第二幕 前編【一】

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第二幕 前編【一】

 早いもので、幹と交際を始めて約二年が過ぎた。交際は順調――というか、変わりない。二年もたてば気持ちが色あせてくるころかと思ったが、幹は相変わらず気持ちを示してくれるし、百合子もまた彼への愛しさは変わらなかった。  百合子は、ちらっと隣を歩く幹を見上げる。  デート帰り、いつものように自宅まで送ってくれる途中だった。季節は春だ。幹も大学四年になったばかりで、これまでよりも多忙な日々を過ごしている。 (もう二十二歳か。……私は、三十二歳か。いい歳だよねぇ)  同年代の友人たちは結婚して子どももいる者が多い。それは別に構わない。自分は自分だと思っているから。  心配なのは、幹より自分が先に老けてしまうことだ。  嫌われるのが怖い――など初めてのことで、百合子自身、自分の気持ちに戸惑いがあった。 「あの、佐久間さん」 「うん?」 「俺、あと少しで就職活動が忙しくなるんです。だからそれまでにバイトを沢山いれておこうと思うんですが」 「そっか、そうだね。体調崩さないようにね」  あまり会えなくなるのは寂しいけれど、と思いながら微笑んで告げると、幹はふいに足を止めた。自然と百合子の足も止まる。 「幹くん?」 「佐久間さんも、仕事を探し始めてるんですよね」 「ああ、そうだよ。もうバイトも二年経って、ベテランに入ってきたから。コンビニのバイトって入れ替わり激しいんだね」  笑って告げるけれど、幹は俯いてしまう。何か気に障るようなことを言ってしまったのか、と焦るけれど、覗き込もうとした瞬間に幹が顔をあげる。何か決意のようなものが感じられる表情だ。 「俺じゃ、頼りないですか」 「……え?」  幹はまた、黙り込む。  幹が頼りないなんてことはないのだが、彼になぜそう思わせてしまったのか理由を探す。けれどその理由を探り当てる前に、幹の大きな手が百合子の両肩に置かれた。  彼は決意したことを告げるとき、こうして肩に手を置く癖があるらしい。なので、百合子はやや身構えた。何を言われるのだろう。 (まさか、少し距離を置こう……とかじゃ)  だとしたら、その場で泣いてしまうかもしれない。握り締めた自分の拳に力を込めて、ぐっと幹を見つめ返した。 「佐久間さん」 「なに?」 「俺と結婚しましょう」  目をぱちくりさせた。  いきなり過ぎて、思考が吹っ飛ぶ。けれど、じっと百合子を見つめる幹の視線が真剣で、かなり緊張していることは手の震えから伝わってくる。  じわじわと喜びが上がってきて、嫌われたかもという焦りからの逆転ホームランな現状に、百合子はいつの間にか強張っていた身体から力を抜いた。 「うん、ぜひお願いします」  幹もまた表情を和らげた。手の震えが止まり、そっと百合子を自分の胸に抱き寄せる。 「よかった。ありがとうございます」 「こちらこそ」 「勿論結婚は、俺が仕事をこなせるようになって、男として自立してからで大丈夫です。いい会社に就職してばりばり働いて頑張りますから」  真面目な幹の言葉に、百合子は苦笑した。 「頑張りは必要だろうけどさ、無理はしなくていいよ」 「……え?」 「別に贅沢がしたいわけじゃないから。幹くんと一緒にささやかに暮らせれば嬉しいからさ。仕事も、そりゃ最初の数カ月はしんどいだろうしなれるまでやるべきだと思うよ。でも、一年経っても辛いままだったら合ってないのかもしれないし、無理にばりばり働くこともないよ」  幹はむっとした表情をした。相変わらず無表情に近いので、彼と親しい者でないとこの変化はわからないだろう。 「俺は頑張ります」 「なら、私は全力で支えたいな」  幹は嬉しそうに微笑んだ。  なんとなくだが、幹は百合子を養いたいのではないかと思った。百合子が仕事を探すのにあまりよい反応を示さないし、なのに幹自身は就職活動に激しく力を入れているようだ。正直、生活費を稼ぐのはどちらでもいいと思うし、カネは大事だけど生活ができる程度あればいいと思う。  けれど、こうして百合子を養おうとしてくれる幹が恰好よくて愛おしいと思ってしまう。こういうとき、やはり幹が好きだと自覚する。 「それで、ですね。俺、就職したら実家を出て一人暮らしをしようと思うんです。そしたら、あの、一緒に暮らしませんか」 「一緒に? 私も?」 「はい。……実家を出たくないですか」  しゅん、とした様子を見せる幹に、百合子は慌てて首を横にふる。 