序章

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序章

 ××市は、それなりに都会だが、百合子の暮らす××地区はアパートが乱立する古めかしい一角だった。父がここに一軒家を購入し、暮らし始めたのは百合子が生まれたすぐあとで。  最寄り駅まで徒歩で三十分。  最寄り駅付近にはそれなりに賑わう繁華街もあり、そこまで行かなくてもコンビニや簡易郵便局、図書館、、小学校などが徒歩圏内にあるため、暮らしやすさは充分だった。  百合子は今年大学二年になった。二十歳の誕生日を迎えたのは、つい先日で、家族や恋人から祝ってもらったときは大人になったような気がしたけれど、何が変わるということもなく、相変わらずバイトと大学、それらを中心に世界は回っている。  百合子はその日、午前中の授業を終えたのち、友人と軽く遊び、帰宅する途中だった。時間は午後四時過ぎ。まだ遊べる時間だったが、友人がこのあとバイトなので、仕方なく百合子も帰宅することになった。 (帰ったら、資格の勉強でもするかなぁ)  特別に必要な資格がある、というわけではないが、基本的なパソコン関係と英検、漢検、秘書検定や宅建などは持っておいてもいいだろうと、暇な時間に勉強をしていた。  友人の多くは色恋ごとに夢中だけれど、百合子はあまり興味がない。恋人もいるし、いつか普通に結婚して家庭を持てればいい、くらいのささやかな望みはあるけれど。  ふと、帰路の途中で、小学生が俯いて立ち止まっていることに気づいた。黒いランドセルを背負っているから、男の子だろう。  背は高めということもあって、後姿から受ける印象からしても、小学校高学年だろうと見当をつける。  百合子は少年の元へ行くと、そっと聞いた。 「具合悪いの?」  振り向いた少年は、端正な顔立ちをしていた。この年頃だと男女見分けがつかないときもあるけれど、この少年の外見の端正さは、男性のそれだ。背も高いし、学校ではさぞモテるだろう。  けれど、少年は今、目に涙をためている。余程具合が悪いのか、と思ったのは一瞬で、彼の両手が股間を抑えていることに気づき、なぜ涙ぐんでいるのか察する。 「トイレ行きたいの?」  少年は恥ずかしそうに頷くと、「近くにトイレはないですか」と問うてきた。この辺りに住んでいる子ではないのかもしれない。衣類も、改めてみると上等なものを着ている。 「この先に公園があるから、そこの公衆トイレが使えるよ。……あまり綺麗じゃないけど。案内してあげるよ」  そう言って歩き出した百合子のあとを、少年は雨に濡れた子犬のようにぷるぷると震えながら、ついてくる。歩調がかなりゆっくりなことから、限界が近いだろうと思った。 (抱きかかえてダッシュする、とか。……でも、あまり揺らすとまずいよね)  男の子ならその辺でしてもいいんじゃないか、と下品な考えもよぎったが、この辺りは左右に住宅街が並んでおり、いわゆる立ちションをするとなると、犬のように電柱にひっかけるしかない。木々も茂みもないこの辺りでするには、恥ずかしいだろう。……いいところの坊ちゃん、のようだし。  公園が見えてきて、百合子は少年を振り返った。 「あ、あそこだよ。もう少しだから、頑張って」 「……は、はい」  両手で股間を揉みながら、それでも確実に一歩ずつ歩く少年を見てほっとする。これなら間に合いそうだ。小学校高学年なら百合子から見ればまだまだ幼いけれど、当時の自分は大人な気分だった。低学年の後輩を持つ立場だからかもしれない。そんな当時の自分が漏らしたら、きっと恥ずかしくて泣いてしまうだろう。  この子も、きっと辛い思いをするはずだ。生涯忘れられない傷になる可能性もある。  公園内に入ると、遠くの砂場で遊ぶ幼児の姿があった。ブランコの近くで、親だろう女性たちが集まって談笑している。  