第一章 ①泡沫

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第一章 ①泡沫

 薄明の空に朝焼けが鮮やかに見える頃。  クロカスの花街を通り過ぎると、花鳥の歌が聞こえる。  綺麗だと言う者もいるし、悲しいと言う者もいる。  それは客と朝を迎える事ができなかった売れ残りが歌う歌だからだ。  緑の窓枠にもたれかかりながら、掠れた声で悲哀の気持ちを込めて歌うのだ。  そうやって同情を誘い、明日は自分を買って欲しいという意味を込める。  かつて、その歌を歌うのは自分だった。  もちろん仕事の一環で、やれと言わされてやっていたけれど、惨めすぎて嫌で嫌でたまらなかった。  そんな同情を引いたとしても、取れた客などいなかった。  一度だけ、これから戦場に行くと言う男が声をかけてきた。  帰ったら必ず会いに来ると言ってきた。  髪はボサボサで薄汚れていた男だったけれど、それでも自分を買ってくれるならと俺は待ってると言って笑った。  分かっていたけれど、その男が戻ってくることなどなかった。  ただの気まぐれな酔いの残りだったのか、儚く散ってしまったのか。  この歌を聞くと、ずいぶん昔のことなのに、いまだにその事を思い出す。 「リオ、帰ったのか。どうだった? 久々の古巣は」  まだ誰も起きていないと思ったのに、裏口から入ると、モンセンが水桶で顔を洗っていた。 「変わらないよ。相変わらず薄暗くて空気の悪い場所。疲れたから少し寝る」 「おう、起きたら報告書を持っていけよ」  俺は分かってると言って、眠気でフラつく足を無理やり動かして階段を上った。  三人の共同部屋なので、静かにドアを開けた。適当に荷物を置いたらすぐに二段ベッド下にもぐりこんだ。  目を閉じれば疲労から押されて、泥のような眠りに落ちる。  こんな毎日でも、あの頃よりはまともな生活をしていると思うのは、感覚がおかしくなってしまったのだろうか。  眠りに落ちる寸前も花鳥の歌が頭から離れなかった。  疲れる仕事だった。  今はまだ単純な仕事だが、そのうちもっと手が汚れるようなことをやらされるかもしれない。  自分の手が血に染まったら、もう戻れないと思ったけれど、考えれば俺に綺麗なところなどない。ここを出ても戻れる場所などない。だからこのまま進むしかない。  俺はどうしたいのだろう。  ふとした時に体を駆け巡る焦燥感。  その意味は時間が経っても少しも分からなかった。  俺はリオと呼ばれているが、本当の名前はエミリオだ。  この街に連れて来られた時からリオと呼ばれて、それ以来ずっとそうだ。  ここはヴァルトデイン王国の城下町にあたる、ルサ、ロウ、バフの三つの地域で区切られた都市、ルルクス。  王城があり貴族が暮らすルサ、平民が暮らすロウ、商店が立ち並ぶ商業地域がバフと呼ばれている。  俺が初めてバフに来たのは十九の時、それから八年経つがずっとバフから出たことはない。ロウはおろか、ルサになど近づいたこともない。  もちろん、地域を行き来するには通行証が必要で、俺のような人間はそれを持ち合わせていないので、端から無理な話だ。  もともとは、ここからはるか遠い田舎の村で生まれ育った。  山と川と森に囲まれた小さな家。  ほぼ自給自足。畑で薬草を育てながら、それを近くの町まで売りに行き、わずかなお金にして生活を営んでいた。  母は俺が十歳の時に病で亡くなったが、貧乏子沢山を絵に描いたように、長男の俺の下に弟と妹が合わせて六人もいた。  暮らしぶりは楽ではなく、村では十六を超えるとほとんどの男は外へ働きに出るが、俺はまだ幼い弟と妹の世話で、十九を過ぎても村に残って暮らしていた。  すぐ下の弟達は山で狩りをできるようになり、逞しく育ってきた姿に安心していた頃、それは起こってしまった。  町に薬草を売りに行っていた父親が、ガラの悪い男を連れて帰って来た。  男は蛇のような目をして、妹達をじろじろと見ていたので、俺すぐに何のことが悟った。  死んだような青い顔で立ち尽くしている父親を問い詰めると、やはり町の賭場で借金を作ってしまったとこぼした。  やはりと俺は頭を打たれたように倒れそうになった。男は人買いだった。  娘のいる貧しい家に目をつけて、そこの主人を言葉巧みに騙して借金をさせる。そして、借金のカタにと一番器量のいい娘を連れて行く。  度々行われていることで、村に行くとそんな話をよく聞いていた。  案の定男は、十三歳になる妹を指差した。  泣き崩れる父親と妹と弟達。  それを見た時、俺は心を決めた。  