前編

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前編

 百合子は、久しぶりに暮らすことになった実家を見上げて、ため息をついた。  就職を機に一人暮らしをはじめ、職場の上司と恋人になり四年目――プロポーズされ、お互いの家族への挨拶も済ませた。そして今年、本格的に結婚の日取りについて考えようというときに、後輩の女性社員に恋人を寝取られた。 ――『やっぱりい、課長も若い子のほうが好きだと思うんですぅ』  などと、一晩を共にした翌日、その女性社員は百合子に告げた。相手の男、智雄と交際しているのは社内でも知られていたし、結婚を控えていたので隠しもしていなかった。  百合子は結婚前の軽い気持ちの浮気だろう、と思いながらも、智雄に問うた。智雄はあっさりと「お前と別れる」と言い出し、後輩の女性社員と付き合い始めた。その噂は合っという間に社内に広がり、百合子は職場を辞めざるを得なくなった。  そして、実家に帰ってきた……というわけだ。  思い出したら、腹が立ってきた。 (若い子ってなに? 三十だと若くないって? あんたもいつか通る道なんだよっ)  ここにはいない後輩女性社員を罵りながら、百合子は実家に入る。  事情を知っている両親が、露骨に慰めてくれるのが余計に心苦しい。 しばらくは実家でごろごろしていたけれど、一週間ほどが過ぎたころ、何かせねばという衝動に駆られて仕事を探し始めた。けれど、まだがっつりとした仕事を探すには決意が足らず、気軽にバイトから見つけることにする。  そして受かったバイトは、ありきたりかもしれないけれど、最寄り駅に近い場所にあるコンビニだった。  *  バイトを始めて半月が過ぎた。シフトは、週に三日から四日で、日勤か夕勤のどちらかだ。立ちっぱなしなのは辛いし、やけに店員を見下した客も多くて腹立たしくもあるけれど、慣れないレジで戸惑う百合子に優しい言葉をかけてくれる客もいた。  何より、一緒に働いている従業員がいい人ばかりで、少しでも負担をかけたくないという思いから、自然と仕事を覚えることができた。手順とやり方さえ覚えれば、難しいバイトではないようだ。  その日は夕勤で、バイトが終わったのは深夜の十時だった。シフトの時間は固定なので、夕勤の場合は必ず深夜の十時に終わる。狭い更衣室で仕事着から私服に着替えながら、百合子は思う。  ここで働いている者は、学生か主婦ばかりだ。収入の足しになるようにと、早朝のシフトに入っている既婚者男性もいるが、聞いたところによると、子どもの養育費のために貯金をしたいのだという。  この職場は皆優しくて暖かいけれど、百合子はどこか浮いている気がした。 「お疲れ様です」  バックヤードで監視カメラの確認をしていた店長に声をかける。「おつかれさま」という返事に頭を下げてから、外へ出た。  季節は秋だ。  実家に帰ってきたころはまだ暑かったのに、ここ数週間で頬を冷風が撫でるくらいにまで冷え込んだ。昼間との気温差もあり、最近は上着を持ち歩くことも増えている。  早速小脇に抱えていた上着に袖を通したとき。 「今、帰りですか?」  唐突に声を掛けられて、顔をあげる。  そこには背の高い――かなり高い、青年がいた。デニム生地のズボンと無地の紺色をしたシャツを身に着け、その上に少し厚めの上着を羽織っている。  ラフな服装から、学校帰りかな、と見当をつけた。 「うん。幹くんは、大学の帰り?」 「はい」  幹は、同じコンビニでハイトしている大学生だ。飛びぬけて長身でガタイもよく、見目も男らしく端正ゆえに、かなり目立っている……ので、名前もすぐに覚えた。  コンビニにくる客のなかには彼目当てに買い物にくる女性客もいるらしい。生憎、幹とはシフトの時間が一緒になったことがないので、彼自身についてはよく知らないし、言葉を交わしたのも二度ほどしかない。  百合子の印象は、寡黙な青年、だった。  クールというには静かすぎるし、表情も無表情が多くてあまり動かない。 「じゃあ、お疲れ様」  軽く手を上げて歩き出すと、「あの」と声を掛けられる。 「うん?」 「よかったら、途中までご一緒してもいいですか」 「それは、うん。勿論」  幹はどこかほっとした様子で、百合子の隣に並んだ。