晴夏

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 気持ちの良い春が終わって、蒸し暑い夏が始まろうとしていた今日この頃、A大学大学院、佐伯研究室では、先週出された共同研究の課題のために、今年入ったばかりの修士一年生が、週に一回、金曜日の午前9時に集まることになっていた。いつもより一本早い電車に乗ることができた瀬崎蒼(せざきあおい)は、おそらく自分が一番乗りだろうと、研究室の扉を開けると、 「おっはよー!」  と、やけにテンションの高い大きな声が耳に入った。人の姿が急に視界に入ったこともあって、 「うわあ! ――なになに!」  と、顔の前に手を上げて、大げさに腰が引けてしまった。その様子を見て、ケラケラと笑う声が聞こえる。 「なんだ、晴夏か。……やめてよ怖いから」 「あはは、サプライズ成功!」  そう言ってニコッと笑いかけてくる彼女は、藤崎晴夏(ふじさきはるか)だ。その名前のとおり、性格は晴れた夏のように、底抜けに明るい。明るすぎて、うっとうしいくらいだ。 「そんなサプライズいらないって。……ったく、心臓に悪そう」 「あはは! 蒼くん、言ってることおじいちゃんみたい。ウケる」 「は?! なんだよそれ。俺まだ23だし!」  ホント――? 年齢詐称してるんじゃない?と下から顔を見上げるようにして言ってくる。そのニヤッとした顔つきが、妙に蒼の腹の虫に触った。しかし――、 「あ、翔! おはよー!」  と、晴夏はすぐにどこかに行ってしまう。 「おっす、おはよ。お前ら電車通学にしてはやたら早いな」 やって来たのは、鶴来翔(つるぎかける)。 「うん、なんか5時くらいに目が覚めちゃって」 「はっや! もはやおばあちゃんじゃん」 「えー、それはひどーい! まだ23だし!」 「外見だけはな」  翔のバカー!とかなんとか言う二人の騒ぐ声が聞こえる。いつもどおりの光景だが、遠くから見ていて、いつも蒼は少しじれったい気持ちになるのだ。近くにいると、やかましいのに、遠くにいると、寂しい。もっと晴夏としゃべっていたい……その思いが何なのか、もちろん蒼は気づいていたが、その気持ちを本人に伝えるには、まだコミュニケーションが足りない気がした。  未だわあわあと騒ぐ二人を制したのは、今来たところの牧村美紀(まきむらみき)だった。 「またやってる……。朝っぱらからよくやるわね。見ているこっちが夏バテしてきそう……」 「あ、美紀! おはよー」  と、晴夏が大げさに手を振った。美紀はそれに軽く手を振り返して、 「はいはい、おはよー」  と、だるそうに返事を返した。そして、あっつ、と言いながらポケットから取り出した花柄のハンカチで汗を拭く。頭から出てきた小粒の汗がツーッと頬に流れている。そこへ晴夏がやって来て、雲一つない空に浮かぶ太陽のような笑顔で、 「美紀って、意外と汗っかき?」  と言った。瞬時、場面は南極の氷のごとく凍てついて、伏せ目がちとなった美紀の目には、狂気の炎が血走った。さすがにこれはまずいと、脳天気な晴夏も察したのか、慌ててフォローするように、 「あ、ははは……。そりゃ、そうだよね。今日いつもよりめっちゃ暑いし……。あ、あたしも来る時とか汗ダラダラだったなあ! ……ははは」  と、それこそ冷や汗を頬に垂らしながら、必死に弁解をした。すると美紀は、呆れたようにはあーとため息をついて、 「もう、いいわ。みんな集まってるみたいだし、……さっさと課題やりましょ」 「そ、そうだよね! 時間、もったいなしね。……ふ、二人ともー、早く集まってやろ――!」  翔と蒼は顔を向かい合わせてクスクス笑いながら、二人のところに近づいた。蒼は、地雷踏んで慌ててる晴夏が新鮮で、何かいいものを見たような気がした。  
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