。  言葉にすれば、ただ週に一回か二回、顔を合わせて煙草を吸いながら他愛もない会話をするだけの間柄。  もっと深い関係性であると証明できる確かな出来事でもあれば、違う言葉を見つけるのだろうけど。 「あれだよ。いつも行くコンビニの店員さん。それぐらい」 「その女の子がお前と喋ってくれたのは親切心かサービス精神によるものなのか」 「え、あ、どうだろ」 「まあ、お前と話をしてくれるのなんてそんなとこだろうな」  じゃあお前たちがこうやって俺とつるんでくれるのはなんでだよ。  軽くツッコミ、でも、彼の言ったことが胸を反芻した。静かな図書室で、あの言葉だけが壁や本棚を反射しているようで居心地の悪さまで感じてしまう。  彼女が僕と話をしてくれたのは、彼女のホスピタリティによるものなのか。氷山の一角に、奇跡的に咲いた向日葵のような笑顔も、ただ僕を喜ばせるためだけに見せてくれたもの?  そう考えると、なんだかとてもうすら寒くなった。舞い上がっていた自分が恥ずかしい。  舞い上がっていた?  僕が?  それこそ思い上がりか?  何に?  彼女が僕に気を遣っていてくれたことに?  そんなことで僕は喜んでいたのか?  彼女が見せた笑顔は、ただ僕を喜ばせるためのもの。  信じたくない仮説だった。  だけど、そうじゃないとも否定できなかった。  情けないことに、僕は彼女を心の底から笑顔に出来ていた自信がなかった。  結局、テスト中もこの仮説に脳機能の半分を奪われ、教授に見事なお辞儀を披露することになった。勘違いしていただきたくないのは、大学教授のほとんどは生徒に頭を下げられたからと言って単位を渡してくれるわけではないということだ。だいたいの教授は課題やレポート、出席日数、これら全てが完璧であってもテストの点数が未達成であれば容赦なく単位を認めてくれない。だから、大概の授業は落としたら落としっぱなし。諦めるしかない。今回、教授がお辞儀を披露する機会を与えてくださったのは一重に温情と言うしかない。たまたま駄目だった授業が、たまたま所属するゼミの担当教授で、たまたま娘孫が生まれて、たまたま気分が良かったので研究室に呼び出され、たまたまお辞儀が最善な手だと直感した僕が披露したにすぎない。いけると思ったからいった。しかし、その間にはいくつもの幸運が挟まっていたことをここに想起しておきたい。  運が良かったから。次に彼女と再開するとき、それは運が良かったのか。結果で言えば良かったのだけれど、その状況は最悪だった。  居酒屋のバイト終わり。その日は深夜一時に店を閉める曜日、奇しくも月曜日──日付が変わって火曜日──自転車での帰り道。  その日は八月の頭、自転車で切れるはずの風は濡れたチラシのように顔へ張り付いて、息苦しさを憶えるまであった。  一刻も早く帰りたかった。  早く帰って、汗でベトベトになった衣服全て脱ぎ捨てて三十九度のシャワーでも浴びたかった。  そのために選択したのは近道だ。  大通りを途中で左折。イマイチ気乗りしないが、侵入するのはホテル街だ。ちょうど終電が無くなったこの時間、ホテルへと入っていくカップルは多い。いや、カップルはまだいい。二人の世界に夢中でこちらに意を示さないから。うっとうしいのは、風俗の客引きだ。彼らは僕が自転車に乗っていることもお構いなしに声をかけてくる。本当にうっとうしい。声をかけてくるならもっと財布が厚いときにしてくれ、行くから。  誘惑を断ち切る覚悟をもって、ペダルを漕ぐ。  息苦しい風の向こう側。振り切ったはずの視界に、赤い翅の蝶がいた。  見間違いかと思った。こんなところにいるはずがないから。ここは夜の街だ。派手な髪色の女性なんていくらでもいるだろう。だけど、湿気過多な夏の空気に交じって、あの甘ったるい匂いが鼻をくすぐる。  そして見過ごせない事実。男といた。しかも若くない。三十代。四十代。それぐらい。  急ブレーキ。  騒がしいが、静かなホテル街に甲高い金切り音が響く。  