第二幕 中編

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第二幕 中編

 翌日、夕方にバイトを終えた百合子は、夕勤に入っている幹とシフトを交代した。「おはようございます」と挨拶を交わしたあと、こそっと「今夜はオムライスにするから」と告げる。  周囲の人たちには付き合っていることを秘密にしているので、本当にこっそりとだ。幹は嬉しそうに口元歪めて、同じように小声で「バイト頑張れそうです」と告げた。  百合子は秀一のマンション付近のスーパーで買い出しをしつつ、以前に幹が言っていたことを思い出していた。  秀一に会う前だ。  幹に、お兄さんってどんな人? と聞いたことがある。 『俺の憧れの人です。とにかく優秀で、なんでもできる人なんですよ。両親からも信用されてて、自慢の息子だってよく言っています。……元々両親が共働きだったので、兄と二人で家で過ごすことも多くて、弟の俺から見ても頼りになる兄なんです』  頼りになる、兄。  幹は秀一のことを尊敬しているし、秀一もまた弟を可愛がっている。  兄弟愛がそこにある……けれど。  人は誰しもが、他者に対して少しなりとも態度を変えている。家族、友人、上司、同級生、一人一人に違う態度をとるのは無意識に相手の影響を受けているからだという。そして、その人にとって「こういう人でありたい」という理想を演じることもあるのでは、と百合子は思う。  秀一の態度は、幹に対するものと百合子に対するものでは明らかに違う。  どちらかが演技なのだろう。幹に対する態度が本物で、百合子を嫌っているからわざと口調を乱して嫌っていることをアピールしている、というのが恐らく正解だろうけれど。 (私、一人っ子だからなぁ)  そんなことを思ったけれど、すぐに苦笑して否定した。  そもそも百合子に兄弟がいたとしても、ザ・庶民の百合子たちと、幹家で育った秀一と浩二の兄弟とはまったく違う次元の話になってしまいそうだ。  百合子は、よし、と気合を入れた。  幹が秀一を尊敬しているのは事実だ。だから、そんな秀一に百合子も気に入られたい。具体的に何をすればいいのかわからないが、とにかく「いい嫁になる」と思って貰えればいいのだ。  夕食の材料を抱えて帰宅した百合子は、食材を片して洗濯物を取り込む。取り込んだ洗濯物を畳んで各自の衣類に分けてから、ソファのうえに置いた。風呂掃除をしてお風呂を沸かし、そのほかの細々とした支度をして――やっと、夕食の下ごしらえだ。  幹は十時にバイトをあがるので、幹と百合子の分は彼が帰宅するころにつくるとして。  先に、秀一の分を作ることにする。  先ほど玄関で確認したけれど、秀一の靴があった。リビングにいないということは、部屋にこもっているのだろう。  昨日も秀一は自宅にいたが、休日はゆっくり体を休めたい派なのかもしれない。 (仕事、大変なんだろうな)  こんな豪華なところに住んでいるのだから、かなりの高給取りなのだろう。その分、求められる責任や重圧も強いはずだ。  下ごしらえを終えて、あとは作るだけとなった。  よし、と頷いて手を洗っていると奥からドアの開く音が聞こえ、ややのちリビングの入口から不機嫌そうな声がかかる。 「今夜は何作るんだ」 「オムライス」 「……ああ、あいつ好きだったな。ケチャップライスの美味さは革命だとか言ってたことがある。俺はバターライスのが好みだけどな」  ガタ、と百合子は棚を蹴りつけながらリビングを覗き込んだ。こぼれんばかりに目を見張っている百合子の姿に、秀一が露骨に引いた態度を取った。 「……なんだよ。怖ええんだけど」 「幹くんってケチャップライスが好きなの?」 「はぁ? 聞いとけよ、それくらい」 「危ない。バターライスで作るところだった。ありがとう、次からちゃんと聞くようにする。そうだよね、種類あるもんねぇ」  我が家がバターライス主流なので、そのまま作るところだった。越してきたときに持ち込んだ料理本で、ケチャップライスの作り方を確認せねばならない。  確か載ってたよね、と確認しようと自室へ向かいかけて、ふと、秀一を振り返った。 「あ、そうだ。ご飯いつ食べる? 幹くんが帰ってからだと十一時過ぎるけど、明日から仕事でしょ? 早めに食べる?」 「そうだな、準備できたら食うわ。いつ出来んの?」 「いつでも出来るよ、下ごしらえ終わってるし」 「へぇ。じゃ、作って。食って風呂入って寝る」  秀一はドサッとソファに座ると長い脚を組み、机に置かれた新聞に手を伸ばした。慣れた様子でばさりと新聞を広げると、ちらりと畳んである衣類の山を見め顔をしかめた。 