前半

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前半

器用すぎることは、実は、とてもむなしいことかもしれない。  マンションのリビングで机に肘をつきながら、目の前にあるパソコンのディスプレイを眺めていた。スマートフォンのアラームが鳴る。もう夕方の六時だった。  あと五分もしないうちに美玖が帰ってくるはずだ。「お仕事ひと段落できた?」と彼女はいつもみたいに臆面もなくとした口調で聞いてくるだろう。  三十一歳の美玖は、僕より四つ年下で、僕の要領の良さもそのせいで物事をあっさり諦めがちな性格もよく知っている。    だってなんとなくその先がわかるのだもの。しょうがないじゃないか。  ため息をこらえながら、内心で、写真の中の父に語り掛けた。額に飾ってある家族写真に写った父は相変わらず眉一つ動かさないでこっちを仏頂面で眺めている。 「お前は器用貧乏だよな、勉強もサッカーもたいてい人並み以上にはできるけど、突出したものがない。なんかワクワクしないんだよな」  厳格な父は生前、僕のことを特別悪く言わなかったが、特別褒められた記憶もない。ただずっと男の子を欲しがっていた父は、末っ子の僕を可愛く思っていたのは本当で、今思えばああ言って照れ隠しをしていたのかもしれない。まぁそのおかげで、僕はすっかり自分を器用貧乏なのだと頭に刷り込まされてしまった。 「でもお父さん、器用だといろんなことができますよ。だって不器用な人よりも選択肢が増えるのだもの」七年前、僕が美玖を両親に会わせた時の食事会でそう父に言い返したことがあった。父は美玖の返答に高らかに笑い、「美玖さんせがれを頼むよ」と満面の笑みで言った。僕は父が美玖を気に入ってくれたことをとても嬉しく思った。  器用だから選択肢が増えてあれこれ考えることが増えるし、考え抜いて選んだ選択肢の先が必ず最善のものとは限らない。僕から言わせればそうだ。 「結果がダメだと分かっていてもいいじゃない。どうせやることを選んでも、選ばなくても答えが同じならやるだけやってみて後悔する方がいいじゃん」  いつだったかな、僕は美玖に「その言い方じゃ君と結婚したこともいつか後悔するみたいに聞こえるんよ」と訊ねてみたことがあった。美玖はその時もあっけらかんとして、 「それは私が後悔しなければいいの、由紀くんに選択肢はない」 「なんだそれ」  このままずっとパソコンとにらめっこしても、いい答えが出るわけでもない。立ち上がり、上半身を反らし、軽いストレッチをした。  ハンガーにかけてあったジャンパーを取る。高校時代に使かっていたものではあるが部屋で着る分には使える。腕を通し、光をよく通すミラーレースのカーテンの向こうのベランダに赴き外に目をやる。全然興味もない高校野球のテレビ放送が終わると同時に夏が終わり残暑を残しながら日に日に秋の訪れを感じる。いまだって秋らしいひつじ雲が薄灰色の影をつくり横からの陽光に照らされて美しい姿を演出している。  あぁそうかもう日が沈む。  この年になって夕焼けがきれいだと知った。まるで僕や僕の周りの人間が目に見えない営業成績とか評価とかそう言った類のものに追われ慌てふためいている姿を、憐れんだ周囲の自然が皮肉なことに活き活きしているように見えるからかもしれない。  風が吹き込んできて、コンロの上に置いた昨日の残りのカレーの匂いが鼻をつついた。 「ごめんまた生理来ちゃった」  昨日、美玖がそう言ってきたのは、夕食を食べている時だった。  僕は口の中に残ったカレーを水で流し込み「そうか」と続けた。 「なんで妊娠できないんだろうね、不妊治療だってしてるのに」 「うん、でも子どもってタイミングもあると思うし美玖が悪いんじゃないよ」 「でもさ、きっと私に原因があるんだよ。