ずっと思っていたことだった。自分は本当はここにいてはいけない存在なのだと。  俺のせいで父親は苦労することになったが、他の兄弟達と変わりなく育ててくれた。  これは恩返しだ。  そう思って足を踏み出した。  人買いの男に、代わりに俺が行くと言うと、何をバカなど鼻で笑われたが、そこでやっと俺の容姿をよく見たのだろう、男の笑いが止まった。  これは金になるかもしれない。  少し歳は取りすぎているが、十分元は取れるぞ。  そう言って男は俺を上から下まで吟味するように眺めて、ニヤリと気味の悪い顔で笑った。  そこからはよく覚えていない。  父親も兄弟も縋り付いて行かないでくれと叫んでいた。  今までありがとうと言えたかどうかも朧げだ。  とにかくそのまま連れ出され、荷馬車に乗せられて後、長い時間かけてルルクスに到着した。  年齢のこともあって交渉は難航したらしいが、人買いは希望する値で売れたのだろう。俺の肩を叩いて頑張れよと言いながら、満足そうな顔をして帰っていった。  こうしてルルクスのバフにある娼館に売られた俺は、その日からすぐに男娼として働くことになった。 「それで、昨日は大変だったらしいな」  俺の書いた報告書をぱらぱらと捲った後、バサリと机の上に投げるように置いて、ロドリゴは口の端を上げてニヤリと笑った。  父親と同じくらいの歳だが、黒々とした髪には艶があり、縦皺の入った口元には男の色気が漂っている。昔のヤンチャで負傷したと言っている片目を黒い眼帯で隠しているが、片目だけでも鋭く尖ったような目力を感じた。  働き出して二年になるが、この男と目を合わせるのは苦手だ。どうも体が萎縮してしまう。 「大変でしたよ。ミゲル夫人には浮気相手は花街の女で、仕事帰りはだいたい会いに行っていると調査結果を伝えましたが、それなら直接現場を押さえたいと頭に血が上ってしまって、俺を掴んで飛び出して…。何度も止めたんですけど、娼館に乗り込んで殴り合いの大騒ぎ、その後その場で数時間の話し合いまでずっと付き合わされて…それに、俺も間に入って二、三発くらいました」  話の途中から肩を震わせていたロドリゴだったが、ついに耐えきれなくなったのか、噴き出して大口を開けてガハハと笑い出した。 「一人前にやれるようになったじゃねーか。読み書きも問題なくできるようになったな」 「ええ…おかげさまで。まだ古語が含んだ文章は詰まりますけど」 「ああ、そりゃ俺も苦手だ。それならそろそろ、本格的に動いてもらおうかな」  本格的という言葉に心臓が揺れて、体が一気に緊張に包まれた。  ボロ切れのような状態で拾われて、温かい寝床だけでなく、読み書きすらできなかった使い物にならない俺を雇ってくれた。  ここまでしてもらって今さら拒否することはできない。  俺はじっとロドリゴの目を見てから頷いた。 「今まで頼んでいた、人探しやら浮気調査とは違う。今度は潜入するんだ」 「………潜入ですか」  潜入と聞いて、悪の組織やワルの集団を思い浮かべた。怪しげな薬の取引、口封じの証拠、バレたらいつ殺されるか分からない状況を想像して、ごくりと唾を飲み込んだ。  まさか素人に毛が生えたような俺に、いきなりそんな役がまわって来るとは思ってもみなかった。 「マクシミル家、名前は聞いたことくらいあるだろう」 「え…ええ、貴族の中でも最高峰のマクシミル公爵家ですよね。勉強用に頂いた伝記の中にも出ていました。王家と同じく、世界の始祖である古龍の血を受け継ぐ一族だとか……」  世界の成り立ちに関する書物はたくさん読まされた。その中でも一番興味深かったのはマクシミル家の一族だった。  古龍の力を受け継ぎ、今も王国を影で支えているとか、人を超える力を持つなど、子供が好みそうなお伽話みたいなものが数々あった。  読み物としては楽しんだが、実際に存在する人間であると思っても、遠すぎて全く現実感はない。  まさかロドリゴはここでお伽話でも披露するのかと頭が混乱し始めた。  簡単な任務だと言ってロドリゴは片方の口の端を釣り上げるように笑った。付き合いは浅いがこの顔は嫌な予感がした。  俺は無意識に後ろに一歩下がってしまった。 「リオ、お前はマクシミル家に潜入して、そこのご令嬢を妊娠させるんだ」  ロドリゴの言葉がまるでお伽話の続きみたいに聞こえた。  めでたしめでたし、という言葉が続くかと思ったが、部屋には沈黙が流れて、いくら待っても終わりの言葉は降って来なかった。  □□□
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