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◯
約束を破った彼女は一年前に死んだ。
目を覚ました俺の脳裏に浮かんだひとつの事実。目覚めが悪いったらありゃしない。
蝉がジリジリと鳴いている声が四方八方から聞こえてくる。徐々に濃くなるその声に、まぶたも比例して透明度をさげていく。木漏れ陽がちょうど俺の顔をパラパラと照らしていた。
「まぶっ……ってあれ……!」
上半身を勢いよく起こした。両手を確認して胸に手を当てると、少しドクドクしてる。顔をゆっくり前に向けてあたりをキョロキョロと不安げな目で見ると、そこは見慣れた神社だった。社殿の端にはジグソーパズルのようにまばらな光が落ちていた。
いつからここに寝そべっていたんだろう。体の節々がひどく痛む。心のあたりが虚しく痛む。
そのとき、そよ風がさっと吹いた。昔からここの風は気持ちがいい。木々に囲まれ、カサカサと鳴る葉音すら癒しのようにも思えた。それに浸るように、古びた社殿の柱に背中を預けた。
“尾美苗神社”
ここ、尾美苗市にある神社のひとつ。草の神であるカヤノヒメを祀っているらしい。豊作祈願の神社として名が高く、長靴をはいた農家さんが遠路はるばるここに来る。草の神ということで花言葉に文字らえて、恋愛運やら金運なんかのお守りがある。おそらく時代を考えて後づけなんだろうな。どこまで信じていいのかわかったもんじゃない。
夏の日差しは絵の具をベタ塗りしたように明るかった。柱に寄りかかっている俺はすっと暗闇に身を置いている。そのコントラストは夏の風物詩とでもいいたげで、かすかに色づいている俺の左足を焦がした。
「あの子は……」
まだ寝ぼけている俺は夢のことを思い出している。さっきまでは明瞭に覚えていたはずなのに、今となっては断片的で印象深いシーンしか残ってない。朧げになっている記憶は次第に薄れていって、最終的には“なにかを見た”という感覚だけが頭にこびりついた。歯痒い感覚にため息をつく。
“ミーンミーンミーンミーン”
太陽が傾いて影が少し長くなっている。まだ空は青いけど、夜になるのも時間の問題だった。
深く息を吸い込んで肺に深緑の空気を取り込む。腕を目一杯伸ばしてあくびをする。そして軋む社殿の床に手をついて腰を持ち上げる。
“ボトンッ”
立った拍子になにか落ちた。
“銀河鉄道の夜”
「あれ、この本……。俺が借りたのか? まあいっか」
よくわからないし、とりあえず賽銭箱に乗せた。
ついでにお参りでもしようとしたとき、一匹の蝉が鈴紐に止まった。それをじっと見つめる。手を伸ばせば届きそう。じっとして動かないし。少年の幼心で、ゆっくりとそいつに手を伸ばす。けどあとちょっとのところで、ビビッと羽音をたてて逃げてしまった。いき場のなくなった右手。虚無感を埋めるために、鈴紐を一回大きく揺らす。
“カランッ”
低い鈴の音は存外広くこだまし、その反響が耳に入ってくる。もわんもわんと頭の中が響く感覚に襲われる。まるで洗脳されるように。
あ、お賽銭しないと。急に思い出してポケットを確認する。後ろのポケットに入っていた財布を取り出して中身を確認する。中には千円札とユーロ硬貨しか入ってなかった。しかたないか。ユーロ硬貨を一枚、賽銭箱に投げ入れた。
賽銭箱に当たったコインは甲高い音とともに三度跳ねて吸い込まれていった。また鈴を鳴らして拍手する。手を合わせてゆっくり目を瞑る。
「もし会えるなら、もし伝えてくれるなら。俺の気持ちを代弁してください。ひと言いわないと気が収まらないんだ」
ときの流れに逆らうように、ゆっくり、ゆっくり。合掌した手をさげた。
そのとき、快速列車が近くを通り過ぎていった——
『え、あ……どうも』
高校初登校の日、田舎から来た俺は友達ができるはずなくて、ひとりぼっちで帰っていた。最寄りの地下鉄に入ると同じクラスの人がホームに佇んでいた。
目があって少し気まずい。地元なら人間関係に困らないのに、都会の人は冷たくて話しかけづらい。今さら場所を変えるのも、かえって失礼だしなぁ。苦し紛れに名前を聞いてみた。
『名前?相引玲奈』
そのいいぐさは淡白でクールな印象だった。距離は近いのに壁があったけど、それより会話してくれたことがうれしかった。ぎこちなく会話を続けた。内容はベタに自己紹介から。
『ふーん。そうなんだ』
