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「さて……」
そう言うと、まだ立ち上がれずにいる男の前でしゃがんで無遠慮に覗き込む。彼はビクリとして逃げるように身をのけぞらせたものの、その顔は認識できた。
「ダブリン侯爵の嫡男か」
数年前、ほんの数分だが一度だけ会ったことを覚えている。王宮を訪れたときに、たまたま別の用件で来ていたダブリン侯爵に呼び止められ、挨拶のついでに跡継ぎだという息子を紹介されたのだ。
「愛人に立候補したって?」
「……めずらしいことではないでしょう。新婚なのに夫に顧みられない彼女をかわいそうに思っただけです。王宮でも憚ることなく本命とよろしくやっていたあなたに、とやかくいう権利はないと思いますけど」
本命ってアーサーのことか——。
うんざりして嘆息する。噂を信じるも信じないも自由だが、何の証拠もないものを根拠に喧嘩をふっかけるなど愚かとしか言いようがない。しかも次期公爵相手に。視野の狭さゆえか無知ゆえか自分の立ち位置さえわかっていないようだ。
「おまえがどう思おうと権利はある」
そう告げると、彼の右手首をガッと勢いよく鷲掴みにした。
「えっ……?」
「この手か?」
「えっ???」
行動の意味も、質問の意味も、愚かな彼には理解できないらしく困惑の表情を浮かべるばかりだ。リチャードは無表情のまま掴んだ手にギリギリと力をこめていく。
「シャーロットに触れたのはこの手かと聞いているんだ」
「ちょっ……痛っ……」
顔をしかめて振りほどこうとするが、見るからに腕力のなさそうな彼では騎士団長のリチャードに敵うはずもない。
「本当はこの不埒な手を切り落としてやりたいところだが、今回だけは大目に見てやる。ただし再び妻に触れるようなことがあれば容赦はしない。ウィンザー公爵家を敵にまわす覚悟をしておけ」
そう宣告すると、掴んでいた右手首を乱暴に放してすっと立ち上がる。見下ろした彼は床に倒れ込んだまま青ざめた顔をしていた。この様子ならもうおかしな気は起こさないだろうと安堵したが——。
「グレイ伯爵家も黙ってはいません」
「ポートランド侯爵家も追従しますわ」
アーサーとロゼリアが冷ややかに追い打ちをかけた。夫人には何の権限もないが、当主であるポートランド侯爵が隣で頷いているので、ポートランド侯爵家の意向と考えて相違ないだろう。
王家に連なる血筋のウィンザー公爵家、広大な領地と海運の要衝を抱えるポートランド侯爵家、堅実な領地経営で存在感を増しているグレイ伯爵家——この三家を敵にまわせば間違いなく孤立する。
彼はますます青ざめ、あたふたと謝罪もしないまま逃げ帰っていった。
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