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後半
亀有に赴くと必ず佐伯と顔を合わせるようになっていた。四代続く畳屋を営んでいる彼は正午になると僕が昼休憩で用いる亀有公園のベンチに両さん銅像と一緒に座っているのだ。
「よぉまっつん、お疲れさん」
「おう最近よく会うな」
「なぁこれこの前言ってたお前の記事か?」
だらしない笑みを浮かべた。奴に自分の仕事のことをさりげなく伝えた気も、していな気もする。
佐伯は僕が担当している亀有・柴又エリアの情報誌を目の前にぶら下げて見せる。
そう言えば九月号が発行されたばかりだ。
「久しぶりにポストに入ってたからもしやと思ったんだ」
「そりゃどうも、だけど全部が俺の記事ってわけでもないよ。供給もある」
僕は肩にかけた仕事用のバックを右手に持ち替えて、両さん銅像を挟んで佐伯の隣に座った。
「なかなか面白いじゃんこのパン屋さんなんて近くにあるのに意外に知らなかった」
指さしたのは、一ページを基準にして半分のサイズのパン屋さんの広告だった。それはつい最近まで僕がデザイン課と一悶着ありながらも締め切り日ぎりぎりまで消費者の購買意欲を促そうと奮闘していたものだった。
「今度クーポン使って反響出してよ」
二割冗談、八割本気になってお願いしてみる。
「考えてもいいぜ、それともこれから二人で買いに行くか?」
ポケットの中にいれておいたのか佐伯はどこからともなく取り出した小さなハサミでパン屋さんのクーポンの部分だけ切り取って、唖然としている僕に突き出して面白がっている。
「お前にはかなわねぁや」と舌うちひとつ。
八つ当たりチックにごチンと叩いた壊れかけのスロットマシーンはコインの代わりにため息を吐き出した。
「諸々大丈夫かよ?」
膝の上にのせた空っぽのお弁当箱をバックにしまおうとした時に佐伯は囁くように言った。
「なんだよとつぜん」
おどけてしまわぬように平然を装う。
「いやなんとなくな」
沈黙。もし両さんが銅像じゃなかったらきっと「ええぇいつまらんお前らワシの前で物思いに老けるな」と無理やりにも会話を再開させるだろう。
「いい街だな」
たった今、公園に入ってきた若いお母さんと小さな子どもを見てつぶやいた。佐伯は僕の視線の先を凝視してうなづいた。
「葛飾区は子育てしやすいよ、支援や手当が充実してるし、家賃相場も安い。それに川に囲まれてるから水辺の公園も多い」
「そうじゃないよ」
「違うのか?」
「うん、なんていうか俺が欲しいものがたくさんあるんだ。この町に」
「そんなこともねぇだろ、人はなんでもない顔してみんな何かを抱え込んでいきてんのさ」
それから一言も言葉を発することはなかった。ただベンチに座って雲の動きを休憩時間が終わるまで眺めていた。そういえば両さんは諸説あるが年齢は三十五歳くらいだと考えられている。もしそうであれば僕たちは同い年になるわけだ。
今日はそんなどっちでもいいことですら興味深く感じる。
☆ ☆ ☆
僕は仕事を早めに切り上げ、久しぶりに七時前にマンションに戻った。美玖には会社を出た時に電話をしたから、ちょうど彼女は食事の支度をしていた。
「おかえりなさい」
「ただいま」
僕は上着を脱ぎ、ハンガーにかける。
美玖は、以前の会社を辞め、現在人材派遣会社で事務員をしていた。時短のパートだ。地元では有名な会社で、時給も良いらしい。昔は、男が外で働き、女は家を守るのが当たり前だったが、今の時代そういうわけにはいまない。
僕が部屋着に着替えている間に、美玖は次々と食卓に運んでいる。
茶碗が二つに、ハンバーグを載せた皿が二枚と箸が二膳。ハンバーグが食卓に並ぶのは久しぶりで大根おろしとポン酢でさっぱりした味付けだった。
