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香りで満たして
――食べさせて――
そう言ったのは自分だけど。
君の作った甘いお菓子も君自身もこんなに近くにあるのに我慢は効かなくて……。
触れ合う距離まで近づくと、澄みわたるアメジストの輝きが一層強くなる。
感情の起伏によって、色合いが変わるアメジストの瞳。
特に、幸せな時や嬉しい時にみせる透き通った、バタフライピーの紅茶に甘い蜂蜜を溶かしたように輝く瞳は美しくて、ずっとみていたくなる。
まるで、依春のまっすぐな素直さや柔らかい優しさを表したような輝きを、リアムは1番愛おしいと思う。
あともう少し。
ふわふわしていて、甘いマシュマロみたいな唇を口に含んで可愛がってあげられる。
「っ……ハルくん、キス、したいんだけど……」
唇に触れたざらりとした硬さと甘ったるい粘度のある物体は、柔らかい依春の唇には程遠い。
ふるふると首を横に振る気配を感じて距離をとる。
口の前には、正方形のパウンドの上に、白と紅色の無花果の果実がジューシーに照り輝いていた。
キスを妨げるために押し付けられた、無花果のクランブルケーキ。
じわりとアメジストの瞳に蜜が滲む。
可愛い……。
この瞳の反応は、拒絶じゃない。
依春の正式なパートナーとして、Domとして、小さな反応をよく観察する。
「……ここ、ソファだし、まだ、お風呂入ってないし……っ。リアムさん、スイーツ食べたいって言ってたじゃないですか……っひゃぅ?!」
細い指で摘まれたケーキを依春の指先ごと口に含むと、細い肩がびくりと跳ねた。
手首を捕らえて、一口大のグラブルケーキを咀嚼しながら、ペロリと指先を舐めて解放する。
そういう雰囲気になったら、「入浴後」「寝室で」は、依春の願い。
ちゃんと守るつもりだけれど、これはプレイの前に仕込むちょっとした戯れのつもりだ。
あとは、少しのわがまま。
「ん、美味しい。カフェでも説明してくれたけど、大豆粉の軽さが無花果の甘さを際立たせてるね」
「……よかったです。って、そろそろ離し……っ」
「だめ。だって、俺、カフェでこのケーキ食べられなかったし……。ハルくんもどうぞ」
片手で依春の腰をひきつけて、ローテーブルの上の皿から一口大のケーキを小さな口に運ぶ。
瞳をうろうろと彷徨わせながらも、かぷりと小さな口で食む。
動揺を隠そうとしていても、うるうるとした瞳。
昼に仕込んだ種が着実に芽吹かせているのがわかる。
少しずつ馴染ませ続けた愛情に、慣れないながらも答えようとする依春が可愛くて、ついつい必要以上にかまいたくなってしまう。
仕草も表情も、俺から受けるもの全てに可愛い反応を示してくれるから仕方ない。
だから、今日も少しだけ、依春の心を俺だけに向けて欲しくて忍ばせた種……
キスされることには慣れてきているから、依春の動揺は、また別なことを知っている。
「ランチタイムにお店に行った時、俺の分まで用意してくれたのに食べられなくてごめんね。小鳥遊さんが俺の分まで食べちゃったから……」
小動物がエサを咀嚼するように唇をもごもごさせて食べる様子を確認して、ふにりと柔らかいそれに触れる。
だから、こうしてリアムの分を持ち帰ってきてくれたことに、ありがとうと、口を動かす依春に感謝を伝えた。
「んっ……でも、それとキスしたいは……」
「ぁぁ、うん。キスしたいは、純粋に俺の欲望だね。ハルくん、俺が食べられなかったの知って、こうして持ち帰ってきてくれたんでしょ?それが嬉しくて、つい」
「……僕は、リアムさんにも食べて欲しかったから……」
きゅっと服の裾に皺を刻みながら、こそりと零す依春の気持ち。
「うん。ありがとう。……まぁ、お店でもどこでも可愛いハルくんにキスしたいって気持ちはもってるけどね」
「どこでもは……っ」
どこでも……は、本心だけど依春が嫌がることはしない主義だから、絶対しないけど。
この目の前の愛おしいDearを閉じ込めておけるなら、俺は四六時中、依春の体温を感じていられるように手放さないでいるだろう。
「……ハルくんは、俺がお店に行ったり、カフェテリアで話かけたりするのイヤ?恥ずかしい?」
わざと小首を傾げて、悲しい顔で聞くと、目の前の恋人は、「ずるいです。その聞き方」と絆されてくれる。
その初々しい反応と可愛らしさに、すりすりと首元に鼻先を擦り付けて距離をなくす。
何もつけていないはずなのに、依春の香りはいつも甘くてあたたかい可愛らしいものだ。
そんな香りを胸いっぱいに吸い込みながら、昼間に依春を落ち着かなくさせた原因を、より感じやすくさせるためにきゅっと抱きしめる。
「っ……そんなことないです。来てくれると嬉しい……けど、今日はっ」
「今日は……?」
「今もだけど……」
彷徨うアメジストの瞳は、昼間のことを思い出して、情欲の炎が灯る。
