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翌朝になって、昨日の出来事の余韻に浸りながらいつも通り登校し、教室へ行く前に保健室を覗くと先生がいなかった。
お手洗いかしら? と特に疑問には思わず教室へ向かった。
けれど、朝のHRが終わった後に私は担任の女性教師に職員室へ来るよう声を掛けられた。
朝の職員室は騒がしく、パーテーションで区切られた来客用のスペースへ通される。
何となく、嫌な予感がした。
「立花さん。私たち教師はもう全部わかってるから」
そのたった一言でザっと血の気が引いた。
その次に押し寄せてきたのは動揺と、『なぜ?』という疑問だった。
私と先生は、いつも周囲にバレないように精一杯、細心の注意をはらっていたはずなのに。
女性教師は事務的に淡々とした声色で、呆然と来客用のソファーに沈む私に言葉を掛けた。
「落とし物として私の所にスマートフォンが届けられていて。持ち主に谷村先生が名乗りをあげたから、一応、本人確認のために目の前で彼に指紋認証のロックを解除してもらったの。万が一、悪用するつもりだったらまずいし……。ほら、彼って得体が知れないでしょう」
担任の話だと、先生が指紋認証をロックした瞬間、目線がこちらを向いているものは僅かしかない私の写真が画面に表示されたのだという。
端的に言えば写真フォルダを開いたままにしていたせい。
私は愛ゆえに黙認していたけど、何も知らない第三者からすればただの「姑息な盗撮」というふうにしか見ることができないだろう。
そのときの先生の気持ちを考えたらいたたまれない。
そして、今の状況下の私も。
頭のなかが真っ白で、何も言えなかった。
スカートの膝においた両手の内側が汗をかく。
「大丈夫だよ」
「……え?」
「ストーカーまがいのことをされていたのは分かってるから。あとは大人と警察に任せて」
……は?
思い切り、疑問が表情に出ていたことだろう。それでもお構いなしに彼女は続けた。
「もっと早くに担任の私が気づいてあげるべきだったよね。彼、少し前によく意味もなく校内をうろついていたことがあったし……。きっとあなたのことを狙っていたんだよね、ごめんね」
ちがう。
それは、校内かくれんぼをしていて先生が鬼をやっていた時期だ。
「あの、私は谷村先生に何かされていたわけではなくて……」
「いいよ」
有無を言わせぬ強い口調だった。
思わず息を呑んだ。
「……もうわかってるから。隠さなくても」
驚いた私に、彼女は取り繕うように元通り弱々しい笑みを浮かべてみせた。
––––役者だ。
そう思った。
【教師と生徒が交際していた】なんてことを公にしたら、風紀の乱れた学校と言われかねない。
でも、【教師が生徒に手を出した】ことにすれば、それは学校全体に及ぶ問題というよりかは教師に問題があったという理屈で片づけられる。
そしたら、「頭のおかしい教師」の首さえ切れば信用は容易く戻ってくる。
でも、学校全体の風紀が乱れたと思われたら、それを回復させる手立てはより複雑で難しくなるだろう。
だから、『被害者と加害者』という位置づけにしておいたほうがいい。
その思考に至って、彼女はこんなことをしているのだ。
愕然とした。
このままでは先生が悪者になってしまう。
「ちがいます。私は、谷村先生とつきあっていました」
「そんなわけないでしょ。脳が心を守ろうと錯覚に陥っているだけだよ」
真実を口にしても憐れまれる。
私と先生はキスさえしていなかったのに、この人の想像では私は先生に何をされたことになっているんだろう。
「もう何も心配しなくていいからね。彼とはもう二度と会うこともないだろうから、どうか安心して。立花さんは育ちもいいし、成績だって上位なんだから自信をもって――」
【彼】。
そうだ、先生は、先生はどこ?
胸騒ぎがして、思わずソファーから立ち上がった。
まさか、もう帰ってしまっただろうか?
近くの窓へ駆け寄って、駐車場を見下ろせば、まだ先生のセダンは隅にぽつんと停まっていた。
タイミングよく、先生が職員玄関から出てくる。
おおよそ、私に話をきいている間に、問題の保健医を帰らせるというのが担任の目的だったのだろう。
窓を開ける。
「どこにいくの!」
窓枠に両手をつき、身を乗り出すようにして、叫ぶ。
先生が両目を見開いて二階を見上げた。
後ろから担任に名前を呼ばれた気がしたが無視する。
「私のことが好きなんじゃなかったの? そんなに簡単に手放すの?」
声が震えそうになるのをこらえてそう尋ねた。
職員室にいた職員や生徒の視線が、私の背中に集まっているのを感じる。
訝るような囁き声が掛けられていた。
「ごめんなさい」
蝉の鳴く声がかしましいなかで、先生は頼りない笑みで確かにそう言った。
「なぜ謝るの?」
ここで謝られたら、まるで先生が本当に悪いことをしていたみたいじゃない。
私たちは法に触れるようなこと、誓ってしていなかったのに。
理不尽さに泣けてきてしまう。
「どこにも行かないで……どうしても行くなら行き先を教えて……」
「……鈴夏ちゃんに出会えてよかったです」
先生は私の涙を見て一言、そう穏やかに言った。
彼はその先の言葉をこう紡いだ。
「いつか、またどこかで、僕のこと見つけてくださいね」
先生は、別れを惜しむような微苦笑を見せて、車に乗り込んでしまう。
「待って!」
運転席のドアを閉める間際、先生は私に向けて静かに手を振ってくれた。
それはもう、穏和な表情で。
それを見てすべてを悟った。
もう、彼がこの場所へ来ることは二度とないのだということを。
駐車場へ向かおうと窓から離れた途端、私は、すぐに担任に取り押さえられた。
柄にもなく担任の腕の中で抵抗して、泣きわめく私は、室内にいた教師や生徒から奇異な目で見られていた。
……ようやく解放され、窓を見るとその頃にはもう先生の車は駐車場から消えていた。
翌日から先生が学校に来ることはなく、誰も何も私に先生のことは教えてくれなかった。
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