「仕事はどう?」
最後の一口を食べ終えた頃を、美玖が箸をおき、僕の顔を見た。
「順調だよ」
「本当にそう?」
「嘘だと思おうじゃん、ほんとうなんよ」
もちろん嘘だ。今日だって新規客の商談は上手くいかなかった。既存客との更新は先延ばしにされた。営業課では主任という立場で、他の営業マンの動きを急かすことにも疲れ果て、自分の営業ノルマ達成に必要な数字に急かされることにも疲れ果てていた。外回りの営業中、とうとう先を行く誰かの影にさえそっと道を譲ってしまう始末だ。
美玖は始めから僕の答えを知っている口調で癪だったけれど、事実そう答えるのがいっぱいだった。
「ならよかった」
「なんだよ」
「なんでもない」
食器を二人で洗い終わると今度は、テレビの前に二人で向かいあう。
先々月、映画館に観にいった「トイ・ストーリー4」に僕たちはすっかりはまってしまって、時間がある時はTSUTAYAで借りた「トイ・ストーリー」シリーズを見返すのがここ最近の日課になっていた。再生されたシーンはこの前の続きでウッディーがバズを助けるところから始まる。物語のその先を知っている僕には二人が繰り広げた大冒険はほんの序章にすぎず、これから待ち受ける彼らの運命を切なく思う。
スタッフロールが流れ出し僕はレコーダーからディスクを取り出す。
「静かな夜だね」
美玖は網戸にしたベランダからカーテンを僅かに揺らす夜風を眺めながら、言った。本当に静かな夜だった。
しかし、一歩外に出れば、犯罪や汚職、オリンピック後に訪れる不景気の不安に苛まれ、巻き込まれる人の悲鳴や、助けを求める叫び声がこの街の路面からじわりと滲みだし、それらが半永久的に聞こえてくる。
それが今この瞬間に至っては、しんしんと静まり返っている。カーテンを閉め切っているこのマンションのリビングの一室は、まるで発進を心待ちにしているタイムマシーンのように感じる。宙に浮かび上がり、この夜空に漂っているのだ。街を見下ろし、三、二、一で何億光年離れた未来まで一気に駆け抜ける。だから、もうこの街の声は届かない。そう思いたくなるくらいだ。
「ねぇ」
美玖は僕の腕をグイっと引寄せ、片耳を自分のお腹の下にあてがった。
「耳を澄ましてみて、何か聞こえない」
美玖は含みのある笑みを浮かべた。
僕はじっくりとそばだてる。物音一つしない。美玖の鼓動だけが鼓膜を通って僕の狭い狭い頭がい骨の中で反響する。
「だめだ、なんも聞こえない」
僕は上体を起こして微笑む。
「そう私には聞こえるの」
「何が聞こえるの?」
「なんだろうね、新しい命の鼓動とか」
胃がキュッと締まるのが分かる。
こうやって、僕たちが何年も悩み苦しんでいることが、理解できないほど子宝に恵まれる人たちがいることも知っている。あまつさえ、我が子に虐待を行い、心や体にひどい傷を負わせ、それだけでは飽き足らず、そのまま殺してしまう輩がいることも。僕たちは知っている。信じられない、人間じゃない、と詰りたくなるが、彼らを卑怯者と蔑んだことは一度もなかった。
「美玖は実際のところどう思っている?」
探るように訊ねた。
「えっとね、早くトイ・ストーリー2が見たいなとは思ってるよ」
「俺もだよ、でもそうじゃなくてさ、その子供のこと」
「だと思ったよ」
美玖は僕をまっすぐに見据えた。
ここ最近、彼女にも薄っすら口の周りのしわが目立っているように見えた。美玖は三十代とはいえ、いまだに大学生に間違えられてもおかしくないほど若い容姿をしていて、まだまだ脂肪を持て余すような体型じゃない。だが、確実に年をとっている。そう感じた。心なしか、目じりにも線のようなしわが出来ている。