*****
上司の小鳥遊副社長の日課であるカフェ巡りに付き合って、――依春を愛でる絶好の機会でもある――ブルームーンに足を運んだ。
いつもとは少しだけ違う仕込みをして……。
ダークブラウンのカフェエプロンに身を包んだ依春は、お客に向ける笑顔で接客をしていた。
もちろん、恋人だけど、常連として足を運ぶリアムと小鳥遊にも、和むような笑顔を向けてくれる。
恋人フィルターがかかっていようとも、依春の仕事中の笑顔は、見るものに癒しを与える。
本人は無自覚だが。
一通りフロアでの接客を終えると、定位置となっているリアムと小鳥遊の元へ。
いつもの日替わりスイーツともう1皿をもってくる姿は、儚げさと可愛いらしさを併せ持っていて、見ているだけで充分に満たされる。
「大豆粉を使用しているので硬めの食感で……っ」
試作品だという無花果のクランブルケーキの説明をしているところで、ピクリと小鳥遊と話していた依春の会話が止まった。
「ぁぁ、うちの大豆粉?使ったことなかったから、今度お菓子作りに使おうかな。……ハルくん?」
「ぁ、いえ!なんでもないですっ」
ちらりとリアムに視線を送った依春の瞳は、じわりと潤んで、目尻と頬がぽっと色づいていた。
リアムにしか見せない顔。
温和な依春にしては、少し責めるような雰囲気も深紫の瞳に滲ませて。
ぁぁ、ここまで意識させるつもりはなかったのに。
自分で仕掛けたくせに、誰にも見せたくない表情をする依春にどろりと独占欲が漏れそうになる。
そんな剣呑さを押しとどめながら、にこりと爽やかな笑みを返す。
「とても美味しそう。俺もいただくね」
「っ〜……では、あの、ごゆっくり……」
トレイをギュッと抱きしめると、小鳥遊にぺこりとお辞儀をして、キッチンへと姿を消してしまった。
名残惜しさを感じるも、あの顔を誰にも見せたくないと思ったから少しほっとする。
この綯い交ぜになった感情も依春だからこそ起こるし、うまく処理できない困った感情だとは思っている。
ふと、じとりとこちらを依春以上に責めた眼差しでみつめてくる小鳥遊に気づく。
「じゃぁ、俺もいただきま……」
綺麗に盛りつけられた皿に手を伸ばしたところで、ズズっと皿が遠のいていく。
「ぁ、の?」
「ハルくんになにしたの?いつもの彼なら、もう少しおしゃべりに付き合ってくれるのに……」
部下の様子までよく見ている優秀な上司には、今のやりとりから依春の動揺に大方の予想をつけてお見通しらしい。
彼自身もSubだから、依春の変化に気づいたのかもしれないが、完全にリアムの仕業と見当をつけている。
全くその通りなんだが……。
「可愛いハルくんが見たくて、少し……」
「ハルくんを困らせるようなことは許さないって言ってたはずだけど」
「……ちょっと、俺自身もあの反応は予想外で、小鳥遊さんにも見せたくないのにって、ごちゃごちゃしてます」
勝手がすぎるDom特有の独占欲をぽろりと漏らすと、更にチクチクとした視線が刺さる。
いつもなら「これだから、リアムは……」と小言で終わるところが、そうはいかないらしい。
「悪い子には、お菓子はあげません。これは私ひとりで食べるから、リアムはそっちどうぞ」
「ぇ、小鳥遊さん……?!いくら甘いもの好きでも食べ過ぎは……」
「反省するんだね」
ぱくぱくと細身の身体に無花果のクランブルケーキが吸い込まれていく。合間に、「おいしい」と感想を漏らしながら。
こうして、皿の上がきれいさっぱりなくなり、リアムへのお菓子はなくなったのだ。
*****
「……なんで、今日はこの香りなんですか?」
いつもと違うじゃないですか……もぞもぞと胸元にうずめた声は、恥ずかしさでいっぱいなようで尻すぼみに問いかけてくる。
「ぁ、やっぱり気づいてくれていたの?お店で少し慌ててたもんね」
少しどころじゃないけど、危うくあの顔を隠してしまいたい衝動にかられたのは秘めておく。
「だって……この香り……お部屋のアロマと同じだから、あのあと……っ」
「あの後、ハルくんは思い出しちゃった?」
依春に店で会う前に吹き付けたのは、プレイの際にリラックスのためと焚いているアロマに似たオーデコロン。
「この香り好き」と依春の呟きを拾って、ここ1ヶ月くらいは甘さと爽やかさのある同じ香りを使ってきた。
だから、依春もよく覚えていると見越して……。
「っ〜……仕事終わりまで、どきどきして……大変だったんですからっ」
頬を染めて、香りからプレイを想起させてしまい仕事に集中できなかったことを零してくる姿は色気があって……。
でも、おずおずとこちらを見上げた瞳には、今にも決壊しそうな程に涙が溜まっている。
アメジストの奥にぼんやりと滲む仄暗さ。
この瞳は、リアムが引かなくてはいけない色……。
「嫌がることは絶対にしない」は、リアムの主義だ。
プレイにおいても、日常生活のケアについてもSubであるパートナーの安全と安心は必ず守られるべきだ。