隣に並ばれると、身長差が際立つ。百合子はどちらかといえば、小柄なほうだ。けれどめちゃくちゃ小さいというわけでもなく、平均よりやや低め、といったところだろうか。  そんな百合子と並んでこれだけの身長差があるのだから、180センチは超えているだろう。  駅前の喧騒を背中に聞きながら、住宅街へ向かって歩き出す。 「幹くんって、スポーツしてるの? ガタイいいよね」 「高校までサッカーをしてました」 「おお。ポジションは?」 「ゴールキーパーです」 「すっごいじゃん」  驚く百合子に、幹は苦笑した。 「いえ。あまり出番はなかったんです。スウィーパーが有能な人でしたし」 「でも、シュートされない試合なんて滅多にないじゃない。守護神なんてすごいよ、幹くんがいるから皆安心してプレイできるんだし。キーパーって、フォワードと違って何度もチャレンジしたりできないし、一度失敗したら即失点でしょ。そんな大切なポジションになれるって、本当にすごいと思うな」  一気に言い切って幹を見上げると、幹は軽く目を見張っていた。  語りすぎてしまったかもしれない。 「……詳しいんですね」 「あー、まぁ。従兄弟がサッカーやってるから、一緒に試合見に行ったりしてたし。ねぇ、手、見せて」  これだけの長身で尚且つキーパーをしていたとなると、手が大きいはずだ。別に手フェチというわけでもなくただの好奇新だったが、幹はあっさりと右手を差し出してくれた。  その手をぎゅっと掴んだ瞬間、幹の身体がやや強張る。 「大きい手だね……色々なものを掴めそう」  例えば――百合子が逃がした、幸せとか。幹は寡黙だが、仕事ぶりは真面目で大学も有名なところへ通っているらしい。この大きな手で、これから色々なモノを掴んでいくのだろう。  唐突に、幹が自らの手を背中に隠した。  百合子がまじまじと見つめていたほうの手だ。 「あ、ごめん。普通に触っちゃった」  苦笑すると、幹の顔がやや赤いことに気づいて、首を傾げた。 「幹くん?」 「……そういう意味ではないと、わかってるんですが」 「そういう意味って?」 「な、なんでもない、です」  それからは他愛ない話をした。おもに百合子が話しかけて、幹はそれに「はい」か「いえ」で答え、簡単な補足をくれる程度だったが、誤魔化したりあやふやな返事をしない幹の態度は、傍にいて心地よい。きっと裏表のない性格なんだろう。 「……あ」  百合子は青くなった。  いつの間にか、自宅のすぐ近くまで来ていたのだ。 「ご、ごめん。うちまで来ちゃった。幹くんの家ってどっち?」  百合子が話に夢中だったため、道が違うことを言い出しにくかったのだろう。慌てて謝る百合子に、幹はやや沈黙したのち、口をひらく。 「せっかくですから、送っていきます」 「え、いや、いいよ。むしろ私が途中まで送り返すべきだよ」 「……佐久間さんの家、すぐそこですし。送らせてください」  佐久間、というのは百合子の苗字だ。初めて名前を呼ばれたけれど、私の名前知ってたのか、と今更ながら思った。 「……じゃあ、お言葉に甘えて、お願いしようかな」  ふと、幹が口元を緩める。  結局家の前まで送って貰って、先に家のなかに入るように促された。完全にドアが閉まってややのち、離れていく足音を聞く。  こうして自宅まで送ってもらうなんて、何年振りだろうか。偶然とはいえ、少し若返った気分になり、ふふ、と微笑む。  けれど、ふと気づく。 (……そういえば、途中で一度も迷ったりしなかったよね)  曲がり角や分かれ道に差し掛かっても、幹は戸惑うことなく道を進んだ。そして、百合子の自宅も「すぐそこ」だと言い、実際に百合子の家の前で先に足を止めたのは幹だった。 (私の家、知ってたのかな)  そんな疑問がよぎったけれど、まぁいいか、と深くは考えなかった。近辺に住んでいるのなら、この辺りに詳しくてもおかしくないだろうから。  *  その日、久しぶりの夕勤を終えた百合子は、コンビニを出たところで幹に会った。大学帰りなのだろう、今日もラフな私服姿だ。 「お疲れ様です」  幹から話しかけてきて、百合子は微笑んだ。 「お疲れ様。大学帰り?」 「はい」 「そっか、これから遊びに行くの?」  幹が手に持っている、小さめのペットボトルを見た。