「なんか最近、忘れてたんだよ」
「何を忘れてたの?」
「エッチをしたら子どもができること」
「ごめん」
「違うの、由紀くん私が言いたいのは、そう言うことじゃなくて」
「……」
「もし子どもができなくても今までの楽しい二人の生活が続くだけってこと」
うーんと唸る。唸りながら僕は「子ども諦めるの?」と思わずにはいられなかった。
「由紀くん?」
「美玖、今その答えを出すことはできないよ」
「そうだね、由紀くんの言う通りだよ」
そう返事をしてくれた。嫌悪感を示すこともなく美玖は僕の答えをいつまでも待ってくれる。頑張ろうの一言がここまで億劫になるなんて思いもしなかった。
「まぁとりあえず、俺はマネジャーになって給料増やすから心配すんな」
「おっ。心強いねよろしくお願いします」
「任せとけって」
僕はわざとらしく拳を上に突き出した。
☆ ☆ ☆
火曜日、僕は金町駅近くにある葛飾にいじゅくみらい公園のサッカーグラウンドで、久しぶりのサッカーを楽しんでいた。集まったのは、十人で、サッカーというよりフットサルといった方が適当だ。五対五のチームに分かれてキックオフする。
懐かしい顔ぶれが揃ったなと思う。中には全然知らないおじさんもいたし、先輩が連れてきた小学五年生の息子さんもいた。
広いグラウンドを少ない人数で駆け回り、ポジションも役割も関係なく攻守にあたるのは、本当にしんどい。気持ちは全盛期のイメージを再現しているが、体がまったく追いつかない。汗はとめどなく溢れ、息は切れ、足は速い段階でもつれ始めていた。
「パスくれ!」
「走れ、走れ!」
味方に聞えるか分からないほど震えた声だったが、疲労よりも心は軽く、どこまでも走れる感覚でいた。
はぁはぁと息を整えるのに時間をかけるおじさんたちを横目に先輩の息子はどんどん動きが良くなっている。僕たちはそれ以上の言葉は交わさなかったが、小学生にも負けないくらいこの瞬間を楽しんでいた。
二十分ハーフで始めたのに、ストップウォッチを握っていた後輩がうっかり時間の経過を言い忘れていたのでいつの間にか先に二点取った方が優勝というルールに変更していた。一進一退の攻防が続きお互いに一点ずつ痛み分けをしたところで、先輩が右足をつり、その場に寝転んでしまった。治療という名目でそのままなし崩し的に僕たち休憩に入った。
それぞれが足を引きずり、太ももを抑え、情けない笑みを浮かべながらグラウンドの外に出る。しかし誰一人として帰り支度を進める奴はいなかった。
「まっつん、やっぱフットワーク軽いな」
佐伯としっかり話したのはその時だった。僕がベンチに座り、濡れタオルで首筋を冷やしていた時だ。
「冗談言うなよ、もう足パンパンだわ」
佐伯のハードワークすぎる守備は健在で中盤で僕はまだ一度も奴を突破できていなかったが、当時のプレースタイルと変わらぬ、敵ながら安心感があり僕は嬉しかった。
「仕事は調子いいのか?」
「こんな時に仕事の話はやめてくれよ」
僕は言う。
「じゃあ年下の嫁さんの話しをしてくれよ」
「なんだよ急に」
「いいから」
「まぁ、いい嫁さんだよ。俺にはもったいないくらいの」
ポツリとつぶやく。零れた言葉に恥ずかしくなったりして。
「幸せなんだな」
「そうでもないよ」
僕は手を小さく横に振った。
「ずいぶん謙遜するな」
「別に幸せだとは思ってないんよ、実際俺たち夫婦に足りないものはたくさんあるし、ただ、不幸ぶるのは柄じゃないからさ、こうやって笑ってるだけで」
「吉田拓郎の歌にそんな歌詞があったな」と訳の分からないことを答えた。