「……お前って、ババアだよな」  秀一の分の夕食作りに勤しむか、と思っていた百合子は、唐突に言われた悪口に「はぁ?」と素で返してしまう。  キッチンから睨みつければ、秀一は洗濯物を指さした。 「俺の下着とか普通に洗って干して畳んであるし。もっと照れたりしねぇの?」 「そんな初々しい態度求められても。ってか、私は昔からこうだし」 「元からババアか。救いようがねぇな」 「すみませんね!」  性分なのだから仕方がない。……けれど、良家の令嬢にはそういった一面があるのかもしれない。百合子にはないもので、努力で身につくことではないだろう。やはり秀一が求めているものは、家事力や他者に対する気遣いなどではなく、別の根本的なナニかなのかもしれない。  一人分のオムライスはすぐに出来た。  少し時間がかかったのは、オムライスに沿えるつくね団子だ。梅と大葉を練り込んだものを平らに押しつぶしながら焼いたもので、つくねは生だと食中毒になる可能性があるため、焦げ目をつけたあとに水を入れて蒸し焼きにする。  まさか、オマケ程度に作ったつくね団子へ火を通すのに、こんなに時間がかかってしまうなんて。  完成したオムライスを食卓に置き、茶や食器類を準備する。 「できたよ」  秀一は新聞を置くと食卓につき、無言でスプーンを手に取った。デミグラスソースがかかったオムライスを一口食べて、眉を顰める。 「……ベタついてるな。このライス」 「そう? うーん、もう一度作り方を見直してみる」 「卵の味付けは自己流か? 俺好みじゃねぇな。つか、もっと半熟にしろよ。なんでこんなにペラペラで硬いんだよ、オムライスの卵部分が」 「昔懐かしい感じにしようかと思って」 「お前、自分の歳を自慢したいのか? 現代風につくれよ、オムライスっつったらふわとろだろうが」 「あれ美味しいよね。私もふわとろオムライス好きだから、よく作るんだ」 「……だったらそれを作れ。馬鹿か」  吐き捨てるように言われて、肩をすくめた。幹にお手伝いさんの話を聞いたこともあって、少し年代物をイメージしてみたが、バターライスのオムライスには合わなかったのかもしれない。いや、ただ単に秀一の好みではなかったのだろう。 「……まぁ、でも昨日のハンバーグは悪くなかったな」  つくね団子を食べながらぽつり呟かれた言葉に、百合子はぱっと微笑んだ。露骨に破顔した百合子を見た秀一が、これ以上ないほどに眉を顰める。 「……なんだ」 「初めて褒められた」 「初日に嫌ってほど褒めてやっただろうが」 「いやあれはノーカンでしょ」 「のーかん?」 「ノーカウント」 「略すな、発音も悪すぎか」 「別にいいじゃん。でもそっか、よかった。なんか自信持てたよ!」  秀一は眉間にしわを寄せたまま、深くため息をついた。 「ミドリムシかお前は」 「は? ……もしかして、単細胞ってこと?」  秀一は返事もせずに、黙々とオムライスを食べ続けた。 (そっか、私って単細胞だったんだ)  百合子は一人、秀一の言葉に衝撃を受けつつ机をじっと見つめる。沈黙が降りてきまずい。百合子がいては秀一も食べずらいかもしれないから、何か用事を見つけてリビングを出ようと思ったが何も用事がない。  部屋に戻りますね、とか言うとまるで避けているように思われそうだ。  どうしたものか、と悩んでいると、秀一がスプーンを置いた。あれだけ不満げだったオムライスは綺麗に平らげられ、つくね団子もない。 「あいつは俺にとって大切な弟だ。急に連れてきた年増女に簡単にやれねぇ」 「そんなの当たり前でしょ」  ふと、秀一が顔をあげ、百合子を見据えた。 「幹くん見てたら、大切に育てられたのわかるし」  幹本人は、両親をあまり好きではないようだが、幹は真っ当に育っている。不満を抱え、感情を押し殺す必要があって無表情になったのかもしれないと思ったこともあった。それでもここまで彼を立派に育てたのは彼の両親に他ならない。  だからこそ、幹の家族にも自分を――そして、「百合子を選んだ幹を」認めてほしいと思うのだ。 「……お前、心底ムカツクな」  秀一はそう言い放つと、風呂に入ると言って出て行った。  愛する弟を奪おうとしているのだから、嫌われて当然だろう。とはいうものの、こうして百合子に「チャンス」をくれている辺り、全否定しているわけではない……と思いたい。  百合子は秀一が食べ終えた食器を片付けると、ソファに座って職安で印刷しておいた求人を眺めた。どこへ応募しようか。一つずつ締め切りが近いものから当たっていくことにして、何を優先的に選ぶかはまだ決めかねている。 