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人間の声よりも蝉の合奏が響きわたる常夏の日。
授業のない物静かな大学で、二人の学生は企画会議をしていた。校舎と同じく、部室棟にも人通りはまばらだ。それもそうだろう。テストも講義も終わって、本格的な夏期休暇に入ってしまえば、大学に来る用などほとんどなかった。
加えて、バイトやら別のサークルやら夏期特別講座やらでメンバーが出払っており、そのゲーム創作同好会の部屋にいるのは、三年の八坂棗と二年の駒田桃花の二人だけだった。
「うーん。やっぱり、この二人の関係性はもっと語りたいところですね……」
ポニーテールにした長髪を揺らしながら、桃花は「はて」と唸る。
机の上に並べた『東西南北』のキャラクターデザイン画やプロットを見比べては、正面に座る棗に縋るような瞳を向けた。
その視線の先にいるのは、黒髪ショートの青年だ。前髪をピンで上げて固定した夏仕様で、ノートパソコンと睨み合いをしている。やがて彼女の視線に気づいた棗は、キーボードを叩く手を止めて問いかけた。
「なら、シナリオのボリューム増やすか? 新規エピソードを入れる枠は多少ならあるだろうが、がっつりとなると考えものだぞ」
「でっすよねぇ……。でも、譲れないです。先輩はどっちならいいと思います? 新たにガツンと話を作るか、それともどこかに小話を入れ込むか」
「そもそもの話、桃花の中でこの二人について語ることの重要度はどれくらいなんだ? 喜多と三波って、どっちもヒロインの攻略対象だろ? あまり深い関係性では作ってこなかったし、仲だって良くなかったと思うんだけど?」
「ちっちっち。分かってないですなぁ、棗先輩」
「何のものまねだよそれ。結構ウザいぞ」
桃花は卓上に散らばった物を一旦まとめて隅に置き、会社の重役が如き表情で肘をついて、口の前で両手を組んだ。ギラリ、と瞳を輝かせるように相手を見つめる。オタクスイッチ、別名めんどくさい桃花モードの発動だ。
「いいですか、先輩。棗先輩みたいに何でもできると思っていた人にも、実は何かできないことがあって、それを誰かに頼むでしょう? この場合、もっとプライドが高い人物だと仮定しますが……あっ、それこそ喜多ですね。ぜひとも彼をイメージしてください」
思い出したようにキャラデザの紙を引っ張り出し、桃花は「じゃじゃーん」と見せる。
「あ、ああ。その、流れ的に不思議はないんだが、俺としては絶妙に微妙な心境だな。褒めてんのか貶してんのかどっちだよ。俺というキャラの薄さを実感した事実しか分からないよ」
対して、棗は口内に苦みを感じたような表情を浮かべた。喜多は赤をイメージカラーに持つ兄貴肌なキャラクターだ。我ながら、しっかりと特徴を出して描けたなと改めて思う反面、自身の絵を突き出されて小っ恥ずかしさを感じてしまう。
「そんで、その誰かっていうのは、やっぱりその人が一番信頼してる人――ってのが定番で当然に尊いんですけど、今はひとまず置いておいて……」
「置いておくのか」
「頼れるのは、実力だけは認めている大嫌いなアイツしかいない。みたいな」
「この流れだと、それが三波ってことだな」
今度は棗がデザイン画を引っ張り出す。イメージカラーは青の、天然クールキャラだ。これまた桃花のオーダー通りだと、内心で自画自賛して微笑む。
「ですです。んで、危機的状況に陥った場面で気づくんですよ。『俺にはやっぱり、アイツが必要だ』って。それから程なくして急接近とかしちゃったりして……」
「お、おう?」
「大嫌いなアイツから、かけがえのない唯一の愛が芽生えて、大好きに反転する。けれど、それを簡単には認められない……。どのジャンルでも大抵ありますよね、これは!」
