最果ての地へ

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 「ほうら、やっぱり名前はオムライスの方がいいんじゃないのかい? 茜さん」  固まっていると、ふいに別の方向から茜を呼ぶ声がした。  カウンター席の奥にある調理場、言ってみればこの店側の人物からだ。いや、両耳からは角のようなものが飛び出していたので正確には人物ではなかった。女性らしい顔つきと刻まれた深い皺からは妙齢である事が見て取れる。  妖とはいえ、自分の今の発言に居心地悪くする立花だったが、その女性は特段何とも思っていない様子で茜に語りかけていた。  「馬鹿言っちゃいけないよ。どこの世界にアンダーランドに来てまでオムライスを食べようとする輩がいるんだい。これはあくまで宝生卵飯としてこの地に根付かせるんだ。別に素材はここのものだし、嘘はついていないさ」  どうやら茜の入れ知恵だったらしい。それなら見た目も変えなければ意味がいないと立花は思うが、女性は「そうかねえ」と納得したように息を吐いた。  「でも、茜さんには助かってるよ。こうしてお客さん連れてきてくれるんだから」  なるほど、やけに辺鄙な所に連れてこられたと思ったが、この二人はグルだったようだ。無言の非難とばかりに茜を睨むが、本人はそしらぬ顔だ。  「なあに、女将さんの新たな船出なんだから、これくらいは当然さ」  「・・・・・・?」  憤慨したことも忘れて、立花は小首を傾げる。  新たな船出? 船出とは何だ。いったい彼は何を言っている?  浮かんだ疑問は、女性がカウンターに飾られた写真を見た事で氷解する事になる。  カウンターの隅に目立たないように置かれていたのは、まだ皺の少ない女性の姿と、快活に笑う角を生やした少年だった。  自ずと手を止めた立花に、女性はどことなく瞳を潤ませながらも微笑む。  「あれからもう十年かい。塞ぎ込んでばっかだったけど、いつまでも情けない顔してちゃ、土の下で会った時に笑われるからね」  「ああ、そうだね。そうに違いない」  茜は多く語らなかったが、立花は多くを理解する事ができた。いや、してしまった。  つまり、この写真の少年の時は既に止まっているという事。  そして自分は死に救いを求めたが、彼女は生に救いを求めているという事だ。  「・・・・・・」  立花は「頂きます」と低い声で手を合わせ、料理に手を付けた。  スプーンで卵の層をすくうと簡単に裂け目ができる。ケチャップと一緒に痛められたであろうライスが姿を見せた。湯気に乗せられてトマトの香りが一層強く鼻をくすぐってくる。本当に罪な香りだ。立花はそれを口の中に思い切り放り込む。  まるで何かから逃げるように、思い切り口の中に放り込んだ。  最初に感じたのは、濃縮された旨味だ。しっかり味の染みた米と、甘みのある黄卵。それに酸味の程よく効いたケチャップが口の中で忙しく辛み、混ざり合い、すぐに一つの旨味を作り上げる。隠し味にバターを使っているのだろうか。噛めば噛むほど味が舌全体に広がっていって、そこからはもう言葉はいらなかった。  美味しい。美味しいと言う感情は、正に生きている実感そのものだ。そんな当たり前の事に今更気付いている自分が居る。  だが当たり前の事を当たり前に思えるこそ、生きているという事なのだ。  ああ、こんな事知りたくなかった。  「ーーどうだい?」  俯いていると、女性がカウンターに身を乗り出すように聞いてくる。  「・・・・・・うまい」  湿った声で呟く立花に、「良かった」と温度のある返事が返ってきた。
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