目の前には人工芝のグラウンドが広がっている。グラウンドのちょうど真ん中にポツンとサッカーボールがキックオフの瞬間を心待ちにしていて、ゴールポストが照明に照らされぼんやり白く光っている。視線をかえれば東京理科大学のキャンパスが見えて、まっすぐ伸びた視線の先には暗闇に染まった中川が流れていた。川を横断するための線路は、レールと車輪が擦れる音を夜風にのせてここまで運ぶ。
秋の夜は長い。灰色の雲が綿棒で磨り潰されたように薄く広く広がって伸びていた。大量にかいた汗が収まってきた。冷たい夜風が体を冷やす。今度は川のせせらぎが聞こえてきた。とくとくと脈をうつリズムとシンクロする。
だめだな、また美玖の顔が浮かんできた。
結婚してから子どもができなくて悩んでいることを佐伯に相談してみようかと口を開いた。
「なぁまっつん」
僕よりも僅かに早く彼が口を開く。
「うん?」
「俺は幸せに見えているか?」
「いきなりどうした?」
「上の子の名前、俊介っていうんだけど」
佐伯は立ち上がり遠くの空を見上げる。
「俊介は遺伝性の病気なんだ」
そう言った彼の視線が試合開始を待ちきれずに一人ドリブルの練習をしている先輩の息子に移っていた。
「先天性の病気ってことか?」
「うん、しかもはっきりとした原因が分からない進行性、先天性ミオパチーって言うんだ。知ってる?」
僕は静かに頷いた。いつか見たドキュメンタリーの番組で国内に数千人ほどしか確認されていない筋肉の難病だ。
「俺の夢は息子と一緒にサッカーをすることだったんだ。でもこればっかりは誰を憎めばいいのか分かんなくてさ」
「そうか、大変だな」
気休めにもならない言葉をかけるのが精一杯だった。彼の横顔を見上げると不意に高校時代の佐伯比呂を思い出す。試合終了の笛がなるまで決して諦めずボールを追っていた彼の姿だ。二軍生活から抜けられず僕と一緒に苦汁をなめた三年間。最後にはお互いに公式戦のベンチ入りを競い合ったライバル。お前は俺がメンバーに選ばれた時、自分のことのように喜んでくれたよな。
「でもよ、俺は絶対不幸なんかじゃない」
「そうだな」
「俊介は病気を抱えているけど、俺は俊介のおかげで父親になれたんだ。これは強がりじゃないぜ、俺たちは楽しくこの街で暮らしてんだ。それに人生何が起こるかわかんないだろ、最後まで諦めなければ。なぁそう思うだろ」
「あたり前だろ」と僕は苦笑する。
「でもほんとのことを言えば最近まで不安で怖かった。今はよくても十年後、二十年後、その先の未来で俺たちが死んだら俊介はどうなるんだろうって」
佐伯は少しだけ体を震わせていた。
「うん」
「そう考えると、不安で、怖くてさ。もう本当に愕然とするよな」
僕は立ち上がり佐伯の顔をまじまじと見つめた。
「俺たちが生きている間は、どんなことがあっても俊介を守ってやることは出来る。その覚悟ももちろんあるよ。でも俺らが死んだら誰があいつを守れる? むずかしいよな」
「そうだな」
「それが俺と彼女の一番の悩みなんだ」
「うん」
「でもよ」
佐伯はそこで言葉を一度止めた。振り返り視線を僕に向け、全てを悟った高僧のような優しい目を向けてきた。希望と絶望の間にあって半ば諦めに近い、それでも全てを受け入れる覚悟を持った人間の強い瞳だ。
「それもまた神様がくれた試練なんだ。俺たち家族がもっと強い絆で結ばれるための試練なんだよ。そう思うようにしてからすごく気が楽になってよ、だって試練を乗り越えた先に、俺たち家族は世界一の絆で繋がることが出来るんだぜ」
胸が締め付けられる。上手く言葉を繋ぐことができない。僕は驚きと共に嘆賞に値する佐伯の力強さにまじろぐしかなかった。
「お前は強いな」
どんなに逆境でもピッチの上に立てば誰よりも前向きにプレーしていたあの頃のお前と全然変わってないじゃないか。