「あるかもしれないし、この作品でもルートによってあるけど、これは女性主人公の恋愛シミュレーション系ノベルゲームだぞ。喜多と三波じゃあ、ジャンルが変わってくるだろ」
「つまり、もう最上級の至福はそこにこそあるんじゃないですか!?」
「いや、聞けよ。つか、一旦戻ってこい。腹減ってるか?」
「減っておりますね」
「全力だな……。そこの袋、開けてもいいぞ」
「おっ、ドーナツだ! いただきます!」
「やれやれ」
袋を開けて、小袋を開けてはドーナツを口に放り込み、むぐもぐと美味しそうに頬張る。その無防備さに、棗は心の奥底がむず痒くなってくるのを感じた。
「襲われるかもとか思わないのか?」
「え、なんでですか? だって、今日の目的はゲームの会議ですよね?」
「そうだけど、仮にも男女の二人きりだ。これってお決まりのシチュエーションだろうが」
「けど、真っ昼間の大学ですし。そもそも、棗先輩はそういうことしないでしょう?」
はむっと食べ進めつつ、「度胸なさそうだし」と呟く桃花に若干の苛立ちを覚えながら、棗はノートパソコンを閉じる。そして、肘をついて退屈そうに見つめ返した。
「度胸はともかく、確かにする気はないよ。ただ純粋に思わないのかなって疑問だけだ」
「まあ、現実でのそれって立派な犯罪ですので、もしものときは証拠を押さえて即通報ですよ」
「夢がないな」
「夢は二次元に置いてきました。あっ、せっかくなので、二次元なら許されることあるあるとか挙げてみます?」
「遠慮しとくよ。どうせ『二次元限定の』好き合戦して語り散らかすんだろ?」
「わ、ばれてる」
隠すつもりないじゃないか、と棗は溜め息を吐く。
「本当に、現実には興味ないのか?」
「三次元にはないですねー、俳優さんとかアイドルとか全く興味ないです。演技凄いなぁとか、歌上手いなぁとかそういう面しか見てないかもです」
「現実と言ってるだろうが。現実は現実でも触れられない方の現実だろう、それは」
「なるほど。要するに、彼氏がいるのかどうか――と?」
「いや、まあ、そうだが……」
「なんですか、先輩。水くさいなぁ。普通に訊いてくれればいいのに」
「訊きづらいだろ、今のご時世」
「そうですか? 大丈夫だと思いますけどね。というか、私には遠慮なんかしなくていいんですよ? 本当にやばいときは通報しますのでご心配なく」
「なにそれ怖いな。俺の身はご心配しなきゃいけないやつだろう。ちょっとくらい冷静になるための猶予をくれ。そういうところだぞ」
ああ言えばこう言う。笑顔でズバズバと遠慮の欠片もないボケ倒しに、棗は頭を抱えた。こりゃツッコミ倒れするぞ、と夏の陽射しに目を細める。
「そして、それの答えは『いません』です。逆に、棗先輩はどうなんですか?」
「いないよ」
棗の返答に、桃花はにんまりとした。引っかかった引っかかった~と、いたずらにムフフとほくそ笑む男子小学生にも負けず劣らずの表情である。
「……彼女も、彼氏も、どっちもいない。だから、にやにやするな」
「し、してません、よ?」
「下手くそか」
桃花は緩んだ頬を必死で押し戻す動きをした。あまりにも下手な芝居に棗はまた溜息が出そうになる。いつでも創作に夢中なんだろうか、と考えると微笑ましいものではあった。
だが、落ち着きを取り戻した桃花は、ふと悲しげな目をして視線を落とした。卓上に両手を置いて、居心地が悪そうに指を弄る。
「なんですかね。自分で理想を作り出しすぎなのか、現実が劣ってるように思えるんです。こうはならない。ああはなれない。こんなカッコいいこと言いたいなとか思っても、いざ現実でそんな空気になったら言葉なんか出てこない。何も、上手くいかないんです」
「だからこそ、こうやって想像に浸ってストーリーを紡いでるんだろ、俺たちは。それが一番いい自己表現の方法だと、命を削りながら創り出してる。違うか?」