「ううん、私も一緒に居たいからすごく嬉しい」  幹は、珍しく破顔した。  無表情な彼がこうしてわかりやすいほどに笑うと、子どもっぽく見える。  肩に添えられたままだった手が、百合子の背中に回された。優しく、けれども力強く抱しめられる。 「俺、色々と頑張りますから待っててくださいね」 (……色々と?)  なんだろう、色々というのは。  そんな疑問は、幹にキスをされた瞬間に霧散した。優しく熱いキスを受け入れながら、百合子は喜びを噛みしめる。  もともと幹は結婚したいと言ってくれていたけれど、それが現実味を帯びてきたのだ。勿論結婚がすべてとは言わないし、終着点でもないと思う。  それでもやはり、憧れがある。  幸せになりたい。けれどそれ以上に、幹を幸せにしたい。  百合子は、そう思った。  帰宅した幹は、玄関のドアを開いたところに見慣れない靴があることに気づいた。男物の黒い靴で、見覚えこそないがこれが誰のものかは容易に想像ができる。  リビングの電気がついていたので、そっと覗き込むようにリビングへ入ると、向かい合わせのソファに兄である秀一が座っていた。  目の前にはウイスキーのボトルと、氷の入ったグラスがある。まだ飲んではいないようで、グラスには酒が入っていなかった。秀一はそのグラスをじっと見つめていたようだが、幹に気づくと顔をあげ、破顔した。 「おかえり、浩二」 「ただいま。何かあった?」 「いや、何も。いきなりどうしたんだ」 「兄さんが実家に戻ってくるなんて、珍しいから」  そう言いながら、秀一の目の前にあるソファに座る。秀一はグラスを差し出し「飲むか?」と告げたがそれをやんわりと断った。 「まぁ、去年まで海外勤務だったからな。俺が借りてるマンションも実家から左程遠くないし、たまには顔を出すさ」  ならば実家から通えばいいのに。そう思ったが口には出さなかった。この家は息がつまる。幹がそう感じているのだから、秀一もまた同じ考えを持っていてもおかしくはないだろう。  秀一はグラスを持ち、またそれをじっと見つめる。どうやらウイスキーを開ける気はないようだ。何をしているのか気になったが、それを問うより秀一に聞いて貰いたいことがある。秀一はいつだって、幹の味方だった。両親に怒られたときも庇ってくれて、出来ないことなどないのではと思うほどに、よくできた人だ。  幹の目標であり、憧れの男性像でもある。 「兄さん、聞いてほしいことがあるんだ」  幹の真剣さを感じ取ったのか、秀一は持っていたグラスを置いた。膝のうえで手を組んで、前傾姿勢を取る。 「なんだ、相談か」 「うん。俺さ、結婚したいんだ」  さすがに秀一は驚いた顔をした。幹は百合子のことを話す。就職したら一人暮らしをして一緒に暮らしたいこと、仕事が安定してきたら入籍をしたいこと、などを。  黙って聞き終えた秀一は、考え込むように黙り込んだ。  ややのち、口をひらく。 「そのことは、父さんたちには言ったのか」 「言ってない」 「だろうな、反対するに決まってる」  秀一はため息をついて、幹を見た。 「いきなり同棲するのもどうだろうな。お前今までずっと実家暮らしだっただろう」 「それは」 「……予行練習として、うちで暮らしてみたらどうだ?」  え、と幹は目を見張る。 「うち、って兄さんのマンションってこと?」 「ああ。勿論、その彼女も一緒に」 「……え?」 「疑似体験だよ。もしお前たちがうまくやれそうなら、俺も一緒に両親を説得してやる」 「つまり、兄さんも今は俺の結婚に反対ってこと?」 「まぁな。正直に言うが、お前は純粋だから騙されているのかもしれないと思ってる。うちはそれなりに名家だし、資産もある」 「佐久間さんはそんな人じゃっ」 「なら、それを俺に証明してくれ。俺さえ説得できないようじゃ、父さんたちを説得するなんて到底無理だ。まさか無理なら駆け落ち同然で家を出るとか言い出すんじゃないだろうな」  幹は身体を強張らせた。実際、もし反対されたらそのつもりでいたから。だから、もし就職するのなら両親が介入できない企業に就職しようと思っている。兄は両親が望んだまま、ツテを辿って我が家に所縁ある企業に就職したけれど。  幹の様子を見て、秀一は眉をひそめた。 「本気で相手が好きなら親くらい説得させろ。結婚したら色々と大変だろう、頼れる家族が他にいる安心感を彼女に与えてやれ。