暖かいレモンティのそれは、半分ほど減っている。ここで時間を潰しているのだろう。駅前だし、これから電車に乗って遊びに行くのかもしれない。もしくは繁華街のほうへ、用事があるのかも。  そう予想をつけたが、幹は「いえ、帰るところです」と告げる。相変わらず冷静で、どこか無感情にさえ思える声音だった。本当に帰るところなのだろう。  けれど。  前回といい、今回といい。  まさかと思うけれど。 「……もしかして、待っててくれたの?」  偶然です、という返事を予想しており、だよねぇと笑う準備も出来ていた。けれど、幹は予想外に身体を強張らせたのち、気まずさを前面に押し出したような態度で、口をひらく。 「す、すみません」  百合子は目を見張った。まさか、本当に待っていてくれたのか。 「あははっ、ありがとう。でも大丈夫だよ、私。最近物騒だけど、これまで強盗とか通り魔とか、狙われたことないし」 「佐久間さんは、綺麗ですから」  今度は、本気で驚いた。  綺麗なんてこれまで言われたことがなかったから。元気あるね、とかなら言われ慣れているけれど。 素直に嬉しかった。でも、幹の言葉からは「強盗や通り魔」ではなく百合子が「変質者」に襲われる可能性がある、と言っているように受け取れる。  生まれて三十年、変質者に狙われたことなどない。ちなみにナンパもされたことがない。こんな寂しい人生を送っている百合子に対して、そんな心配は不要だろう。  それでも、こうして心配されると嬉しかった。  幹を見上げると、どこか恥ずかしそうに視線を地面に落としていた。 「じゃあ、途中まで一緒に帰る?」  そっと告げると、幹は顔をあげて、頷いた。 「送らせてください」 「……じゃあ、お言葉に甘えようかな。ありがとう」  微笑むと幹はかすかに目を見張り、視線を彷徨わせる。戸惑いが露骨すぎて、なんだか可愛い。若いなぁ、と思いながら、幹はおそらく根が素直で真面目なのだろうとも感じた。  今時の若い子にしては珍しいタイプかもしれない。  二人で並んで、ひと気のない住宅街の道を歩く。この辺りは昔とあまり変わっていないけれど、小学校は建て替えられ、近くにあったコンビニはつぶれて今ではクリニックになっている。  少しずつ変わっていく地元が寂しく感じるのは、歳をとった証拠なのかもしれない。 「あの、少しだけ遠回りしていきませんか」  ふいに、それまで沈黙していた幹が言った。百合子は無言でもあまり気にならないけれど、幹のどこか「決心して言いました」と察することが出来る口調に、沈黙してしまっていた自分を責める。気を使わせてしまったかもしれない。 「うん、いいよ。どこか寄りたい店とかあるの?」 「行きたい場所が、あるんです」 「よし、じゃあそこ行こう」  幹は嬉しそうな顔をする――かと思いきや、やや緊張感を増したような顔で「ありがとうございます」と冷静に告げた。  幹のあとをついて向かった先は、寂れた公園だった。小さいころによく遊びに来たけれど、今ではもう、人も寄り付かないほどほの暗い雰囲気を漂わせている。  遊具には使用不可の張り紙が這ってあり、紐でぐるぐる巻きに固定されていた。砂場は地面と大差ない状態になり――そして、古すぎて誰もが使うことを躊躇っていた公衆便所は撤去されていた。  幹は、躊躇う様子もなく公園の半ばまでくると、百合子を振り返った。  不気味さを醸す公園にびくつきながら歩いていた百合子は、いきなり幹が振り返ったことに驚いて、息をつめる。 「……び、びっくりした。この公園に用なの? 自販機もないし、なんにもないと思うんだけど」 「覚えてますか」 「うん?」 「ここで昔……その、漏らした少年が、いたでしょう」  戸惑いがちに告げられた言葉に、百合子は目を見張る。あの日のことはよく覚えていたけれど、あのときの少年とは何度も「秘密にするから」と約束をした。  幹は彼の知り合いだろうか。知り合いだとしても、いくら年月が過ぎていても、あの日のことを他言するのはよくないだろう。 「う、うーん。……そうだっけ」  誤魔化せただろうか。露骨すぎただろうか。  そんな焦りは、幹の次の言葉で吹っ飛んだ。 「あれ、俺です」 「………………え」  咄嗟に、幹の全身を見る。あの子は確かに背が高かったけれど、幹はめちゃくちゃ背が高いし、体躯もがっしりしていた。  