「そう、かもですね……」
何かに祈りを捧げるように、桃花はぎゅっと手を握りしめた。籠もった熱と思いに蒸されて、全身がむずがゆくなってくる。
「この際だから言いますけど……実は、私にとって先輩の存在って大きいんですよ」
「それって俺のことか? それとも、他のやつら?」
「他の誰でもなく、棗先輩ただ一人のことです」
「……は…………?」
「棗先輩くらいしかいないんですよ。遠慮しないで言いたいように言えて、こんなバカ騒ぎできるのなんて――棗先輩にだけです」
「えっと……俺は、いいけど……」
身を乗り出し、机を挟んで桃花の顔に自身の顔を接近させる。
「このタイミングで切なげな顔して言われると、こういうことに思っちゃうよ? 俺も結構単純な分類だからさ、勘違いさせないように気をつけてくれないと」
だが、もうあと三センチと来たところで棗は身を引いてしまった。ふいと目を逸らされてしまったところで、今度は桃花が身体を乗り上げて彼の横顔に顔を近づける。
棗の頬骨と桃花の前歯が、見事にコツンと当たった。
「いいですよ、私は――って、ちょっと格好つけて返事しようとしたのに……っ! あぁ、台無しだ。本当にごめんなさい。私の失態です。当たっちゃったとこ、痛みませんか? ふつう、歯と骨がここまでクリティカルヒットしますかね!?」
「……ふっ……あはははは……っ」
焦って涙目になった桃花はむっとしながらも、楽しそうに笑う棗の隣に移動する。近くに寄ったことで、真夏の太陽に燻された体温と汗の匂いが、彼に伝わってしまいそうだった。しかし、それでも構わないと思った。
「って、おい。本当にいいのか? アウトゾーンに踏み込んだとか言って通報しない? 俺、もういろんな意味でアツくてどうにかしそうだよ?」
「通報とか、する予定はありません。けど、私も同じように受け止めちゃいますよ。それでいいんですよね?」
「そりゃ、もちろん。こう言ってるんだから、いいよ」
お互いの顔が近づいて、ふっと唇が触れる。まるでアイスの一口目を舐めるように優しく、溶けないように柔らかく重なった。頭が真っ白になって、純白の向こうに相手の温もりを得て、二人はゆっくりと離れた。
「やばい。急に冷静になってきた…………これ、全部冗談でしたとかじゃないよな?」
「なに言ってるんですか。嘘なんて吐きませんよ。エイプリルフールじゃないですし」
「エイプリルフールだったら吐くのか?」
「ああ、いやー……心を弄ぶ嘘は、さすがに、吐かないですよ……?」
「どういうことだ、煮え切らないじゃないか。どうせあれだろ、付き合った傍から『別れてください』とか言い出す奴だろ。おまえはそういうキャラだ」
「うっ、あり得そうで否定できない……。よくお分かりですね、棗先輩」
「分かりたくなかったよ、まったく。まあ、天然な三波なら言うと思ってだな」
「あー、そうだった……彼には、私のキャラをたいぶ誇張して乗せたんだった……」
やれやれと言う代わりに、棗は桃花の頭に右手を乗せて撫でた。その手が髪越しでも温かくて、桃花の頬は自然とほぐれていく。
「でもあれですよ、エイプリルフールに吐いた嘘って、一年は叶わないって聞きますし」
「――って、なんだよ。それじゃ、一年は絶対離してやれないってことになるじゃないか」
冷静でいさせてくれ、と棗は空いた左手で頭を抱える。
だが、ずっと頭を撫でられ続けている桃花がそれを許すわけもなく。自分と同じように、ザワつく泉の中に、引きずりこんでやりたいと思ってしまった。
「一年以上でも、私は全然いいです……けど……っ」
頭頂にあった棗の手が、後頭部にまですっと下がってくる。そして、彼の顔が近づき、ぐいと体重がかけられた。