何より、相手の親に認めらないままっていうのは、相手の女性にとってかなりの枷になるんじゃないか」  幹は、ぐっと顔をあげた。確かにその通りだ。百合子だけいればいい、そんな単純な考えでは駄目なのだ。百合子のためにも、やはり両親に認めてもらう必要がある。  幹は、わかった、と頷いた。  その日、自室に戻ってから百合子にメールした。深夜だったから返事は明日を期待したけれど、すぐに返事がきたので、近々会いたいと伝える。  明後日に会うことになった。  そのときに、幹の現状について正直に話すつもりだ。けれど、本当にこれでいいのだろうか。秀一の家で暮らすという案は正直あまり乗り気ではないが、堅物の両親を説得するには、両親が猫可愛がりしている秀一の力は必要不可欠だ。  両親にとって、秀一は自慢の息子だ。そして幹自身もまた都合のいい子どもなのだろう。いずれ、兄のように婚約者を無理やり決められることになるだろうから、それまでに恋人がいることを伝えたい――そして、認めてもらうのだ。  幹は、決意を新たにした。  *  百合子は、緊張を和らげるために深呼吸をした。  隣で一緒に電車に揺られている幹を見ると、視線が合う。 「緊張してますか」 「うん、かなり」 「大丈夫ですよ、兄は温和な人なので。よくできた人ですし、無茶なことは言いません。真っ当で公正な判断のできる人です」  その幹の言葉がまたプレッシャーになるのだが、彼は気づいていないようだ。幹は百合子が「素晴らしい女性」だと信じて疑っていないから。二年も傍にいれば、いい加減百合子の馬鹿さ加減などが見えてくるはずなのに、そんなところも「可愛い」だの「素敵」だの言ってくれる。  百合子は、胸中でため息をつきつつ電車の床を見つめた。土曜日の午前中だからか、電車内にいるのは私服姿の人たちが多い。これからどこかへ遊びに行くのだろう。  幹から、事情は聞いた。  結婚するにあたり、両親を説得したい旨を。そしてそのために、兄である秀一に認めてもらう必要があることを。そのために、しばらく秀一のマンションで一緒に暮らしてほしいとのことだった。  百合子の両親には、彼氏としばらく暮らすことにしたとした言っていない。恋愛面では放任主義ゆえに詳しく聞かれなかったことが幸いか。  電車を降りて徒歩十五分ほどで、そのマンションがあった。  百合子が首が痛くなるほどに、その高層マンションを見上げる。降りた駅が大型ショッピングモールと隣接している巨大な駅で、それだけでもこの辺りが都会であることを示している。  ×〇市については都会だとは聞いていたが、自宅から通っていた学校たちと正反対の電車に乗る必要があったため、来たことがなかった。何か用事があれば近所の繁華街で充分だったから――と思ったが、実際に来てみると地元が田舎に思えてくる。 「なんか、すごく大きいマンションだね」 「そうですね。でも、兄の部屋は八階なので」  大したことがない、みたいな言い方に、価値観の違いを知らされる。こんな場所に住んでいるだけで、百合子にとっては別次元の人間だ。  やたら高度なセキュリティを過ぎて、なぜか噴水まである広すぎる一回のエントランスホールを通過し、エレベーターで八階へ向かう。 「兄さんが、元々一人暮らしの予定で借りた部屋なんです。だから少し狭いんですが、我慢してくださいね。すみません」 「全然大丈夫、むしろお兄さんの邪魔にならないか心配で」 「そこは大丈夫です、兄から言い出したことなので」  そう言って案内されたのは八階の突き当り、角部屋だった。しかも、聞いたところによると3LDKだという。一人暮らしで3LDKを借りる意味が百合子にはわからない。本気でわからない。  幹はカードキーと暗証番号でドアを開き、中へ入った。広い玄関で靴を脱ぎ、百合子に手を差し出す。その手を借りて靴を脱ぎ、「おじゃまします」と告げて上がった。  最初に通されたのは、リビングだった。  畳二十畳ほどだろうか。ダイニングキッチンもひと繋がりになっているそこは、モノが少ないこともあって広々と解放感があった。  食卓用の机と、リビング側には大型の薄いテレビ。そのテレビの向かい側に柔らかそうなソファと背の低い机があり、足元には見るからにふわふわと柔らかそうな絨毯が敷いてあった。  そのソファに、背の高い男が座っていた。体躯はほっそりとしており、柔和に微笑む顔は驚くほど整っている。精悍さが勝る幹と違い、美男子と呼ぶにふさわしい外見をしていた。知的さがにじみ出ており、存在感のオーラがすごい……俳優にいそうだ。 