「強いなんて思ったことないけど、昔見たくバカなだけだって、ただバカはバカでもあれだ」
「何て?」
「諦めを知らないバカだ」
佐伯は高校時代の佐伯そのものに戻っていた。
僕は自分の相談事をすっぱい唾液と一緒に胃の中にのみ込んだ。涙なのか、汗なのか区別がつかないものが、僕の視線を遮って、目の前をぼやかす。
佐伯が一歩踏み出すと、示し合わせたように一人、また一人とグラウンドの中央にみんなが集まり始めていた。まったく、筋肉も心肺機能もとっくに疲れ果てているのに、まだ試合を続けようとしている。バカなおっさんたちだと僕は思った。そんなバカの一人としてこのグラウンドにいることを誇りに思った。
最後の一点を取り合う戦いのホイッスルが心の中で鳴り響く。
試合開始から十分後、後方から運ばれてきたパスを受け取ると、目の前に佐伯がいた。僕はもつれかけた足に拳を入れて、佐伯と対峙する。一対一だ。
「来いよ! まっつん!」
佐伯は嬉しそうだった。
お互いに戦うフィールドは変わり、もはや自分は一体誰と戦っているのかもわからないまま、勝った、負けたと日々を送っている。打ちのめされた昨日でも、また立ち上がれるのはきっと守るべきものがあるからだ。
僕は佐伯を素早い切り返しで振り切り、その直後、渾身の力でゴールに叩き込んだ。大人げなくガッツポーズをしてみんなの元へ駆けて行く。僕の心にはもう迷いなどなかった。
☆ ☆ ☆
家に帰ると、美玖が台所に立っていた。僕が帰ってくる時間に合わせてパスタを茹でている。同時進行で作っていたミートソースのほのかに香る酸味と焼けたチーズのいい匂いが漂っていた。
シャワーを浴び、着替えると、自分がお腹を空かしていたことに気が付いた。食卓には大皿にのったパスタが一つある。体を目一杯動かした後の夕飯は食欲まで若返らせてくれる。
掛け時計が指した時刻は午後10時をまわっていた。
「先に休んでいても良かったのに、明日検査に行く日でしょ」パスタを口に入れながら僕が訊ねると、美玖は口をしぼませて軽くうつむく。
「由紀くんに伝えなきゃいけないことがあってさ」そう言った。
そうかこれは、僕はなんとなく悟った。美玖はきっと僕に思いのたけを喋るのだろう。いつもの僕であれば、彼女の意見を先に聞いて、それから彼女を傷つけないように自分の意見を言っていた。
「そうかもね」と、後から同調して美玖に合わせるのは気が楽だ。
スイカをなくして、一緒の電車に乗った時や、病院をかえてみようかと提案した時と一緒だ。僕は美玖が言ってほしいと思っていることを先回りして言っていた。だからこそ今夜は、「先に言いたいことがあるんだ、いいかな」と思い切って、口に出した。
美玖は首を傾げたがすぐに、「どうしたの?」と茶化すような口ぶりになった。
「やっぱり、もうちょっと頑張ろうと思ったんだ」
「頑張る?」
僕は笑って、「子どものこと」と口にする。いつも通りの口調だ。
「子どものこと?」
「うん、二人でずっと暮らすのはもちろん楽しいけど、俺は、子どもがいた方がもっと楽しい気がする。いやきっと楽しい」
「簡単なことじゃないよ、何年も上手くいかなかったわけだし」
「そうだね、でもこれも神様が与えた試練だと思うんだ。俺たち夫婦がもっと幸せになるような」
喋りながら僕は、パスタを口に運んだ。ミートソースが麺に絡んではっきりした濃い味が喉から胃へ流れていく。
「それになんか燃えるだろ。絶対試練を乗り越えてやるんだってさ」
僕は佐伯の覚悟に後押しされたのか、それとも久しぶりに感触を楽しんだサッカーボールのどっしりとした重みなのか、どれがどうとかではないけれど、僕は決心した。背筋を伸ばした。心の中で父を思い浮かべる。
