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青く広がる空。明るい太陽。その日差しは強くて汐は手をかざして遠く広がる海を見た。
深水汐。21歳。大学3年の夏を謳歌していてもおかしくない彼は、突然独りきりになった。母とは死別、父と二人暮らしだったが、心臓に欠陥を抱えていた父は手術に耐えきれなかった。
「葬式は要らないぞ。面倒だろうから会社にも挨拶だけでいい」
「寂しくない?」
「死んでるのにか? お前がしたいなら好きなようにすればいい。俺は気にならないから」
「でもさ、墓とかそういうの、俺知識無いよ」
父は夢見るように言った。
「散骨がいいなぁ。どこでもいいよ、天気のいい時に青い空の下で撒いてくれれば」
「それでいいの?」
「いいよ」
「どこの海がいい?」
「あまり人の来ないような海がいいな」
手術前のほんの戯れのお喋りだった。医師は70%以上の確率で成功すると言っていた。
だが父は残り30%の中に沈んでいった。
互いにいつかこうなると思ってはいたが、それが
(今だなんて)
仲が良かった。まるで兄弟のように父と笑いあって日々を暮らした。会社は父の在宅勤務を認めてくれていたから、送られてくるデータを空いている時間まとめては送信していた。
時には、動けない父に代わって汐が仕事を片付けた。会社の購買記録の精査と、見積もりを取って業者に発注。仕事が切れることは無かったが内容は単調で、父が横になっているベッドの脇で処理していくのは楽しかった。
「これってさ、インシデントになんないのかな」
「問題が起きればそうなるかもな」
「野菜とか買っちゃったり?」
「そうそう。だめだぞ、参考書なんかも」
いつも冗談めいて話をする父子だった。
少し感傷めいてそんな時間を思い出す。帰って、何ごとも無かったかのように暮らすことなど出来ない。今は8月の頭。3月までの休学届を出していた。今は友人たちに会うのも鬱陶しい。
『ひとり暮らしだろ? 泊りに行くよ』
それは嫌だった。まだあの家は自分と父の聖地だ。
あと一週間はここで過ごすつもりだ。現実感など、今は欲しくない。だから海を見る。ただ砂浜を歩く。
誰かが走ってくる音が聞こえた。この浜はホテルのプライベートビーチだから人は少ない。思い切って高いホテルにして良かったと思う。宿泊客は落ち着いた年齢層が多い。
自分には関係のない足音……のはずだった。
「見つけた!」
後ろから突然抱き疲れて、前につんのめりそうになる。腰に回った手は白くて細い。
「良かった、遅いから心配したんだ」
間違いだ、と手を振りほどいて後ろを振り返る。
息を飲んだ。
肩より長い髪が風にそよいでいる。カラーリングしているのだろう、薄いアッシュがよく似合っている。白い顔に相応しい大きな目と浮き出たような赤い唇。
(女の子……、いや、胸がないから男の子か)
今度は前から抱きつかれた。
「もう! 何とか言ってよ!」
「きみ、俺は」
「しっ」
汐の肩ほどに汗ばんだおでこがくっついている。汐の身長は172センチある。その胸からくぐもった声が聞こえた。まるで変声期前のような少年の声。
「お願い、助けて! 後ろからスーツの男が来てるでしょ」
見れば確かにこのクソ暑い中で夏仕立てだろうとは思うが青いスーツの男が歩いてくる。
ざくっ、ざくっ
と砂の上を歩く落ち着いた音が聞こえた。
「あいつに狙われてるんだ、きっと変態だよ! 俺、昌、お願い、待ち合わせに遅れたふりして、恋人みたいに!」
「こ……、俺は男だぞ、きみもだろ?」
「いいから名前教えて!」
「汐だけど」
勢いのままに名前を教えてしまう。
「うしお! 待ってたんだから!」
「お、おう、待たせて悪かったな、あきら」
スーツの男性の足が止まる。少しふっと笑って軽く会釈をするとそのまま引き返して行った。
「行っちゃったよ」
「もう少し! 振り返ったら困るから! お願い、さっきみたいに抱きしめて」
仕方なくその細い体を抱きしめる。バスケットをやっている自分なら、軽々と抱き上げることが出来そうだ。
「もう大丈夫だろう。少し一緒にいてあげるよ」
「うん、ありがとう」
見上げて来た目にはきらきらと夏の光が反射して、けれど儚げだった。
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