「紹介します。兄の秀一です。兄さん、彼女が佐久間百合子さん。俺の彼女」  秀一、と紹介された男は立ち上がると、百合子の前まで来て微笑んだ。 「弟がお世話になっています。どうぞ、しばらくの間、宜しくお願いしますね、百合子さん」 「こちらこそよろしくお願いします」  頭をさげると、秀一は朗らかに微笑み、幹を見た。 「部屋へ案内してあげるといい。風呂場とかもな」 「うん。佐久間さん、こっちです」 「あ、うん」  幹についてリビングを出てから、ほっと力を抜く。とりあえずは温和そうな人で安心した。ねちねち虐めてくる小姑みたいな人だったらどうしようかと思ったけれど。  百合子の部屋は、一番奥の部屋だった。結構広く、十畳ほどだろうか。何もない部屋だが、ベッドだけ置いてある。 「一応ベッドだけ準備しました」 「わざわざありがとう」 「他に必要なものがあれば持ち込んでくださいね。生き物以外ならなんでも。足りないものは一緒に買いにいってもいいですし」 「うん」 「佐久間さん、もし辛いことがあったら……言ってくださいね」  幹はなぜか俯いたまま呟くように言った。  自分では頼りないとでも思っているのだろうか。その言葉が、どれほど百合子の心を軽くして、喜びを与えてくれるか知らないのだろう。  ありがとう、と告げた。  そして、秀一に自分を認めてもらうまで頑張ろうと決めた。  諸々の準備を終え、秀一のマンションへ引っ越した百合子の生活一日目。  バイト先までやや距離があるので、朝早めにマンションを出てバイトを終え、スーパーで食材を買って帰宅する。  食事の準備に関しては、特に百合子がやらねばならないというわけではないが、今夜は百合子がやると自分から立候補した。  作ったのは、サバの塩焼きをメインにほうれん草のおひたし、ナスの焼きツユ浸しなどの和食だ。  今日は予定のなかった幹はずっと家で百合子の帰宅を待ってくれていたらしく、調理中、始終百合子の周辺をうろうろしていた。何かするたびに、「それなんですか」「何作ってるんですか」と問われ、それに答えるという一連のやりとりが楽しい。 「俺、佐久間さんの手料理食べたかったんです」  大体のおかずが完成したとき、幹が言った。そういえば手料理を振る舞ったことがなかったと思い至る。 「今日は兄の帰りも早いので、三人で食べましょうね。俺、明日は朝から大学なんで、少し寂しいですが」 「大変な時期だよね。卒業論文に就職活動に。正直、あまり会えなくなるだろうから寂しいなって思ってたけど、こうして一緒に暮らしてると家で顔を合わせられるから、嬉しいな。でも、幹くんは頑張りすぎるところあるから、あんまり無茶は――」  唐突に抱きしめられて、頭に頬を摺り寄せられる。 「俺も嬉しいです」  そっと幹の背中に手を回して、胸に顔を埋めた。すっぽりと身体全体を覆われるように抱きしめられると、とても安心する。同時にほくほくと胸が暖かくなって、このまま離れたくないと思ってしまう。  その後、夜中の九時過ぎごろに秀一が帰宅した。  今の時期は新入社員の指導以外はあまり多忙ではないらしく、帰宅が早いとのことだった。昨年まで海外赴任だったというので、なんの仕事か気になったがなんとなく聞くのも憚られた。余程の大手会社か、貿易関係か。そんなことを考えつつも、機会があれば幹か秀一本人に聞いてみようと思う。  夕食の席は、和気あいあいと進んだ。  幹は瞳を輝かせんばかりに喜んで食べてくれたし、秀一も美味しいと言って全部食べてくれた。  けれど。なんとなく秀一の言葉は社交辞令じみていて、どうも本気で言っているようには思えない。百合子も社交辞令の笑みでお礼を告げた。  幹の翌朝が早いので、引っ越してから一日目の夜は百合子も早く眠った。秀一は明日休みゆえに、夜中までリビングで映画を見るらしい。  寝る準備をして布団に入った百合子は、メールの着信音に顔をあげ、携帯を確認した。  幹から、「おやすみなさい」とメールが入っており、思わず壁を見る。この向こうにいる幹からメールがくると、なんとなく不思議な感じがした。  というか、部屋に入る前、お互いに「おやすみ」と挨拶をしたはずなのに、と苦笑する。わざわざメールを入れてくれるのは、毎日メールをしていた習慣だろうか。  おやすみ、と返事を打ってから、そっと実際に「おやすみ」と呟いた。
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