「結果がどうであれ、二人で頑張るんだ。仮に頑張っても、諦めても未来が変わらないのなら、やるだけやって後悔する方がいい」
いつかの美玖のセリフを真似してやった。
「なにそれ、由紀くんらしくない」
美玖は、笑いながら目じりを指でなぞった。
「いやいや、バカにしてる?」
とりあえず反論する。昨日まではずっと、美玖がどうすれば悲しまずに笑顔になってくれるのかとか、どうすれば美玖の不安を取り除いてあげられるのか、そればかり考え、気にしていた。僕は知らず知らずの間に美玖に遠慮していたんだ。
「俺だって美玖との子どもが欲しい。三人で旅行に行ったり、サッカーしたりするのが夢なんよ」
そう言うと美玖の瞳から涙の雫が頬を伝った。まるでダムの決壊のようにとめどなく溢れ出している。
「良かった」
震えた声で言った。僕は美玖が落ち着くのを待って微笑む。
「由紀くんが私と同じ気持ちでいてくれてよかった。もしかしたら子どもが欲しいと思っているのは自分だけで、何も言わずに付き合ってくれる由紀くんに申し訳ないと思ってた。よかった、よかった」
僕は驚いた。美玖がそんなことを思っていたとは知らなかった。
「ごめんな、もっと早く気づいてあげればよかった」
「ううん、大丈夫。今日由紀くんと同じ気持ちだって分かったから」
「俺たち夫婦なのにお互いに遠慮してたんだな、そうだなにか言いたいことあるって言ってたけどなに?」
「なんでもない」
「なんだよそれ」
美玖は答えを聞けなかった僕を憐れむように優しい笑みを見せた。
☆ ☆ ☆
翌日、僕はいつものように会社に出勤した。いつものように既存客への営業周りで外に出る。サッカーによって生じた筋肉痛で動くのが億劫になっていたが、この全身を包む脱力感がたまらなく愛おしかった。
今頃美玖は会社を早退して新しくできた病院に向かっているだろう。もしかしたら妊娠しているかもよと冗談っぽく言って僕を送り出した彼女の屈託のない笑みは、僕の脳裏を何度もループしている。僕は美玖と一緒ならどんな困難にも負けはしないのだ。
そして、いつか。そう遠くない未来に、何でもないことで快活に笑い、くだらないことで称え合い、三人で食卓を囲んでいる。十年後、子どもと向かい合ってサッカーをする僕だって容易に想像できた。「私もまぜて」と美玖が嫉妬して言うと「お母さんはへたっぴだからやだ」と生意気な口を聞く子どもと、二人をなだめる僕。そんなありきたりで、平凡な日常すら浮かんできた。
「はい、松永です。橋本様先日はありがとうございました」
営業中に入ってきた既存客からの電話に謝りながら頭を下げる。
ため息のかわりにくつひもを結び、舌打ちのかわりにくつひもをほどく、あっけない幕切れを恐れながら僕は今日も歩き疲れるために歩き続けるだろう。でも、昨日覚悟を決めた僕なら、自分に自信を持って、僕はこの後を生きていけるのではないだろうか。
僕が家に帰って来たのは10時を過ぎてからだ。「ただいま」と聞こえた玄関にリビングから慌ただしく美玖が迎えた。
「お帰りなさい」
僕は顔を歪めた。嬉しさと照れ臭さ、それと彼女をいますぐに抱きしめたい衝動を抑えるのに必死だった。
「どうしたの? にやにやして」
「なんでもないんよ」
僕はそう言って、美玖の手を握った。
「どうしたの由紀くん?」
美玖は戸惑いながら僕の手を優しく両手で包み込む。
「あと少しだけ」
神様がどんなに意地悪な試練を与えても二人なら乗り越えていける。
僕は抑えきれなくなってしまって、美玖を強く抱きしめていた。
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