第一章 ーふたつの爪跡ー

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 「境界中央駅専用昇降機、凌雲閣」  ほんの少し見とれていると、茜が学生帽を目深に被り直す。  「普段は渋滞必須の代物なんだけど、運が良かったねえ立花さん。あたしたちはすぐにそこにいける」  底だけにね、と茜が軽口を叩いた直後、重厚な昇降機の扉が開いた。  荒々しい外見とは違い、内部は高級デパートのエレベーターのように洗練されている。入口には検閲と思われるスーツに身を包んだスタッフが立っていた。  軽く言葉を交わし中に乗り込むと、頭上のディスプレイに『ようこそ東京アンダーランドへ』と柔らかなフォントで表示が入った。よく見ると壁の右端に見慣れた企業のロゴが貼ってある。  見た目からは想像つかなかったが、どうやらこの建築物は日本製のようらしい。  まあ、大崩落の後に地上と地下を繋いだものなのだから当たり前か。手品のタネを見たような肩すかしの気分でいると、凌雲閣の扉が音を立てて閉まった。  すぐに体に上向きの慣性がかかる感触。どうやら下へと進み始めたらしい。  『ーー本日は、凌雲閣をご利用頂き有り難うございます』  無言でガラス張りの窓から外を眺めていると、室内にアナウンスの声が響いた。  『到着までの短い間、東京アンダーランドの歴史についてお話させて頂きます』  モニターには教育番組にでも出てきそうな特徴の無いアニメーションが映る。  『かつて、この世界は二つに分かれていました。人間が暮らす地上の世界と、妖が暮らす地下の世界です。それぞれは互いに異なる文明、文化を持ち、互いに正体を明かす事無く生活していました』  ほんの僅かに空気が重い気がする。恐らく地下へと進む気圧の変化からだろう。  『しかし大正十二年に起きた関東大震災により、一部の地盤が崩壊。そこから地上の文明が地下へと紛れ込みました。これらは現在の東京アンダーランドの建築や服装に大きな影響を与える事となります』  なるほど、と立花はあいづちを打つ。何故彼らがどこか浮き世離れした様相なのかこれで説明がついた。確かに彼らの着る服は大正時台付近の書生や女学生を思わせる。そもそも凌雲閣自体が関東地震で倒壊した建物の名前だ。  この場所には、やはりかつての日本の文化が根付いていた。  『そして十年前、皆様もご存じの通り悲しい震災がありました。地上と地下を隔てる地盤は崩落。渋谷区と新宿区をまたぐ巨大な空間は東京アンダーランドと呼ばれるようになり、現在は人間と妖が手を取り合う街として、著しい復興を迎えています』  「・・・・・・ふん、何が手を取り合う、だ」  アナウンスに思わず声に出して毒づくと、隣の茜が透明な目をこちらに向ける。  「そういや、立花さんは大手化学メーカーの部長だとか」  「ああ、それがどうかしたのか?」  「いんや、そんな偉い人がこんな所に何の用かなと。確かにこの所観光や何かで人の入りは増えてはいるが、あんたみたいな一人のお客さんは珍しいもんさ」  「・・・・・・」  問いかけに、過去の記憶が脳裏に過ぎる。  それはどこにでもある、笑い声の絶えない平凡な家庭の記憶だった。  当たり前のように子供を育て、当たり前のように食卓を囲み、当たり前のように家計をやり繰りし、当たり前のように悩みを抱え、それでも日々賢明に生きていく家族との記憶。記憶の中で立花はいつも口うるさく、しかし笑っていた。  今の自分は、どうだ。最後に笑ったのはいつ以来だろうか。振り返っても思い出せないし、無理して思い出そうとも思わなかった。  「ーーどうかしたかい?」  茜の問いかけで、ようやく立花は意識をこちらに戻す。  「いや、何でも無い。目的はただの観光、それ以上でも以下でも無い」  色々な感情を煙に巻いて、立花は多くを語らなかった。
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