注目を浴びる。  ホテルから出てくるカップル。なぜかセーラー服を来た二十代、三十代のお姉さん。客引きのチャラいお兄さん。そして、片手をポケットに突っ込んだ若くない、三十代、四十代の男。その横にいる、 「──っ」  本当は名前を呼ぶつもりだった。けれど、呼ぶべき名前を知らなくて、喉から空気が漏れる。ようやく言えたのは汎用性の高い「おいっ」だけ。 「誰?知り合い?」と、横の男が──僕から顔を反らすように──彼女に問う。 「えっと彼氏さん……?」 「あなたには関係ないでしょ」  それはその通りなんだけど、彼女が言うものだから男はますます僕のことを訝しんでいる。 「彼氏にしては年が離れ過ぎていないか?」 「いや、自分は」  男は否定した。締まりの悪い顔で、言いにくそうに。事実はそのはずなのに、真実にしたく無さそうな。悪さを認めたがらない子どもみたいに。  女のほうに訊こうと、視線を向ければ、 「なんでお前が泣きそうな顔をしているんだよ」  彼女がこっちを向いたまま、俯きもせず、頬から流した涙を、熱を発するコンクリートの上に落とした。  熱いコンクリートに熱い涙。  蒸発して消えそうな嗚咽。  大通りを走る車の走行音。  ここでどうのこうの言えることがあるのだろうか。  泣いている彼女を慰めるべきなのか。だとすればそこにいる男と呉越同舟の立場か。少し違うか。  けどこのままじゃマズい何かが起こる気がする。  いや、それはもうきっと起こっている。  きっと今がマズい状況。 「否定するなら、お前はなんなんだよ。なんでこの娘と一緒にいるんだよ」 「私はこの娘とそう言う関係では……」 「そう言う関係ってどういう関係だよ! おい、お前、付き合ってる人がいるって!」  つまりはこの男がその相手ってことだよな。感情の起伏が分かりにくいお前でも、嬉しそうに話をしてくれたのはそいつだよな。 「そうよ……」そうだよな、やっぱり。いいよ、気になってた女の彼氏がオッサンだったのなら諦めるよ。  だけど、男もなんか言えよ、おい。肯定どころか否定すらしないのか。女は言ったぞ。 「あんたもなんか言えよっ」  ネクタイの結び目を掴んでは引っ張り、コンクリート塀に男の背中を叩きつける。  鈍い音に隠れて、金属の跳ねる音。  音ばかりだ今日は。  聴覚が鋭敏になっている気がする。  血液の流れる音も鼓膜へ直に響く。  どこに流れる血の音なのかわからないが、金属音の所在はすぐにわかった。  道路に落ちた異物。  紫とピンクのネオン、さらには街灯に照らされながら、それはなんだか申し訳なさそうに輝いていた。  プラチナの指輪。何の装飾も無い、男性が付けるに可も不可もないデザイン。だからこそ、よく見るデザイン。  それが、男の衣服のどこからか出てきた。指につけていたとすれば、そうそう外れることもないはず。それに、恋人と出掛けるとき、むしろそう言うものは身に着けるだろう。外して持ち運ぶ必要があった?  恋人に会うから、普段つけている指輪を外した。見せるわけにはいかないから。 「あんた、結婚しているのか……」 「…………」    男は小さく首を縦に振った。 「だから、最初に関係を訊いたとき」 「……認めるわけにはいかなかったんだ……」  複雑な事情でもあるかのように語り始めたが、聞けば実にシンプルでエゴスティックに満ちた内容だった。  毎週月曜日、僕と一緒に煙草を吸っていた女とこの男は所謂不倫関係だった。聞けば、彼女は男に家庭があることに薄々感づいていたらしいが、それでも恋人ごっこに身を浸していた理由は後に判明する。  男に家庭がある以上、失うものもそれだけ多くなる。学生カップルの浮気ではないのだ。ただ、喧嘩して、別れて、終わりというわけにもいかない。妻と子どもがいるこの男には二人分の人生を保証する義務と責任がある。  この二つを表面化させないために、全て夜の街に置いておかなくてはならない。