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②表と裏
バチンと乾いた音がして、額に痛みが走った。地面にコロコロと転がる石を見て、あれが当たったのだと気が付いた。
「やい、落とし子め! 不吉な子供だ! さっさと村から出て行け!」
何かが垂れる感触がして下を向くと、胸元に血が付いていた。ぽたりと顎から赤いものが垂れて、また服を染めていった。
「お前の母親は腹に化け物を抱えて帰ってきたんだ」
悔しさで目の前が真っ赤に染まり、キッと睨みつけると、怖い怖いと言いながら子供達は走って逃げて行った。
なんで。
どうして。
その言葉ばかり頭で繰り返していたが、母の小さな背中を見たら何一つ問いただすことはできなかった。
嫌な夢だ。
子供の頃の嫌な記憶が夢に出てきて、最悪な寝起きだと頭痛を覚えながら、のっそりとベッドから起き上がった。
ドタドタと足音が聞こえてきて、すぐにドアが盛大に開け放たれた。
「リオ、そろそろ起きろ。遅番なのに悪いけど、店の方に客が増えてきたから対応してくれ」
「あー…分かった」
ドアから半身乗り出すようにして顔を出してきたのは、モンセンだった。
日焼けした健康的な肌で、長い黒髪を後ろで適当に結んでいるが、今日は三つ編みになっていた。
「あれ、モンセン今日は裏の方か?」
「そう、夜な。詳しくは言えないけど、尾行任務」
そうかと言って俺はベッドから下りて服を脱いだ。裏の仕事について、詳しく聞かないのがここのルールだ。
顔を洗ってボサボサの髪を軽くとかして整えれば、俺の支度は完成だ。体毛が薄いので支度に時間がかからないところが、唯一自分の気に入っているところだ。
俺がてきぱき支度をするのを、モンセンは黙って座って眺めていた。
もしかしたら何か聞きたいことがあるのかもしれない。
シャツのボタンを首元まで留めながら、俺は鏡越しに思いつめたような顔をしているモンセンを眺めていた。
花街には、娼婦を売り物とする店がほとんどだが、男娼を専門とする店が一店だけ存在した。
客のほとんどは指向を知られたくない者ばかりなので、秘密厳守で衛生的で安全、その条件を保つとなると娼婦の倍の金額が必要だった。そのため客のほとんどが貴族、それも年配の男が多かった。
遊びに来た客が一番求めるのは、男娼がどれだけ若いかどうか。
特に男娼の一番の売れ時は十代、それもまだ毛の生え揃っていないガキを好む男ばかりだった。
だから十九で売られてきた俺は、その時点でギリギリの場所にいた。
初めこそ、容姿を珍しがられて、初物だとか慣れていないとか、そんな風に言われてそれなりに客が付いた。
しかし、二十歳を超えたらそこから一気に指名されることがなくなった。
そもそも若さが求められて、若くないのならテクニックがないと客は再び指名してはくれない。
俺はどちらも足りないということで、徐々に飽きられて、そのうち一晩客が付かないことが当たり前になった。
結局、二十五の時、花が過ぎたと言われて娼館から追い出された。
確かに最後の方など、部屋の掃除しかしていなかった記憶がある。
しかも悪どいオーナーに騙されて、今までコツコツと貯めていた客から貰ったお小遣いをごっそり奪われて、身ぐるみ剥がされるようにして、足で蹴られて店先に転がされた。
貯めていた金は惜しいが、しがみついてまでやりたい仕事ではない。
俺はフザけんな、こっちから辞めてやると悪態をつきながら、意気揚々と花街を出た。
しかし、現実は甘くなかった。
花が過ぎた男娼が行き着く先は二つ。
運のいい娼婦のように、金持ちの男に拾われて後妻に収まるなんてことはない。
一つは流しと呼ばれる、道端で声をかけて直接自分から体を売る仕事だ。利益は全て自分のものになるが、店を介さないので、どんな相手にあたるか分からないし、衛生環境は最悪。ほとんどの者が二、三年以内に体を壊して病気になり、やがて姿を見なくなる。
二つ目は、犯罪に手を染める。窃盗に強盗を繰り返し、やがて盗賊や海賊となり略奪や殺人にまみれた生活を送り、果ては捕縛されてさらし首だ。
俺はどちらもやりたくなかった。
しかし、まともな仕事は見つからず、今さら村に帰ることもできない。
有り金は尽きて、何日も何も食べられないまま、ボロ切れみたいになって路地裏に転がった。何もかも嫌になって空を見ていた。
このまま、死ぬ運命なのかと、悔しさに咽び泣いていた時、俺の前で足を止めた男がいた。
それが、モンセンだった。
モンセンはもともと仕事仲間、同じ娼館で同僚だった。俺より先に客と喧嘩してトラブルになり、追い出された男だった。
モンセンは偶然入った道で、知った顔をしている汚い男を発見した。
男娼時代、他のやつとあまり交流はなかったが、唯一モンセンとだけは気が合ってよく食堂で話をした。
その時の縁があったからか、モンセンは俺に声をかけて食事を奢ってくれて、よかったら一緒に来ないかと誘ってくれた。
自分も偶然拾ってもらい、今の仕事に就くことができた。ボスが気に入れば、リオも雇ってもらえるかもしれない。自分もお願いするからと言ってくれた。
どんな仕事かはよく聞かされなかった。おそらく二つ目の環境に近いのではないかと考えた。やりたくない仕事かもしれない。しかし飢えと寒さはもう限界で、どうにかして腹を満たして温かい寝床で寝られるような暮らしがしたかった。
俺に選択肢はなかった。
泣きながらお願いしますと震えた声を漏らした。
そうして連れてきてもらったのが、ティティアン人材斡旋所だった。
「それで? 考え込んでどうしたんだ?」
最後の客の対応が終わって見送った後、二人だけになった。書類の片付けをしながら声をかけると、無言で書き物をしていたモンセンはペンを持つ手を止めて、俺の方を見てきた。
「ボスから新しい依頼があったんだって? しばらくリオはいなくなるからと言われたんだ。大丈夫なのか?」
どうやら心配していてくれたらしい。
俺は気にかけてくれるモンセンを嬉しく思いながら笑ったが、困惑は隠せなかった。
「あー…いや、ちょっと特殊な依頼で……」
「俺はまだ早いってボスに言っていたんだ。本格的なアカの任務は、ベテランの先輩達だって滅多にやらないのに……」
モンセンは眉を寄せながら、険しい顔をしていた。アカに危険はつきもの。時には命が危ういことも、それはここで働く人間なら誰でも知っていた。
ティティアン人材斡旋所は、ヴァルトデイン王国に働きに来た人間の玄関口だ。
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