6人が本棚に入れています
本棚に追加
【Prologue01】
彼がまだ幼かった頃、彼の両親と彼は荒んだ生活を送っていた。
彼は何時も、ひとり狭い暗がりの居間の隅で、まるで飯事をするかのように、ひとりあやとりをして遊んでいたのだ。彼は家の外にはなかなか出して貰えず、友達と遊ぶことも殆ど許されなかった。彼の父はと言うと毎晩、繁華街から少し離れた場末の大衆酒場で飲み歩き、夜遅くまで家に帰って来ることは無かったのである。
彼の父の仕事は、その日しのぎの日雇いで、建設関連の肉体労働をしていたように、今思うと思い出される。母親はと言うとそんな父を見かねて、若い男を家に連れ込んで、父が帰るまでその男と遊んでいたのだ。そして母親は、その若い男が息子の彼のことを、ひどく邪魔者に思っていることに気づいていた。そのため、母親も段々と息子の彼の存在自体を否定するようになり、彼に冷たく当たるようになっていったのだ。
若い男が母親に会いに来る時だけ、彼は母親から玄関の外へ追いやられ、ひとり公園の片隅にある砂場で砂遊びをするのが、彼にとって唯一のこころの拠り所であった。彼にとって砂場とはとても神聖な場所で、砂遊びと言うか、砂をいじっているそんな感覚の時だけ、彼のこころは癒されたのだ。それはあたかも周りから見ると、一種の儀式のようにも感じられた。
彼は砂で大きな山を作り、そしてその山にトンネルやお堀を掘り、ゴミ箱から漁ったペットボトルの中に公園の水を汲み、その砂場のトンネルやお掘りに何度も水を流して遊んでいたのだ。彼は水が染み込んで泥のようになった砂の感触を楽しむかのよう、トンネルやお掘りに水を流し、またその山を崩すと言ったことを繰り返していた。
しかしそんな生活も長くは続かず、彼が小学校の低学年の頃、母親の男遊びが父にバレ、彼の家族は更に悲惨な状況の一途を辿っていった。父の母親に対する暴力も増え、酔っ払って帰って来た父は必ずと言っていい程、母親に暴力を振るったのだ。最初のうちは大声で怒鳴り散らし、段々と手が出て暴力も振るうようになっていった。その大声や暴力は幼い彼にも向けられたのだ。そんな時、彼は父から胸ぐらを掴まれ、父の大きくて硬い拳で左の頬を何度も殴られた。彼は抵抗することも出来ず、唯々その時間を耐えていたのだ。その時の彼はこころの中で、自分のやり場のない叫び声を何度も聴いていた。そして彼の口の中は父の拳で切れ、その血の味は少し錆びた釘のような味がしたのだった。
母親はと言うと相変わらず男を漁り、酒も入るようになっていった。そんな時、母親の連れ込んだ若い男が煙草に火を点け彼の手の甲に押し当て、うすら笑いを浮かべていたのを彼は今でも覚えている。その男を見ていた彼の母親は、彼に対し実の母親とは思えない冷淡な眼差しを彼に向けていたのだ。そのことも彼は今でも覚えている。
学校も休みがちになり、彼の存在は次第にクラスの中から消えようとしていた。彼が通っていた小学校は彼の家から程近かったが、彼は両親の度重なる暴力や扱いにより、友達と呼べる友達も作るチャンスが無かった。彼は何時もクラスで、存在感のない少年であった。そんなこともありクラスでは、彼の存在を先生も生徒も意識してくれるような者は誰ひとり居なかった。彼の存在はつまり、クラスの先生や生徒の間では無意識的に存在しないものとして成立していたのだ。
そんなことが度重なり、彼は彼の母親の両親に引き取られ育てられることとなった。母親の両親の住んでいる場所は、今まで住んでいた東京の下町に比べると田舎で、電車で小一時間程離れた埼玉県のとある町であった。彼の母親は若くして彼を身ごもり、そして父と結婚した。父は母親の出産に最初から反対だった。しかし母親は彼を産み、父と結婚したのだ。父はその当時からちゃんとした仕事に就かず、母親が彼を産むことに最後まで反対し続けた。ところが母親の両親から結婚してちゃんと仕事に就くよう諭され、渋々結婚したのだ。
だから彼は両親、そして特に父からの愛情を全くと言っていい程貰えず成長した。また彼には兄妹も居なかったので、兄妹の絆みたいなものも知らずに成長してしまったのだ。ただ母親の両親に引き取られてからは、母親の両親から彼は大切に育てられたので、違う形で愛情と言うものを知ることが出来たのだった。そして転校してからは学校でも友達が少しでき、中学生、高校生へと順調に成長を遂げていった。
彼が高校生の頃、彼の楽しみは生物部の部活だった。特に彼は、生物部で飼育している熱帯魚の手入れを熱心に行っていた。彼はこの頃からアクアリウムを楽しむようになり始めた。彼の興味があったのは熱帯魚と言うより、アクアリウムを彩る緑色の色彩の水草を育てることだった。それはまるでお花を活けるかのように、自分の好きな場所に水草を整える作業のようにも見えた。二酸化炭素を吸って酸素を吐き出す、そんな人間とは真逆の交互作用を持つ水草は、彼の中では新鮮な新しい息吹をつくり出す空間であった。またその光景を観ていると、自分が本当にこの世界で生きていると言う実感を得ることが出来たのだった。
最初のコメントを投稿しよう!