彼女は気まずそうに視線を逸らす。少し間が空いた。肺の空気を押し出すように地元のことを話す。
『あ、電車民なんだ。私乗ったことないや』
初めて聞いた色味のある言葉。彼女という花の一片が垣間見れた気がした。徐々に柔らかくなる雰囲気に高揚する。彼女と仲よくなれそう、そう感じた。
『え?さっき——』
神社に静寂が戻った。目を半分だけ開けた。焦点が合ってないのが自分でもわかる。空のどこか遠くにトンビが円を描いて飛んでいる。そんな鳴き声が耳に入ってきた。重そうに肩を上にあげて、大袈裟な身振りでポケットに手を突っ込む。神社を背にしてスタスタと歩き始めた。
◯
“ガタンゴトン、ガタンゴトン”
ふと耳に入った列車の音に体がビクンと反応する。尾美苗市にある唯一の踏切。このまま線路に沿って左にいけば、おみなえ神社を通り過ぎておみなえ駅に着く。
“カンカンカンカン”
踏切がランプをつけてうねりをあげた。ゆっくりと下がってくる踏切。それに合わせて俺も一歩ずつ近づく。踏切と同時に俺も止まった。なかなか列車が通過せず、遮断機を無機質に眺めていた。田舎だとたまにこういうことがある。
目線を元に戻した瞬間、線路向こうに人影が見えた。身長は俺くらいで、体はか細い。眼鏡をかけているのがここからでもわかる。
中学校からの知り合いで今でも遊んでいる友達のひとり。最近は塾やらなんやいって全然会ってなかった。
「あれ立花じゃねぇか? おーい、たちば——」
そのとき、立花の背後からひとりの女性が出てきた。見知らぬ女性だった。仲良さげに手を握って顔を近づける。あ、そういうこと。声をかけるのをやめた。なんだよ、彼女いるなら教えてくれたっていいじゃないか。夏の静けさを崩すように列車が轟音をたてて通る——
『やっと五月か』
一ヶ月が過ぎたころ、俺も友達ができて学校生活が楽しくなってきた。クラスではある程度グループのようなものができている。それのせいもあって、相引さんと話すきっかけがない。せっかく仲良くなれそうだったのに。無意識に彼女を追っていた。地下鉄のホームであったあの日からずっと。いっときの笑顔が忘れられないままだった。
“キーンコーンカーンコーン”
下校を知らせるチャイムとともに人が流れ出す。掃除をする人、廊下でだべる人、そそくさと帰る人。その多様性に身を隠して機会をうかがった。
『玲奈またねー』
友達と話していた相引さんがカバンを持って帰る。その瞬間を見計らって、自然を装って声をかけた。
『じゃあね』
すれ違いざまに挨拶をした。心臓がバクバクするのを悟られないように教室に入っていった。彼女が返事をくれたのか、ましてや聞こえていたのかすらわからない。けど達成感で満たされていた。
『やったぞ』
『おーい喜一、掃除手伝ってくれよ。今日うちの班人数少なくて——』
散歩中の犬が俺に向かって吠えてきた。
「あら、どうしたのかしら。普段はおとなしいのに」
そんなのは無視して、この場から離れた。嫉妬でも羨望でもない。ただ思い出したくないだけだ。
「ねぇたっくんこの犬かわいい!……ってたっくんどうかしたの?」
「いや……なんでもない」
◯
踏切を渡らないで線路に沿ってだらだら歩く。おみなえ駅とは反対側に向かって歩いているのが、ちょっとだけ虚しく思ってしまった。どれだけ列車が通ったんだろう。防音林の影に落ちた俺は夏に溶けてしまった。
「六時にコミセン集合な! 遅れたらたこ焼きと焼きそばと焼き鳥と……」
「おいおい、お前が遅れてもそれ奢れよ」
夏服を身にまとった高校生か中学生っぽい二人組がだべりながらすれ違う。彼らが日向で俺が日陰。色のコンストラストがとても激しかった。
「ねぇ今日だれ誘ったの?」
「そ、そんなのだれでもいいでしょ……!」
「あらぁ浴衣ちゃんと着れるのかしら」
道ゆく人から煌びやかな言葉が漏れている。それはまるで青春を謳歌するような若葉の輝きだった。また老いたなと感じる。
歩道の端に均等に配置される幟。手を伸ばしてそのポールに軽く触れる。カクンッと動いて元に戻る。そのとき、防音林のトドマツが擦れ合って音を鳴らした。ザザッと吹いた風は涼しいはずなのに、なにも感じなかった。マンションの七階ほどあるトドマツを見上げても、その足を止めることはなかった。
「あっちぃな……」
しばらくすると防音林が途切れている場所に来た。正確にいうならばそこだけ通り道ができている。
“列車が到着いたします”