由紀くんはなんの問題もないって先生が言っていたし」 「それは美玖だって同じじゃないか」 「でも」 「病院かえてみよっか?」  美玖は頷いた。僕は何一つ励ましの言葉が見つからずその後は黙々と味がしないカレーを食べていた。 「由紀くんあのね、今日仕事で面白いことがあったの」  すぐに明るく話をする美玖の面白い話は特にオチがなく、とってつけたような内容で脚色も下手くそで全然面白くなかったが、彼女がつまらない話を一方的に話すときは、僕が決まって落ち込んだ時だった。  だから僕は必死に笑顔を作るのだ。と同時に妻に気を使わせてしまったことに情けなくなった。いっそのこと泣かれてくれた方がこちらとしては幾分気が楽になるものだ。  僕はその日の夜、美玖に寄り添ってその身体を抱きしめた。美玖の体温が静かに僕の身体に伝わりお互いの心臓の鼓動が合わさる感覚に浸っていた。 「くるしい」美玖は笑いながらそう言って寝がえりをうち僕に背中を見せた。僕は美玖の頭を撫でながら「大丈夫だから、大丈夫だから」と何回も意識が遠のいていくまでつぶやいた。  玄関のドアにかかってある市のゴミ回収の日にちを示すカレンダーにも赤ペンで丸印が書き込まれている。「大森レディースクリニック」最近できた婦人科の名前が美玖の字で書き添えてあった。      外回りのため電車に揺られ、自分が営業担当する葛飾区のエリアに向かう。午前中は新規獲得のため在社しテレアポ架電を行ったが中々確度の高い案件はなかった。午後は既存のクライアントとの原稿の打ち合わせと更新のアポイントが二件入っていた。カバンの中に入れた今月号を携えて、今月の反響を聞き、良くないようなら昨日作った修正原稿を見てもらう。広告プランナーそれが僕の仕事だ。   ☆ ☆ ☆          中国では鳩を丸焼きにして食べるらしい。大学時代に中国からの留学生に教えてもらったことを思い出した。  亀有公園のベンチに座った僕は、集まってきた鳩たちのエサをねだるわけでも、へりくだるわけでもなく自分を見上げるニヒリスティックな表情に苛立って、突発的に手をならすと鳩たちは勘づき、一斉に攻撃可能範囲から離れていく。その近すぎず、遠すぎずの絶妙な距離感は、反対に自分の方が軽くあしらわれた気分になる。  鳩たちは先ほどまで僕に向けられた興味を失い、両津勘吉像が座っているベンチに歩き去っていく。今度はなんだか仲間外れにされた気分になって、ため息が漏れ、陰鬱を誤魔化すように周囲を見渡してみた。  住宅街のためか、幼い子どもを連れた母親の姿が見受けられる。公園の端の方に遠慮がちに並んだ遊具が木漏れ日に淡く光っていた。昼下がりの公園は解放感にあふれ、子どもたちの賑やかな声が聞こえてくる。できることならもう少しここに居たい気もする。  この子たちの父親は、きっと幸せなんだろうな。亀有駅についてここで美玖が作ってくれたお弁当を三十分かけて食べ、残りの三十分をベンチに座って過ごすのが僕の最近の日課だった。  もちろん日々の疲れを少しでも癒すためでもあった。  だがそれ以上に自身の心の奥に抑え込んでいたぼんやりとしたセンチメンタルの渦が、いつか制御できないものとなって暴走しだすかという不安で、腰を上げることが出来なかった。 「さてと、仕事に戻るか」  自分を鼓舞する独り言が、いつだってやる気のスイッチを押すきっかけになっていた。横のベンチに座る両さんに笑いかけ、鳩が手の届かぬ高みに舞い上がっていく。飛び立った瞬間の躍動感ある姿を僕は黙って見上げた。   ☆ ☆ ☆ 「そうなんです。今年の十月から新しくリニューアルしまして、はい、はい増税前のキャンペーンというものをご用意させていただきました。はい、ありがとうございます。それではこちらのプランで進めさせていただきます」  一言一句間違えることがない営業トーク。