「……う、わ……」
仰け反りそうになった桃花は、咄嗟に彼の服を掴み、反射的に目を瞑った。唇の先からも、頭の後ろからも熱される。
閉じた目を開けることができない。閉じたままでも十分に存在を感じるのだから、視覚でまで捉えてしまったら、一体どうなるのだろう。
何も見えないその向こう側から、大きな温かさに全身を包まれている感覚だ。クーラーの効いた室内なのに、顔がどっと火照るのを感じた。
「……っ……は……ぁ」
「…………ん、と……」
重ねて離れると、スンと妙な具合で冷静になる。
誰も来なかったからよかったものの、もし誰かに扉を開けられでもしたらどうしたんだ、とついつい思わずにはいられない。それぞれに居住まいが定まらない様子で、じっと卓上を見つめ、煮え上がった息を吐く。
そこでふと、黄色い付箋の付いたデザイン画が棗の目に止まった。
「あ、……明日は、テーマパーク行くぞ、桃花」
「きゅ、急な初デートとな……っ!?」
「えーと、ゴホン……。はぁ? ちっげーし、現地調査だっての現地調査。オレは別にデートとか思ってねーから」
「……はっ。なるほど、ツンデレ男子・仁志ルートのシチュエーション再現ですね!」
「普通に通じるのかよ、さすがすぎる…………いざ再現すると恥ずかしいな。桃花は思ったよりも動じてないし……なんてキャラしてんだ、仁志。照れ隠しでも真似なんかするんじゃなかった……」
「い、いつになく最高です先輩! 私は現在、超麻痺状態なのでご心配なく! とてもとても動揺して、一周回って、えっと、仁志くんを褒め称えましょう。素晴らしくいいキャラになりましたよね~、にっしー! 先輩のキャラデザ、最高です!」
「おう……俺を真正面から褒めるとか、めちゃくちゃ動揺してるじゃないか。俺の方がもっと恥ずかしくなってくるよ……もう、頭が全然回ってないし……」
顔を手で押さえて、自分の火照りを再度思い知らされる。必死になって冷まそうとするが、その動きは余計に焚くようなものだった。
これはおそらく、冷静になって思い返してはいけないやつなのだろう。
「で……さっきの話に戻すが、シチュエーションを現地で考えるのが手っ取り早いだろうし、実際に体験した方がリアリティもより出るだろ? それを考えながらだけど、どうだ?」
「でも先輩、テーマパークって、付き合いたてのカップルが行ってはならないデートスポットって巷で有名なような?」
「知るか、そんなの。俺、その程度で冷める気持ちは持ってないから。待ち時間でもなんでも、幻滅する時間にはならないよ」
噛み付く勢いで被せた棗に、桃花は表情のネジを緩ませる。
「先輩……。くふふ。見ててください、私の完璧なるテーマパーク攻略術! ポイントを余すところなく巡り尽くし、必ずや惚れ直させてみせますよ?」
「心強いよ。なら、俺は胸キュンを実践してみるとするか。桃花が考えた、仁志ルートの見せ場を検証といこう。新規エピソードも考えなきゃだろうしな」
「せ、先輩……もしかしなくても、この仁志と主人公のデート回に、喜多と三波のエピソードを裏話として挟む許可を……?」
「ま、桃花が満足のいくエピソードを書き上げてきたら、採用してもいい」
「最高です、先輩! 絶対、納得のエピソードをご覧に入れます!」
「はいはい。期待してるよ。俺にはやっぱり、おまえの物語が必要だからな」
「惜しい。私自身じゃなかった……まあいっか。さあ、今日のところは早く仕上げちゃって、明日の打ち合わせですよ! 楽しみだなぁ!」
「テンション高すぎるだろ……まったく」
蝉の合奏が響きわたる常夏の日。二人は、彼らに負けないくらいの笑声を生み出した。
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