レンガが敷き詰められた道はまっすぐ駅につながっていた。道に沿うように置いてある自転車を横目に見る。後輪の泥除けに貼ってある学校のシールが目に入る。同じ学校の人……なんているわけないか。
“栂坂駅”
ネットでは心霊スポットだの言われているけど、それは慰霊碑が建てられているからじゃないかな。実際に幽霊を見た人はほとんどいない。少なくとも俺が毎日使っていて、それでも見たことがない。
手前は北口で下り線、線路を挟んで向こう側が南口で上り線のホームだ。向こうにいく手段は改札外にある連絡橋を渡るしかない。遅刻しそうになって全力で走ったのも一度や二度じゃない。間に合わなくて諦めたのもまたしかり。
“チャカチャカチャカ”
自転車を押して連絡橋から出てきた高校生。地元のセーラー服が田舎感を増幅させる。変わらない風景にちょっとホッとする。
下り線の駅内へ入ると、聞き慣れた音が鳴る。畳一枚ほどの幅の駅はただの通り道。改札はひとつしか置いてなく、駅員はいない。そっとベンチに座って外を眺める。三十分に一本の列車、片方のホームにしかいない駅員、そのまま通り抜けられる改札。快速列車が停まらないのは常識で、それらを思い返してみると駅に苔が生える。
“普通列車が到着いたします”
反対側のホームに列車がくるらしく、ぼーっとそれを待っていた。一年前と同じように。
「一度も好きって言われなかったな」
付き合ってからも、そのまえからも、彼女である玲奈から“好き”という言葉を聞いたことがなかった。本当に俺のことが好きだったのか、もしかしたら遊びだったんじゃないか。そんなしょうもないことを考えてしまう。もう彼女はこの世にいないっていうのに、そのことが気になってしまう。
目を覚まさせるように、汽笛が鳴った。いつものようにゆっくりと、さびれたホームに列車が入ってくる——
『来ないな……』
栂坂駅のベンチでひとりの男が携帯片手にソワソワしていた。玲奈とつきあって一年以上経つけど、連絡もなしに遅れてくることはなかった。でもよく考えれば理解できる。最近の玲奈は俺に対して冷たい気がする。昔みたいに弾んだ会話をしたのはいつだろう。久々のデートに心躍らせていたのは俺だけだったのかな。考えることすらおっくうになりそう。
約束に期待して、約束に胸を弾ませ、約束のために頑張った。
『約束なんてしなきゃよかった』
そのとき、一本の列車が入ってきた。これに乗っていなかったら帰ろうと決め、半分諦めで改札を見ていた。
『お、喜一じゃねぇか。こんなところでなにしてんだ?』
『いや、その……。なぁ、このあと暇? 一緒にいこうぜ』
『いいけど、一回荷物置きに帰っていいか?』
野球部のジャンパーを着たガタイも器もでかいやつと自動ドアをくぐる。
『お前、来週彼女と旅行なんだろ。お土産よろしくな』
『そう……だな——』
それから時間は過ぎて、列車も過ぎる。快速列車、普通列車、貨物列車。どれくらいたくさんの列車が過ぎていったのかな。すでに陽は暮れていて、かすかに見える太陽の周りには星が見えていた。
駅内の蛍光灯がカカンッとついた。
最初のころは都心にいけるうれしさでこの駅にも感動していた。定期券を買って、それを改札にかざす。うまくできるか不安で心臓がバクバクしたのを覚えている。まあ今では日常になっていて、そこらへんの道を歩くのと大差ない。“慣れ”って恐ろしいものだなと他人行儀で思う。
“おみなえいき、普通列車が到着いたします”
遠くのほうから白いライトが近づいてくる。それはだんだんと大きくなって本体も明瞭に見えるようになる。プシュッと空圧システムが起動してドアが開いた。半無人駅に足音が響く。会社帰り、部活帰りの人々がぞろぞろと降りてくる。定期を使う人、切符をボックスに入れる人。田舎にしては意外と利用者が多くて、今ごろ迎えの車やらが縦列駐車しているだろう。
列車が発進して人の波も去る。また静かな改札に戻った。蛍光灯にはバチバチっと蛾がぶつかっている。
「さてと、そろそろ帰って……」
「あれ? 切符が入らない。ここ……なわけないか。 えーどうしよう……」
その瞬間、快速列車が通り過ぎていった。それはあまりに唐突で夢か現かわからないほどに。
「どうして……」
死んだはずの彼女が改札の向こう側に立っていた。
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