第二章 ー移ろうは恋心ー

5/6
前へ
/100ページ
次へ
 その仰々しい名前の割に彼を知る者が少ないのは、事務所がこのような辺鄙な所にあるからだろう。ただ当の本人は意に介さず電話の主とけたけた笑い合っている。  「まあ、またそちらに赴く事があったら寄らせて貰うよ。奥さんにも宜しく」  受話器を降ろすと、ふいに背後から気配を感じた。気配の主は振り返らずとも分かる。そもそもこの事務所にいるのは茜以外に一人しかいない。  「・・・・・・何だいそんな恨めしそうに人の背後に立って。それじゃあ妖じゃなくて幽霊だよ」  雑賀、と茜はおっかなびっくり彼女に呼びかける。が彼女は能面のように唇を結んだままだ。  和装に身を包んだ、純白を体現したかのような黒髪の少女。  はっきりとした鼻梁に二重がちの柔和な瞼は、街で見かけてしまえば思わず足を止めてしまうほど魅力的だ。こちらは茜とは違い何もしなくても笑っているように見える優しげな顔立ちだが、今はわかりやすく怒気を孕みながら茜を見下ろしていた。  「恨めしそうじゃなくて恨めしいんです、茜さん」  何をと茜は目を潜めるが、それは潜めたふりだ。本心ではその殺意の正体が何であるか充分理解していた。茜はゆっくりと机の上に置かれたソレを雑賀の死角へ隠そうとする。  しかし正にその所作の最中、雑賀の手が茜の腕をがっしりと掴んだ。  ぐ、と茜は歯を食いしばる。流石はアンダーランド最奥の地、草木も咲かぬほどの極寒の地で暮らす雪童一族の末裔だ。その動体視力も腕力も茜を軽く凌駕している。  「・・・・・・茜さん。やっぱり」  雑賀は頭部に生えた耳をぴくぴくしながら低い声を出す。こういう時は大抵怒っている時だ。  「・・・・・・雑賀、これは違うんだ、これは」  「まあああたカルピス飲んるんですかっ?」  その端正な顔立ちを歪めながら雑賀は茜を睨んだ。  そう、茜の手には飲みかけのカルピスのボトルが握られていたのだ。  「高いんですからカルピスは一週間に一本までって言ってたじゃないですか! なーにパカパカパカパカ飲んですかっ! ただでさえ今月は店の売上落ちているのにっ!」  「だって美味しいから仕方ないだろう! 雑賀も飲めば解る!」  「そういう話をしてるんじゃないですっ!」  日頃おしとやかな雑賀が激昂するのも無理は無い。何せカルピスでは3000マルク。日本円にしておおよそ1000円であり、そもそもこの地では1500円で三日分の食料が買えるのでその価値は額面より遙かに高い。  茜だってそれくらい理解していた。だが止まらないのだ。この独特な甘みと、ほんの僅かの酸味、極めつけは爽やかなのど越しだ。こんなもの嵌まらない方が可笑しい。  しかし、今の雑賀にはそんな道理は通らないだろう。家計を管理するのは雑賀の仕事なので彼女も本気だ。ああ、そろそろ腕の感覚が無くなってきた。  どうしようか。このままでは折られる危険性だって出てきている。  茜が焦燥するのと、事務所の入口の扉が開くのは同時だった。  「・・・・・・?」  思わず音の方を見る。今日は仕事の依頼の予定は無いはずだが。飛び込みの客だろうか。  「ーー本当にあった。立地最悪なんですけど」  うげえと言いながら入ってきたのは、予想に反して年端もいかない少女だった。
/100ページ

最初のコメントを投稿しよう!

38人が本棚に入れています
本棚に追加