このクライアントは十年以上もお付き合いがあり、僕が担当になって二年が経つ。時間の流れとは恐ろしいもので今ではお互いに趣味の音楽の話しで盛り上がったり好きな女性のタイプも知っている。 「松永さんこれ来月の新作なんだけど営業所の皆さんで食べてよ」 「いいんですか大野さん。それじゃ遠慮なくいただきます。新卒の子がパン好きなんで喜びますよ」  大野さんは玄関先まで見送ってくれた。僕は頭を深々と下げ笑顔を作る。こうして三十分にも満たない商談で僕は売上を三十万ほど伸ばしたわけだがそれでも月のノルマ達成にはほど遠く、今月の営業日数は残り半分もない。まして作り笑いもいびつになってきて、今から飛び込み訪問をして新規のクライアントを捜す余裕もなかった。  足音が近づく。  まるで自分に向けて響いていくように感じて、振り向いた。走ってきたのはサッカーボールを持った少年たちだった。しっかりとコンクリートを踏みしめて風や光の中を駆け抜けていく。背中の面影にかすかな勇気を与えられた気がして僕は拳を握りしめた。  営業所に帰社してからは、メールチェックと原稿に追われていた。新卒の日浦がまだテリトリーから帰ってきていない。冗談を言う者や無駄口を叩く者がいない、殺伐とした雰囲気に苛まれながら僕は着実に自分の仕事をこなしていた。 「うっちー原稿の修正デザイン部から上がった?」 「さっき上がってたー」  ディスプレイ上のデスクトップに表示された共有フォルダ―に上がってきたデザインを確認する。すぐにこれではダメだと分かった。  キャッチコピーの位置や背景の色合い、何より画一的なデザインでは読者の関心を引き留めることはできない。 「うっち―だめだ。デザインの再修正今から申請すれば明日には上がる?」 「うーん、分かったよーラフ書いて渡してー」  抑揚のない手短な会話は、うっちーの語尾の余韻を耳に残した。  クライアントの意思に沿いながらそのイメージを実体化して人に伝えるもどかしさをもう何年も経験している。 「松永さんいいですか?」  名前を呼ばれて顔を上げる。目の前には事務の藤本さんが困ったようなまなざしを向けていた。 「すみません、どうされましたか?」 「松永さんのお客様で未入金がでていまして」 「え、分かりましたすぐに対応します」  僕は忙しなくパソコンのキーボードをたたいた。未入金を確認するとすぐに電話を入れる。社用のスマートフォン越しに聞える呼び出し音。    二回、三回、四回……  時刻はすでに定時を超えていた。 電車が最寄りの駅についたときには時刻は午後十時を回っていた。自動改札を抜けて駅前の大通りにはちょっとした広場があって、すぐ目の前にたむろする青年の粘っこい笑い声が聞こえてくる。いつからここは青年たちのたまり場になったのだろうか。  僕は早くもスタンバイするタクシー運転手を横目に広場からまっすぐ伸びる遊歩道を歩いた。我が家まで十分程度の道のりを自動販売機の明かりに縋るようにして足を進める。  朝から働き通しの一日がもうすぐ終わる。  僕はいつの間にか大人になって今年で三十六になる。十五歳の僕からしたらてっきり三十歳になる前に自分は死んでいると思っていたから、それを思えば充分に長生きだと言えるだろう。  もう二十年も前の話しになる。考えただけで背中がぞくっとしてしまう。       ☆ ☆ ☆                  僕たち夫婦は結婚した当初から子どもが欲しかった。具体的には二人か三人。男の子と女の子、あと一人はどちらでもよかった。美玖はあまり年が離れすぎていると一緒に遊べなくて可哀そうだからとできるだけ歳を近くしてあげたいとまだ見ぬ我が子を思い描いて楽しそうに言っていたことを思い出す。でも妊活を初めて三年も経てば焦りもでてくる。