あの少年の面影はどこにもない。……端正な顔立ちをしている、という点では共通かもしれないが。  余程、百合子が訝る表情をしていたのだろう。  幹が口をひらいた。 「本当です。俺の下の名前、知ってますか」 「幹……えっと、ごめん。名札には名字しか載ってないから」 「幹浩二です」 「……コウジ、くん」 「はい」  確か、あの少年もそんな名前だったはず。  もう一度幹を見る。もし本当にあの少年だとしたら、なぜそのことを百合子に告げるのだろう。本人にとっては忘れたい過去のはずだ。今頃蒸し返す必要もない。  幹は公衆便所があった場所を見つめ、苦笑した。 「俺は、それなりにいい家で育ったんです。両親から期待されて、常に成績優秀でなければならなかった。副教科も出来て当たり前。小学校では常に児童会で役員をしてましたし、中学や高校でも生徒会に入ってました」 「……すごいね」  他に言葉が出てこない。  驚くほどハイスペックだ。たしか、詳しくは聞いていないけれど、大学もかなりいいところに通っていると聞いている。 「兄が優秀すぎたせいもあって、両親は俺に兄のような完璧を求めていました。物心ついたころには、俺が何か失敗するたびに侮蔑の表情を向けられて……あの日、ここで漏らしたときには、もう全部が終わったと思いました」  ふと、幹が振り返った。  優しげに細められた目に、微かに吊り上がった口元。幹はあまり感情を出すのが得意ではないのだろうと思っていたけれど、こうして百合子を見つめる彼は、とても嬉しそうな表情をしている。 「だからあの日、佐久間さんに助けてもらって本当に感謝しています」 「……よかった」  思わず力が抜けてふらついた百合子の腕を、幹が掴む。 「佐久間さん?」 「……もう、消化されてたんだね」  あの少年は酷く両親に脅えていたから、あの日の失態がもとで、心に癒えぬ傷を負ったらどうしようと思っていた。  けれど、そんな心配はいらなかったようだ。  あれから十年も経つのだし、当然かもしれないけれど――こうして、自分の口から当時のことを語ることが出来るのは、もう傷を抱えていない証拠だろう。  そしてそれを手助けできたことが何より嬉しい。  ここ最近、辛いことばかりあったせいだろうか。お礼を言われたことや役にたてたことが、胸を暖かくしてくれる。感謝している、と言われたのに、これではまるで、救われたのは百合子のほうみたいだ。 「……あの、もしよかったら、なんですが」  幹が、言葉を紡いだ。  腕を支えて貰っているままだったことに気づいた百合子は、慌てて体勢を整える。幹が手を離すと、その手はそのままポケットに移動して、携帯電話を取り出した。 「今度の木曜日、いえ、それ以外でもいいんですが、時間を貰えませんか」 「木曜日? シフト確認するからちょっと待って……何か相談?」 「はい」  幹が百合子に相談――、一瞬、なぜ、と思ったが、過去に助けた件でやや懐かれたのかもしれない、と判断した。それに、歳も離れた異性の百合子に相談がある、など、余程のことなのだろう。 「うん、木曜日なら大丈夫。じゃ、連絡先交換ね。詳しくは、またメールするから」 「……俺から送ってもいいですか」 「いつでも歓迎。くっだらないこととかでも、なんでもメール頂戴」  あはは、と笑って言うと、幹は神妙に頷いた。やはり真面目な青年なのだろう。  二人で並んで公園を出ると、百合子の実家へ向かって歩き始めた。 「佐久間さんは、少し警戒心を持ったほうがいいですよ」 「え、持ってるよ」 「……俺みたいな得体のしれない男について、寂れた公園に行くなんて。それに連絡先も、簡単に教えるべきではないです」 「そりゃ、いくら私でも知らない人についてあんな場所行かないから大丈夫だって。幹くんだからだよ」  そう告げると、幹は不満そうに眉をひそめて、視線を反らした。 「……複雑です」  どういう意味? と聞いたけれど、幹は教えてくれなかった。  その日も自宅まで送ってくれて、先に家の中に入るように促される。自宅に入ってから、遠ざかる足音聞いて、百合子は居間にいる両親に帰宅した旨を告げた。
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