「今って、職務経歴書なんてものがいるのかぁ。当時はなかったな」  一人で呟いて、職安で貰って来た「職務経歴書の書き方」という冊子をぺらりとめくる。職務経歴と言われても、高校と大学でしていたカフェのバイトと、正社員として働いていた以前の仕事、それから今やっているコンビニのバイトくらいだ。  じっと読みふけっていると、「おい」と呼ばれて顔をあげる。 「ん、なに?」  先ほどと同じ私服姿の秀一が歩み寄ってくると、ソファに置いたままだった衣類を抱えた。彼は風呂上りも寝間着ではなく私服を着こなしており、自室に戻ってから寝間着に着替えるのだそうだ。と、幹から聞いた。  よって、私服だが秀一は風呂上りなのだろう。  髪が少しだけ湿っているのがわかる。 「それ、何見てんだ」 「ああ、これ? 求人情報。就職先探してるの」 「バイトしてんだろ」 「正社員目指そうと思っててさ」  秀一は、無駄に端正な眉を顰め、ため息をつく。 「あと一年もすれば、浩二が就職するだろ。それから決めてもいいんじゃねぇの。急ぎでカネが必要なのか」 「……そういうわけじゃないけど」 「なら、少し待て。同棲するんだろうが。あいつの職場がどこになるかわかんねぇし、どうせ職場近くに部屋を借りることになるだろ。住む部屋を決めてから仕事を探したほうがいい」 「あ、確かに」  それはそうだ。  無駄遣いしなければバイト代と貯蓄で賄えるし、別に急いで就職する必要はない。  そもそも、なぜ百合子はこうも焦って正社員を目指そうとしているのだろう。 「単細胞が」 「同棲すること前提ってことは、認めてくれつつあるって思っていいの?」 「ふざけんな」  秀一は踵を返し、そのまま自室にこもってしまった。  百合子は広げた書類やらを片してから、時計を見た。幹が帰宅するまでまだ時間がある。少し疲れたので自室で休憩しよう、と自室に戻った。  ベッドに横になっているうちにいつの間にか眠ってしまい、幹からの「今から帰ります」メールの音で目が覚めた。寝ぼけたまま「了解」と返信する。  起きて目覚まし代わりに顔を洗い、オムライスを作り始めた。卵で巻くのは幹が帰宅してからにして、ケチャップライス部分だけを作っておこうと思ったのだ。  料理本を見ながら料理に没頭していると、幹が帰宅した。深夜であることを慮ってか、インターフォンではなく鍵でドアが開いたので、音ですぐにわかる。  百合子は手を止めて、玄関へ向かった。 「おかえり、お疲れ様」 「ただいま帰りました」  幹はそう言って、さっと百合子から視線を反らす。 「……新婚みたいですね」 「う、うん。……そうだね」  なんだか照れくさくて、百合子も視線を反らした。どこか甘く、そして気まずい沈黙が降りて、百合子は慌てて視線を戻した。 「夕食の支度できてるよ。着替えてくる?」 「荷物だけ置いてきます」 「じゃあ、準備しておくね」  百合子はキッチンへ戻り、フライパンでオムライスを作り、皿に盛りつけた。なかなか美味しそうに出来たな、と頷きながら食卓へ並べる。  ケチャップの容器(絞るタイプ)を添えてあるほうが、幹の分。  デミグラスソースがかかっているのが、百合子の分だ。  丁度並べ終えたころに幹がきて、食卓を見て驚いた顔をした。 「あれ、佐久間さんまだ食べてなかったんですか?」 「一緒に食べようと思って。……あ、余計な気を使わせちゃったかな」 「それ俺のセリフですよ。でも待っててくださったんですね、嬉しいです。てっきり兄さんと一緒に食べたんだと思ってました」  幹はそう告げて、定位置となっている彼の椅子に座る。  オムライスを覗き込み、微かに口元を緩めた。 「なんだか、懐かしいオムライスですね。俺、こういうの好きなんです」 「口に合うといいんだけど」 「あの、このケチャップの容器なんですが、自分で好きなだけケチャップを掛けていいってことですか?」  皿の横に、ドン、と容器ごと置いておいたケチャップを指さして、幹が首を傾げる。百合子も向かい側に座ってから、頷いた。 「そうだよ。好きなだけ掛けて」 「……もしよかったら、掛けて貰えませんか」 「私が? いいけど、量とかどれくらい?」 「あの……ここに、文字、書いてもらってもいいですか」  ほんのりと頬を赤くして、幹が言う。  百合子は目をぱちくりさせた。  文字というと、メイド喫茶などで行われているという血文字のようなあれだろうか。文字をつけるだけでオプション料金を取るという、まさかの販売方法に驚いた覚えがある。 「いいよ。あんまり字が綺麗じゃないから、その辺はご了承を」 「佐久間さんの字は充分綺麗ですよ。……じゃあ、あの。