それなりに準備や計算をしていたにも関わらず、上手くいかなかったからだ。 「なぁ念のために病院で調べてもらおうか」  僕は美玖が悲しむ姿をこれ以上見たくなくて、ついに三年前に検査をしてもらった。原因が分かれば今の医学でそれなりに対処できるだろうし、解決する方法もきっとあるはずだ。僕は一人で問題の解決の糸口がつかめると思っていた。 「特に原因はないですね」  不妊治療で有名な浦和区にある婦人科医は、僕と美玖の前でそう報告した。 「いや、先生そんなわけないでしょ。遠慮しないでいってください」 「そうは言ってもですね、お二人になんの原因もないんですよ。ご主人の方は一般男性の精子の数値よりも多いですし、奥様に卵子も特に問題はないんです。これはタイミングの問題としか」  先生は曖昧な返答した。僕は納得がいかず無言で先生を見つめていた。 「しかし、もっと詳細な検査をすることで原因が見つかるかもしれません」 「どんな検査ですか?」  美玖が訊ねる。 「その前にもう一度お二人の生活や仕事の環境など教えて下さい」  それから僕と美玖は、最近の会社でのことやプライベートで気になった些細なことまで先生に話した。もし原因を強いて上げるとすれば美玖の職場の環境に問題があり、美玖はストレスを知らず知らずのうちに体にため込んでしまう体質で、その影響が卵子に悪影響を及ぼしていると言われた。 「由紀くんごめんね」  病院を出た後で、美玖は僕に頭を下げた。 「どうしたよ、そんな謝ることなんかないじゃん」  僕はどうしても納得できなかった。先生の言っていることが正しいなら僕らには何も悪いところはないし、悪いのは美玖の職場の環境くらいだ。決して美玖は悪くないのだ。 「やっぱり私に原因があるかもだし」 「そんなことないって、まぁ気楽にやっていこうよ。それにまだ俺たち若いんだしさ」  無理に笑顔を作って美玖を励ました。こういう時さらっと気休めの言葉が出てくる自分に驚く。 「それに子どもができたら、美玖はどうせ俺より子どもに愛情を注ぐだろ、そうしたら俺はただ家庭に金を運ぶだけの存在になって、悲しくて死んじゃうよ」 「もう、なにそれへんなの」 「ねぇ、せっかくだからお茶してかない? さっき調べたらおいしいって評判のケーキ喫茶があるんだって」  美玖はやっと笑顔になった。僕は気をよくしてその後はいつものデートでするような会社での愚痴や初めてのデートで水族館に行ったの話しをしていた。帰りの電車の中で美玖は「どうしよっか?」と僕に訊ねてきた。 「何の話し?」 「検査のこと」  先生が言うには不妊の検査は何度もやるべきで、治療をすることで妊娠する確率は比較的に上がるという。 「でも問題がないならやる必要もないし、案外簡単に妊娠するかもよ」 「私は、やっぱり早く由紀くんの子どもが欲しい」  美玖は視線を僕から逸らすことなくじっと見つめ、手を握ってきた。 「わかったよ、やってみようか」 「いいの? お金かかるよ?」 「一生懸命働いて出世する予定だから大丈夫だよ」 「検査だって楽にできるやつばかりじゃないかもよ?」 「つらいのは部活で経験済みだって、俺華奢に見えるけどけっこう骨太なんよ」 「でも」 「これ以上脅かさないでよ、大丈夫だって」  そうして僕はPKを外したプレイヤーを慰めるように美玖の頭をポンと叩いた。この時僕はまだ妊娠についてそこまで深刻に考えていなかった。  美玖は三十歳を超えて僕たちは、タイムリミットが迫ってくる感覚に苦しめられている。   ☆ ☆ ☆            この会社に入社して十三年、思い返すといろいろなことがあった。高校までずっとサッカー一筋で地元埼玉の部員百人を超える強豪校に入学し朝から晩までボールを蹴っていた。