そう判断して、とっさの判断で認めない選択肢を取った。誰が見ても二人の歩く姿は、すぐに関係性について感づくのに。実に愚かだ。 「でも、僕はあなたが結婚しているなんて知りませんでした。だいたい、初対面の相手なんだから。バレたところで……」  何ができるのだろうか。 「君が彼氏だったらきっと私に怒り、また彼女にも同じように、いやそれ以上に怒るだろう。そうすれば、君は私たちに与える制裁を考えるはずだ。大学生なのだから、それぐらいしてもおかしくない」 「制裁って」  弁護士をたてて、慰謝料とか分捕るとか?そこまで行動力持っている学生などそうそういないだろ。 「弁護士に頼む金なんて、僕持っていませんよ」 「そんなことしなくても……。──君と私は会ったことがある。憶えているだろうか?」 「……?いや、申し訳ないですけど……」 「君が働いている居酒屋にはよく行かせてもらっているし、それに、恐らく家も近い……。妻と子どもと歩いているとき、何度か見たことあると思う」  人違いなんじゃないか。僕には目の前で情けなく膝を組み、淀んだ表情の男を知らない。見たこともない。いや、淀んでいるのは今、このときだけか。そうじゃなくとも記憶を探っても思い当たらないが。  だいたい、毎日何人何十人の客相手に酒やら料理やらを運んでいると思っているんだ。特徴的な注文や言動でもしない限り、一人一人の顔なんて覚えてられない。それだけ、この男は無個性だ。 「だから、もしこのことがバレたら、妻や職場にも知られるんじゃないかと……」  家族を悲しませたくない心遣いは正しいが、だったらこんなことするなよ。 「言いませんよ。言いませんけど、わかっています?こいつは、あなたに認められなかったんですよ?それで、こいつは……」  泣いたんだ。  感情を表に出さない彼女は、この男についてのときは表情が豊かになる。今までに一回だけ、その時があった。今日、会うのだと。向こうは社会人で仕事をしているから、なかなか会えないけれど……、と。だからこそ、楽しみなのだと。僕は怖気ついて、深追いした内容を訊くことができなかったけれど。  そして、今日が二回目。この男に、自分たちが恋人関係であることを認められなくて、涙の表情を映し出した。  薄い氷が割れたように、ぐしゃぐしゃにしながら、それでも手で覆ったりなど隠そうともしないで。 「すまないことをしたと思ってる……。でも、私には何もできることはない……。この関係も、今日で終わりにするつもりでいた……」  男は落ちていた指輪を手に取り、左手の薬指に嵌めた。 「言っていたよ。認められたいって。彼女は認められていることに飢えている。私もそうだ、だからこそちょうどいい関係だった。それももう終わりだがね」  一人で語るだけ語って、男は立ち上がり、財布から三万円を取りだして、拒否する僕に無理やり握らせてきた。  口止め料のつもりか。それよりも、こいつにもっと言うことがあるんじゃないのか?不倫相手だったとしても、少なくともこいつは本気だったんだ。そのままで終わりなのか。  立ち去ろうとする男の肩に掴み、振り向かせて、一発殴るつもりで拳を振るった。  空ぶって──正確には振り切る前に──視界が一転して、今度は僕の背中がコンクリートに叩きつけられていた。  肺が一瞬空気を失い、せき込む。  何をされた?見えるのはホテル街の割れ目とその先にある夜空。星一つない、暗いだけの空。そうか、投げられたのか、僕。背負い投げとか一本背負いとか。柔道の技をかけられたのだろう。 「だ、大丈夫?」  夜空を隠すように、彼女が僕の顔を覗く。  涙の痕はそのままだが、表情は薄氷に戻っている。 「大丈夫。それよりも話がしたい。僕の家でいいかな。近いんだ」  はっきりと答えるタイプの彼女だが、このときは小さく何度か頷いただけだった。  
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