そのためには、Subの機微を目敏く察して、限界を見極めるのはDomとして当たり前のことだと思っている。
お互いを思いやってこそ、心と身体は満たされるものだ。
Dom/Subというダイナミクスがなくとも、リアムは依春のためなら、その主義を貫き通す。
愛おしい恋人が笑顔で安心して隣にいてくれるために、必要なことだろう。
「……ごめん。俺もあの時のハルくんの顔をみて、すぐにでもどこかに閉じ込めてしまいたくなったくらい反省してる。……香りが好きって言っていたから、もっと好きになってくれないかなって、欲が出ちゃった」
普段なら、だいたいの相手の反応が予想できるのに。
依春のこととなると、独り占めしたいという欲と大切にしたい欲が均衡を保てなくて、事が起きてから「しまった」と思うことが多い。
それだけ、依春がリアムにとっての何を置いても大切にしたくて、自分が暴走してしまうほどに恋い焦がれる存在なのだ。
「……リアムさんがそう思ってたのはびっくりしたけど。この香り嫌いじゃないですからね。……でも、いつもの香りの方が、外で会う時は好きです」
すんっとシャツの襟元の香りに鼻をうずめながら、囁かれた言葉。
声には、いつものあたたかい色が戻ってきているから、嫌がっていないことが感じ取れる。
依春が「いつもの香り」というのは、仕事の時に付けているウッディ系の爽やかな方だろう。
「どっちも好き?」
「いつもの方は、仕事をしているリアムさんのかっこよさをよく表してるから。……今日の甘い方は……その……甘やかされる時のリアムさんの香りだから……すき……」
思わず、かがみ込んで目の前の可愛い存在が、一生懸命に紡いでくれた言葉を噛み締める。
同時に、あさはかな独占欲で依春の気持ちを推し量ろうなんてした自分の邪な感情が醜く感じた。
「……リアムさん……?」
「ハルくんが、俺をたくさん甘やかして、ゆるしてくれるから……純粋な気持ちをもとうと心に誓っています」
「……リアムさんだから、好きな香りなんですからね。別な人がつけていたらなんとも思いません……たぶん」
「はぁ……可愛い……。そんなどこまでも俺に優しいハルくんが大好き」
もぞっと動く依春の首筋が朱色に染まり始めたのをみると、余計に嬉しくなる。
この香りが自分から発せられているから、依春の心をリアムが独占できるのだと。
「同じ香りをつけたら、ハルくんはずっと俺の事を考えてくれるかな……」
「っ……そんなことしたら、ずっと抱きしめられてる感じになりそうだから、だめですっ」
――どうしてるかなとか会いたいなって思うし――
続いて紡がれたことに、きゅんと胸がいっぱいになる。
「うん。ハルくんを困らせることはしない。でも……」
「でも……?」
「いや、ハルくんの香りは、そのままハルくんの香りだから、君がいないと好きな香りを胸いっぱいに吸えないんだなって思っただけ」
「…………」
「ちょっと引いてる?」
「えっと……僕、なにもつけてないけど好きな香りって言って貰えて嬉しいな……って」
明らかに一瞬、引いた空気が漂ったのに、どこまでも俺に甘い恋人は、リアムを惹き付けてやまない香りに無自覚だったことを零す。
たぶん、リアムだけに感じる儚くて甘い香り。
そんなところが愛おしくてたまらない。
「……だから、ハルくんの香りで満たされたい……」
香りを吸い込むように胸元に鼻先を押し付ける。
反応しかけているだろう、胸の二対の果実を態と擦るようにしながら……。
胸元まで上昇させていた片手の指先で、布越しにくっと果実を摘んで、ころがして。
「ここも香りで反応しちゃって、可愛い……」
「ひぅっ……?!あのっ……まっ、て」
丁寧に育てた果実は、香りと声だけでぷっくりすることはわかってる。
はやく口に含みたいけど、ここは我慢。
ぱっと、身体をまさぐる手を離すと、ふえっと色づいたアメジストの瞳。
「……お菓子も美味しかったけど、まだ足りないからハルくんを食べさせて、ね」
「っ〜、我慢できないようにするの、ずるいですよ……っ」
反省してるつもりなんだけど、やっぱり依春を前に行儀よく「いい子」もできなくて。
ずるいと分かっていて、彼の身体に火を灯す。
「部屋でまってる。いつもの夜の香りでいいよね」
ぷっと頬を膨らますけど、ちっとも怖くないし、嫌がっている雰囲気が瞳から感じられないから、にこりと笑顔を返す。
自分がこんなにも我慢するのが苦手なことも、依春を愛して知ったこと。
子供じみた独占欲も我慢の効かなさも、大切したい気持ちも依春にしか感じない感情の数々。
そんな感情をうまく掬いとって甘やかしてくれる依春にこれからも甘えていくと思う。
君の瞳の奥の色を確かめながら。
――今日も君の香りで満たされて、君を俺だけの香りで満たしてあげたい――
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