中学のときから僕は県選抜や大会の優秀選手に選ばれていた実績があり、あの時は本気でJリーガーになる自分を信じて疑わなかった。しかし、高校二年生になると上には上がいることを切実に思い知らされ、どんなに頑張っても三年生の最後の大会でスーパーサブとして五分間しかピッチに立つことが出来なかった。三年分の五分と考えるととても短い時間だがそんな僅かな時間にもピッチにいられたことはすごく恵まれたことで、ベンチにすら入ることは出来ずに引退した同級生がほとんどだ。 サッカーでは通用しないと思った僕は、大学へ入学した瞬間に未練を捨て遊びまくっていた。今風に言えばチャラ男というやつだ。  あの頃は毎日のように飲み会に参加し、気に入った女の子がいれば声をかけ、持ち帰り、抱く。そして使い捨てのティッシュのようにまた他の女の子を捜し、飲み会に参加して、を繰り返していた。      高校時代に鳴らした爽やかな黒髪を金髪に染め完全にいきがっているだけの恥ずかしい勘違い野郎だったから、就活を意識する友人が企業のインターンに次々と参加する三年の夏まで僕はふらふらしていたっけ。その時、僕には将来を約束した恋人がいて、確かに僕らは真剣に愛し合っていたんだ。そのころの僕は本気で真実の愛を信じていたし、彼女も同じ気持ちだった。僕は彼女に言われるがままに、就活に勤しみなんとか今の会社に入社できた。僕はこの人と一生ともに生きていくと思った。  しかし、社会人一年目は覚えることが多く、すれ違いが増え彼女とは別れた。今となってはなんでもないことだが当時は一日外回りの営業をさぼって空ばかり見ていたと思う。   ☆ ☆ ☆            ゆうロードを歩いていると、前方に勢いよく迫ってきた自転車に思わずたじろぐ。危うくケガをするところだったので、一言文句を言ってやろうと顔を上げる。視線の先に見た人物は僕がよく知る顔だった。 「おう、まっつん。なんだ久しぶりだな」  突然ブレーキをかけたので、つんのめりそうになっている。 「久しぶり、高校以来か」 「いやぁ、何年ぶりだぁ今何してんの?」 「仕事だよ、外回り中」  佐伯比呂は高校時代、サッカー部のチームメイトで、そういえば地元は葛飾だった。十七年ぶりに見たかつての友人はところどころに白髪が混じり、眉間のしわが深くなっているせいか貫禄がある。しかし、どこなく陽気でお調子者だった彼の面影は相変わらず健在で、僕は少し嬉しかった。高校卒業後、彼は実家の家業を継いだ。 「あのさ、お前再来週の火曜日暇か?」 「暇じゃないけど、毎週火曜日はノーザンデーだよ」 「サッカーやらないか?」  佐伯は高校の寮で三年間を過ごしサッカー部ではおもにBチームで僕とダブルボランチを組んでいた。昨今では日本代表で遠藤選手、長谷部選手と同じだ。チームの司令塔的な存在の中盤のボランチは激しくマークされながらも全体の動きを把握して、前線にいるフォワードの選手にバスを送るそれが僕の仕事だった。佐伯はメンタル面と守備面でチームを鼓舞するのが仕事で、僕たちは二人で一人前だった。Bチームでは、バチバチに決まっていた僕たちのコンビネーションもAチームでの試合では全く通用せずに、コーチからはBの二大将と揶揄され、悔しい思いをしていたことを懐かしく思い出す。  それでも国立を必死に目指す高校であったので簡単にレギュラーになれるわけもないのは分かっていた。 「俺は今浦和に住んでんだぞ」 「まぁいいじゃねぇか、車で送り迎えしてやるからよ」  佐伯は車のハンドルを握る仕草を得意になって見せた。 「いやそれは悪いよ、どうせ火曜日は近くでアポがあるしそのまま直帰すればいいからさ」 「ありがとう、メンバーはおれに任せろとりあえず近所のサッカー好きとか、この辺に住んでいる後輩とか連れてくるからよ」  僕はとりあえず笑って「任せた」といった。 「佐伯お前子供いるか?」  