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1. かつてヒーローだった彼
空気を切り裂く健太郎のアタックが床に突き刺さる。ふいをつかれた相手は誰も動けない。体育館は揺れる程の歓声に包まれた。
もちろん僕も跳ねてスタンドに立ち上がり、歓喜の雄叫びを上げる。それから隣で見ていたクラスメイトと肩を叩きあってひたすら騒いだ。
ああ、気持ちがいい! 最高だ。勝利の瞬間のこの血が湧き上がるような高揚と爽快感がたまらない。
コートの上では、決定打を決めた健太郎にチームメイトが集まって喜びあっている。強すぎる照明の下の彼らはまるで、スポットライトに照らされているように光っている。
「けんたろー!」誰かがスタンドから声を掛けると、中心にいた彼が大きく手を振った。途端にあちこちから声が飛ぶ。まるでアイドルみたいな扱いだ。男子校だから野太い声ばかりだけど。
仲間の頭を笑いながらぐりぐりとなでる彼の姿は無邪気だが、試合中は、鬼神のように容赦なく相手を叩きのめしていった。どこに打ち込めば決まるかを知っているように、相手の裏をかき、翻弄していく。味方になれば頼もしい事この上ない。あの瞬間、誰もが彼の姿に引きつけられていた。
「荘田……。荘田ってば」
隣に座っていた本田に肩を叩かれ、我に返る。
気がつけばコート上では、観客席に挨拶をしたバレー部のメンバーたちが整列を解き、手を叩きながらバックヤードに戻っていくところだった。
「もうバス出るって。行こうぜ」
「……うん」言われるままに席を立つが、僕は名残惜しくてもう一度コートを眺めた。
まだ心臓がどきどきしている。
ああ、本当に――あいつは、すごいな。
出口に向かう人の隙間からちらちらと見える姿を、目で追いかける。
彼が本当のアイドルならば、僕は今日から間違いなく彼を推す。猛烈に推す。いくら課金しても惜しくなんてない。
いつまでも見ていたくて、僕はその場を動くことが出来なかった。
――半年後。
その放課後の衝撃は忘れられない。
教室の扉を開けた僕は、感電したみたいにビクッと震え、
「ひぃ!」情けない声をもらして尻餅をついた。
体勢を立て直そうともがいていると、廊下の奥からこちらへ向かって来るワダベンののんびりした声が聞こえた。
「どーした荘田。そんなに慌ててよぉ」
「え! いや、だって……」もごもご言う僕をまたぎ越して、ワダベンは美術室に入っていく。
「おー! 来てくれたんか健太郎」
嬉しそうなワダベンの声と、それに軽く答える低い声。
「ほら、どうした荘田。早く入ってきなさい」
呼びかけられても、僕はすぐには動けなかった。
今はまだ動揺で指先が小刻みに震えている。それに、なんだよ今のリアクションは! 変な声まで出ちゃったし。
全身を真っ赤に染めて、このまま消えてしまいたいと思ったところで消えられるわけもなく、僕はそろそろ立ち上がると教室に踏み入れた。
美術室には物が多い。イーゼルや胸像が所狭しと並べられて雑然としている中に、山男みたいにひげもじゃの美術部顧問の和田先生、通称ワダベンと、こんな場所にいるはずのない男が立っていた。
高い身長と落ち着いた佇まいのせいで、高校生には見えない大人びたシルエット。
ずっと坊主頭だったのに、ここ半年でぼさぼさに伸びた髪。
半年前まで、学校のヒーローだった男。
大糸健太郎がそこにいた。
彼は、僕の事をきっと知らない。
同じクラスになったこともないし、今まで何の接点もなく過ごしてきた。
だけど僕は、彼の事をたいていは知っていた。
誰もがいつだって彼の噂をしていたからだ。
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