カタカナで「コウジ」ってお願いします」  幹は真面目な表情で告げつつも、益々頬を赤くした。  百合子もまた、ほんのりと頬を染める。 (名前を要求されるって……なんだか、恥ずかしいな)  そう思いながらも、乞われたまま、ケチャップで「コウジ」と書く。 「あっ」 「え、何?」 「……この、少し空いてるところにハートマークを」 「ここ?」 「はい。あと、こっちにも」 「……こんな感じ?」 「ありがとうございます」  ややケチャップが多すぎないか、と思わなくもないが、幹は携帯を取り出して写真を撮り始めた。角度を変えて何度も。  ややのちに満足したのか、携帯をしまってスプーンを持つ。 「いただきます」 「どうぞ。私もいただきます」  幹は、ひと口食べると驚いた顔をした。もぐもぐと嚥下してから、ふた口目を食べる。 「美味しいです。ケチャップライス大好きなんですよ。この卵もいいですね。最近のオムライスって、とろっとしてるじゃないですか。俺、半熟ってあまり得意ではなくて」 「あ、そうなんだね。それはよかった。ケチャップライスは、お兄さんから聞いたんだよ。幹くんはケチャップライスが好きだって」  幹は益々驚いた顔をして、ふと百合子のオムライスを見た。ここで初めて、百合子のオムライスがバターライスであることに気づいたらしい。 「もしかして、俺のためだけにわざわざケチャップライスバージョンを作ってくれたんですか」 「まぁね、おかげで一つ料理を覚えられたよ。ありがとね」  幹ははにかんで、ぱくぱくとオムライスを食べる。つくね団子も美味しいと言って食べてくれて、百合子としては大満足だ。 「正直、少し心配だったんです。兄のこと」  オムライスを食べ終えて、お茶で喉を潤したあと。  幹が、呟くように言った。  百合子はオムライスの最後の一口を食べながら、首を傾げる。 「心配?」  秀一に百合子を認めさせるという件について、心配されている――のだと思った。けれど、幹が言いたいのは別のことだったらしい。  幹は、少しばかり言いにくそうに俯き、呟く。 「兄さん、恰好いいし」  幹の言葉に是否で答えるのではなく、ただ愛想笑いを浮かべてしまうのは許してほしい。確かに秀一は女性が好きそうな外見をしているけれど、百合子は幹の方が断然恰好いいと思う。 「それに、ハイスペックじゃないですか」 「私から見ると、幹くんも充分ハイスペックだよ」 「俺なんて全然ですよ。それに」 「それに?」 「……兄さん、大きいし」 「心が?」  それとも身長だろうか。けれど、身長ならば幹のほうが高い。  幹はつんと拗ねたような顔をして「あそこがです」と告げた。 (……ああ、その話ね)  察して、百合子は苦笑する。そんな情報は知りたくもないのだが、幹にとっては重要らしい。 「なんで俺に少し分けてくれなかったんだろう」  そして一人で本気で落ち込み始める。男として、その辺りはやはり気になってしまうらしい。こればかりは、仕方がないのかもしれなかった。 「そのままでいいと思うけど」 「よくないです。でも仕方がないのもわかってます」 「私、好きだよ」  幹は、はっとして顔をあげた。そして、そわそわと視線を反らす。 「そ、そうですよね。佐久間さん以外に見せないし、佐久間さんが好きだって言ってくれるのなら充分です」  しきりに一人頷く幹が、なんだかとても可愛い。「可愛い」なんて言ったら怒られてしまうから言わないけれど、時々無性に可愛く思えてしまうのは、年下だからというよりも幹本人の個性なのかもしれない。 (……プールとか修学旅行のときはどうしてたんだろうな)  ふとそんな疑問がよぎったが、あえて問わないことにした。男同士で見せるのなら問題ないのかもしれないし、その都度隠していたのならそれはそれで聞いていて辛くなってしまう。わざわざ思い出させる必要もないだろう。 「あの、佐久間さん」 「うん?」 「今日も一緒に寝ていいですか。……我慢するので」  じっと瞳を見つめられて、百合子は目を瞬いた。  次の瞬間には破顔して、頷く。 「うん、勿論いいに決まってるじゃない。次のデートが楽しみだね」  幹は口元を歪めた。  相変わらず、無表情はほとんど動かないけれど、二年も付き合えばさすがに相手の感情に敏感になってくる。幹は今微笑んでいるけれど、本当は照れているのだ。幹は、よく照れる。そんな初々しさが二年も続いているのだから、元々照れ性なのだろう。  好きだな、と思う。  もっと幹の、いろんな姿が知りたい。
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