そんな彼女たちを遠くに見つめ、ふと思う。 (いつか私も、あんなふうに子どもを持つのかな)  幸せな家庭を築けたらいい。百合子の両親のように。 「あっ」  ふと、少年の小さな叫び声が聞こえて、ぎょっとして振り返る。  彼の抑えている股間から、ぽた、と液体がこぼれた。 「だ、大丈夫?」 「ち、ちびっ、ちゃっ」 「大丈夫、まだ間に合うよ。落ち着いて。もうすぐそこだから。ほら、トイレは入口に近い場所にあるし、間に合うよ」  百合子が指さした先は、本当にすぐそこ。ここから十メートルほど先に二段ほどの段差があり、その奥にひっそりと佇む公衆便所だ。周囲を草木が囲っており、見た目通りあまり綺麗ではない。スロープなどもない段差の上にあることや身障者用のトイレが設置されていないことからも、結構な昔に作られた公衆便所であることがわかる。  そして見た目通り汚いことも、百合子は知っている。けれど、定期的に掃除やトイレットペーパーの補給はされているようで、使えないことはない。  先ほどより動きが緩慢になった少年は、それでもトイレに向かって歩き出す。  けれど、ふいに少年が走りだした。  えっ、と驚く百合子の視界の先で、少年は段差ですべって転んだ。あっという間に彼の下に水たまりが広がっていく。 「あっ、ああっ、あっ」  少年の声は、ひたすら戸惑いに満ちている。彼は股間を抑えてなんとか止めようとしているようだが、放尿はいっこうに止まらない。  どれだけそうしていたのかわからない。かなり長かったような気がする。遠くから近づいてくる、親子の会話で我に返った百合子は、少年の腕を引っ張って強引に立たせ、傍の茂みに押しこんだ。自分も一緒に隠れる。  砂場で遊んでいた幼児だろうか、幼児とその母親が公衆便所に近づいてきて、ふと、足を止めた。 「あーっ、誰かおもらししたんだ!」  幼児が水たまりを見て、きゃっきゃ楽しそうに告げる。 「だって臭いもん。ね、ママ。おもらしって恥ずかしいんだよね」 「そうね、ユウちゃんは気をつけないとね」 「大丈夫だよ。ちゃんとおトイレ行くから……あっ、ここのトイレ汚い」 「……うーん、家まで我慢できる?」 「うん。すぐ帰ろ?」 「そうね。さすがにここはねぇ……もう少し綺麗にして貰わなきゃ」  親子が去って行っていくのを見て、ほっとする。 (あっ、あの子っ)  慌てて隣を見ると、しゃがみ込んだまま俯いている少年がいた。ずず、と鼻をすすっており、小刻みに震えていることから、声を押し殺して泣いているのがわかる。 (……今の会話は酷いでしょ。あのガキ、帰り漏らせ)  胸中で呪いの言葉を吐く。  あの歳で、母親が一緒ならいくら漏らしても問題ないはずだ。  問題は、こっち。  百合子はそっと、少年に問う。 「……家、近いの?」  少年は身体を大きく震わせたけれど、顔はあげない。小さく首を横に振った。 「どの辺り? 送っていくよ。体操着とかの着替えはある?」 「……ない、です」  やっとのこと呟かれた声音は、嗚咽交じりだった。堪えきれなかったのだろう、少年は声をあげながら、泣き始める。 「も、漏れちゃ……どうしよう」 「大丈夫だよ、大人になってから漏らす人だってたくさんいるんだし」 「お、怒られるっ……知られたら、捨てられるっ」 「……捨てられる? 誰に?」 「お、父さん、と、お母、さん」  眉をひそめた。どんな家庭に育ったのかは知らないけれど、子どもにそんなふうに思わせる両親ってどんな親だろう。「恥ずかしい」と泣くのならわかる。親や友人に知られるのが恥ずかしいから、隠したい、と。  けれど、この少年は「怒られる、捨てられる」と泣いている。 「……門限って何時? 時間に余裕があるのなら、うちに寄ってくといいよ。すぐに洗って乾燥機で乾かせば、そんなに時間かからないだろうし」  その瞬間、少年がゆっくりと顔をあげた。涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を見て、苦笑する。 「ほ、本当に?」 「うん。うち実家なんだけど、両親共働きでね。今誰もいないから、ちょうどいいよ。私も、きみがいてくれたら寂しくないし」  そう告げると、少年はぐしゃぐしゃに顔を歪めた。 「あ、ありがっ」 「いいっていいって。立てる? ほら、この上着腰に巻いて」  恐る恐る立ち上がった少年の股間には明らかに漏らした染みがあり、半ズボンの下には黄色い液体が伝って足を汚していた。倒れ込んでから漏らしたせいか、靴下と靴は無事のようだ。 (これなら、なんとかなる)  ふと、少年が恥ずかしそうに足元の土を、足でこすった。よく見ると、足元にも小さな水たまりが出来ている。……途中で引っ張ってきてしまったらしい。  それには気づかないふりをして、上着を少年の腰に巻いた。前と後ろが見えないように。足につたっている部分は、懐から取り出したハンカチでふき取った。 「じゃ、いこっか」 「……はい」  名前を聞こうかと思ったけれど、知られるのは恥ずかしいかもしれない。そう思っていると、少年のほうから話しかけてきた。 「お姉さん、名前なんて言うんですか」 「百合子。佐久間百合子」 「……百合子さん」 「うん。……きみの名前、聞いてもいい?」  少年は恥ずかしそうに頬を染めたあと、小さな声で「こうじ」と告げた。  *  自宅につくと、やはり両親は不在だった。  鍵をあけて自宅に入り、そのままコウジと風呂場へ直行する。 「お風呂場で、脱いでもらってもいい? 私脱衣所にいるから。脱いだら、渡してね。洗濯機回しておく」 「は、はい」 「お風呂は沸いてないけど、シャワーならいつでも使えるから浴びる?」 「……つ、使わせて、下さい。じゃああの、上の服も脱いでいいですか」 「うん」 (めっちゃ緊張してるんだろうなぁ)  少しでも役にたてればいいけれど。 「あの、脱いだ……んですが」  百合子は、脱衣所と風呂場を仕切る擦りガラスのドアを少しスライドして、隙間から手を伸ばした。 「あ、あの」 「どうしたの?」 「は、恥ずかしくて」 「ああ、いいよいいよ。うち、年の離れた従兄弟がいてね。こういうの慣れてるから」  そう言うと、戸惑いがちに脱いだ衣類が手の上に置かれる。水分を吸って重いそれを引き取って、手洗いが必要なほど染みにはなっていないことを確認する。洗濯機に放り込んで、適量の洗剤を入れて、あとは洗濯機を回す。 「上の服、脱げた?」  そう問うと、風呂場からコウジの手が伸びてきて、上半身に纏っていた衣類を脱衣所に置いた――瞬間、体重をかけすぎたのか、がらっとスライドドアが開いて、コウジが倒れ込んできた。  よく転ぶ子だなぁと思いながら、起き上がろうとしているコウジの傍へ屈んだ。 「大丈夫? 怪我ない?」 「は、はい。すみませ――あっ」  コウジが、真っ赤になる。どうやら全裸をさらすのが、恥ずかしいらしい。思わず、ほとんど咄嗟にコウジの下腹部についたソレを見てしまい、さっと視線を反らした。 (……うーん) 「ご、ごめんなさいっ」  コウジは局部を両手で隠して風呂場へ戻っていく。百合子はスライドドアを閉めて、ほっと息をつく (見てしまった。見られたくなかっただろうなぁ)  小学生だから、と理由づけるには、明らかに小さすぎるソレは、男としてはやはり、気にしてしまうだろう。 (……見なかったことにしよう)  百合子はコウジの着替えを取りに、自室へ向かった。洗濯が終わるまでの間、お菓子でも食べながら映画でも見るか、などと考えながら。
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