別れ際、僕は彼に訊ねた。 「おう、今年で五歳になる息子がいるよ。可愛くてな来年娘も生まれる」 「そうか」  じゃあまた連絡する、とラインのIDを交換して自転車のペダルを漕いで、遠ざかっていく。  取り残された形になった僕は、時間を確認すると早足でアポイント先に向かった。昔のチームメイトがすごく幸せに過ごしていることに少しわだかまりを残した。  不意にどこからか赤ん坊の泣き声が聞こえて立ち止まる。空を見上げて、早いスピードで動く雲を見た。  音もなく過ぎ去っていく季節の流れに身を任せているうちに僕は死んでいくのだろう。せめてその時が訪れる前に美玖に子どもを抱かせてやりたい。そんな思いが一層強くなった。 「さぁ仕事、仕事」  拳を固め自分の太ももを軽く二回叩く。  今日はなるべく早く帰ろう。急に美玖の顔が見たくなった。    ☆ ☆ ☆                     社会人になって五年目の春、僕は美玖と出会った。  僕は、退職した元同僚が開いた合コンに行くところだった。「ハンサムな男紹介しろっていうからとりあえず来い」というような雑な誘われかただったと思う。  仕事をすませて大宮の支社からコンパの会場である渋谷に行くために僕はスイカをチャージしようと券売機に足を運んだ。そこで真新しいリクルートスーツを纏った。いや纏われたと言った方がいいかな。困ったように駅の券売機の前に立ち尽くしていた美玖を見つけた。 「どうしましたか?」  後ろから急に声をかけた僕に美玖は少し驚いていた。 「北千住に行きたいのですが、スイカをなくしてしまって切符の買い方が分からなくて」 「じゃあ駅員さんに聞いてごらん」そう言ってあしらうこともできたが僕は声を少し震わせ不安そうにしている彼女を放ってはおけなかった。 「一度赤羽に出るにしろ、上野まで行くにしろ乗り換えがあるから切符はその都度買った方がいいよ。それに俺もスイカ家に忘れちゃったんだ。こういう時いつもスイカだから分からなくなるよね」  嘘をついた。冗談交じりに笑ってみる。彼女も自分と同じ境遇の人を見つけて安心したのか落ち着きを取り戻しつられて笑みをこぼした。  そこから会話が弾んでどういうわけか僕と美玖は同じ電車に乗っていた。そこの記憶は曖昧なのに美玖とのおしゃべりがとても面白かったことは覚えている。結局僕は渋谷には行かずにいつまでも美玖とお喋りしていた。  仕事がやりにくいと感じるようになったのは、ネット媒体が周囲に認知されてきてからだった。スマートフォンの検索エンジンで「飲食店」と打ち込めば近くのお店が大量にでてくる。誰が考えたか知らないが、飲食店の評判を採点化することで消費者に分かりやすく選んでもらえるシステムが確立した。ペーパーレスとはよく言ったものだ。今じゃ紙媒体は消滅の道を進んでいる。まして地域情報誌といったポスティングのフリーペーパーはピーク時に比べて顧客を失った。 「新聞も雑誌も売れなくなった。だからこそフリーペーパーには地域の情報メディアとして大きな価値がある」  支社長は口を酸っぱくして言う。その通りだと思う。  しかし、だからこそ頭を下げることに虚しくなってしまうときがたまにある。 「反響がなくたっていいじゃん、だってお客さんに殺されるわけでもないし、昔みたいに切腹なんてしなくていいんだからさ」  切腹という言葉になんだか笑ってしまう。昔ってだいぶ前だぞ。それでも美玖の物言いには思いやりがあって僕をそっと包んでくれる。 「きっとうまくやれるよ」 「そうかなぁ」 「由紀くんは器用だから」  美玖の言葉はいつでも僕を奮起させてくれる。僕はこれ以上彼女の悲しい顔を見るのは嫌だった。
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