一歩ずつ、前へ、前へ

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  それからどれほど走っただろうか。  「ーーはあ、はあ」  肺から呼吸という呼吸が全て消えそうになった所で、立花はようやく立ち止まる。  薄暗い路地裏だった。既に人も妖の気配さえも消えて、表の通りからは喧噪が空しく聞こえてくる。生ごみの嫌な匂いがつうんと鼻を刺激した。  流石にここまで追ってこないだろう。立花がほっと一息ついていると、通りの方から「おい」と低い声が投げかけられる。  「ーーお前、人間、か?」  声の主は、妖だった。自分の身の丈を優に越す巨躯に、は虫類のようなぎょろりとした瞳にごつごつした岩石の肌。舌の先端は二手に分かれている。  しまった、と立花の体から血の気が引く。違式から逃げ切った事ですっかり安心してしまっていたがここは妖の街、周囲は敵だらけなのだ。  助けを求めようにも、通りまでは距離があるし、何よりこの大男が防いでいる。  怯える立花を余所に、大男は立花にバスケットボールほどの大きさの手を近づけ、  「何か、困ってるのか?」  そっと、掌を伸ばした。  身構えていた立花が固まっていると、大男は「言葉は合ってるはずだが・・・・・・」と困惑したように首を傾げる。  「道に迷ったか? 場所さえ教えてくれれば案内する。何なら警察も呼ぶが・・・・・・」  立花は意図を計りかねていたが、は虫類のような目は歪であるが邪気は無い。何より本当に自分を貶めようとするなら警察を呼ぶかなどとは言わないだろう。  つまり、これは彼の心の底からの本心だ。  自分は今、案じられていた。  「ーーっ!」  その事実に気付いた立花は、反射的に彼の手をぱしんと振り解いた。大男は驚いた様子だったが立花にそれを気にする余裕は無い。そのまま何かから逃げるように通りを後にした。  「はあっ、はあっ」  賑やかな通りを息を切らしながら走る。ぐちゃぐちゃな内心の自分とは違い、周囲の妖は陽気に笑っている。喧噪の中には時折人の言葉も混じっていて、自分一人だけが輪から外れたようだった。  「はっ、はっ」  ここに来る前までは、思い知らしめてやろうと思っていた。  所詮妖は妖、人間とは違う存在だと。奴らは過去を顧みること無く、責任を放棄し今も地下でのうのうと暮らしているのだと。だから自分が思い知らしめてやろうと。  しかし、違った。彼らは自分達と何一つ変わらなかった。あの料亭の女性のように前を向こうとする者もいれば、違式のようにどす黒い感情を胸に秘める者もいる。  そして先程の大男のように、誰かを案じる心を持っている者もいる。  その多様性があまりにも自分たちと一緒で、立花は耐えられなかった。  こんな事など気付きたくなかった。自分はずっと復讐をする為だけに生きてきた。こんな事を知った以上、これから自分は誰に刃を向ければいい?  これから、自分はどうすればいいのだ。  「はあっ・・・・・・」  今度こそ立花はその場に膝をついた。頭がぐらぐらする。既に汗も出ない。意識が体を追い越していた事実に愕然としながら、立花は空を見上げる。  視界には、満開の桜の木ーーいや常世花が広がっていた。
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