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朱莉の家は小さな洋食屋だ。田舎ではあるものの、幹線道路沿いにあって、結構繁盛している。ぷんと香ばしいバターの匂いが、冷たい墨の香りを押しひろげていく。
「あ、お代は結構ですので! とりあえず食べて。わたしの自信作なの!」
「いや、お代とかそういう話じゃなくてだな」
「いいから、ほら、食べてよ!」
「何で!?」
「なんで?? えーと、ほら、その、引っ越し祝い?」
「……何か違くね?」
「違わないもん! なによ、本当はこの家出るのが寂しいくせに!」
「ああん!?」
遠くへいく俺に何かしたいんだという気持ちは何となく伝わってきていた。
俺がこの家を出て行くのを嫌がっているのも、とうの昔にバレている。
でも、こんなふうに図星を突かれるとイラっとしてしまう。格好悪い。だけど、一度ささくれ立った気持ちは簡単に収まらなかった。
無言で朱莉の手を取る。
「え、なに!?」
台所を抜け縁側の和室へ移動する。斜めに日が差し込む部屋には大きな座卓、薄い座布団、習字道具一式。
朱莉の手を離し、座卓に向かう。
「そのへん適当に座って」
「あ、はい」
座卓からやや離れた場所に、朱莉がちょこんと正座する。
俺は、半紙を一枚取り上げた。黒いフェルトの下敷に乗せる。半紙とフェルトをならすように文鎮で半紙を軽く撫でてから、半紙の左隅に置く。
筆に墨をつける。最初は硯の深いところ──海と呼ばれる部分にたっぷりひたしてから、手前の陸と呼ばれる平らな部分に穂先を上げて墨を落とす。波止と呼ばれる海と陸をつなぐゆるやかな傾斜の縁のに穂先をちょんとつけ、筆に含ませる墨を調節する。
手本はなかった。
一気に書き上げた。
『枳殻』
墨が乾くのを待っていると、朱莉がにじりよってきた。
「……なんて読むの?」
「読めたら食ってやる」
「へ?」
素っ頓狂な声を出した朱莉に、俺はにやっと笑った。
「そんなに俺に食って欲しけりゃ、勝負だ。今から俺が出題する漢字の読みを答えろ。音読み、訓読み、どっちでもいい。朱莉が正解したら食ってやる、間違ったら持って帰れ。あ、スマホとかで調べるのは無しな」
和室がしんと静まり返った。
一拍置いて朱莉が叫ぶ。
「なんっそにょおおお理不尽!」
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