寝てない気分

1/1
前へ
/1ページ
次へ
太陽は知らぬ間にその位置を変える。 窓から射しこむ日差しがまだ強い昼下がり、安物の遮光カーテンによって閉ざされた教室は、どの時間にも当てはまることのない歪んだ空間を作り出していた。ここでの睡眠は、防衛反応による逃避かもしれない。シャーペンの頭でカーテンを少しめくり、下を見下ろすと、今年最初の陽炎が踊っている。その隙間から差し込んだ光りが、机に当たって屈折しつつも、細く長い糸のように教室を貫いて廊下まで伸びた。 今日もまた、放課後の教室で時間が過ぎるのを待っている。机の上には碁盤と、碁石の入っている碁笥が二つ。白とつぶやいて片方を開けてみる。黒と白。二分の一の確立は、今日も当たらない。誰もいない教室で、ひんやりとした碁石に触れていると静けさが増す。桜の木に取り囲まれた校庭を、満開の桜が覆いつくしている。それはまるでピンクのドーム。風が吹くと、桜の花びらが渡り鳥のように群れをなして空を舞った。校庭に散らばった声も、三階の教室に届く頃には、一つのハーモニーとして美しく重なりあっていた。 「こんなところで、なにやってるんですか」 静寂は突然打ち破られ、驚いた猫がするりと腕から逃げるように、手から碁笥がすべり落ちた。碁石が床に散らばり、私の周りがあっという間に黒の海と化した。 「明日は名人戦があるので、碁盤と碁石を持ってきてくださいって言いましたよね?」 言ったのは囲碁部の副部長で、言われたのは部長である私だ。 幽霊部員になれる部活をわずかな候補の中から選び、囲碁部に入部したのが二年前。毎年四月の第三月曜に開かれる総会に出席さえすれば、あとは一切関わらないで済んだ。去年までは。今年も例年通り開かれた総会の出席者は二人。隠れ蓑になるほどにはいた部員が全員卒業し、新入部員はゼロだった。部に必須の部長には三年の私が、副部長には二年の男子が顧問によって任命された。一年間同じ部活にいた副部長の存在を、私はこの時初めて知った。 「そんな風にいっぺんに入れないでください。ごみも一緒に入るじゃないですか。ひとつずつ、ちゃんと埃を払ってから入れてください。名人戦なんですよ」 碁石を両手ですくって碁笥に入れようとする私を、副部長がとがめた。 「弘法筆を選ばず」  と、私が言うと、 「野球が上手になりたかったら道具を大事にしろと、偉大な大リーガーは言っています」  と、副部長が言い返してきた。細いフレームの銀縁眼鏡をかけた副部長は、碁石をひとつつまむと、ふっと息を吹きかけ、ハンカチでくるむようにして軽く拭いてから碁笥に入れた。仕方なく私も、副部長のやり方に従った。私の動きに、副部長はまだ何か言いたげな表情を見せたが、何も言わずふっと息を碁石に吹きかけた。 「なにやってんの?」 顔をあげると、市川がのぞきこむように私たちを見下ろしていた。 「部長が碁石をまき散らしたので拾っているんです」  聞かれたのはクラスメイトである私のはずなのに、答えたのは副部長。 「部長なの?」 「囲碁は出来ませんけど」 「なにしてんの?」 「主に、部に代々伝わる碁盤と碁石の管理・運搬です」  副部長が初対面であろう市川に、私があえて言わないでいることをペラペラと喋っている。おしゃべりなやつめ。普段は部室で、インターネット囲碁を一人でやっている副部長だが、他校との対局や学区内の囲碁部で争われるタイトル戦の前など、要は副部長が勉強のために碁盤を使いたいと思った時に、私が碁盤と碁石を部室まで運ぶことになっていた。碁盤と碁石は金庫で保管するのが決まりだが、職員室に鍵を取りにいったり、金庫が遠かったりと何かと面倒なので、教室の自分のロッカーに入れっぱなしにしていた。ロッカーに鍵はかからないけれど、こんなもの盗む十代いるわけない。 「管理・運搬がんばれよー」 市川はそう言い残すと、足早に部活にむかった。残りの碁石を両手ですくい碁笥に入れると、副部長も早く行きなと言って、副部長の身体に碁笥をぐっと押し当てた。 放課後は、授業が終わってから一時間経過しないと帰れない。文武両道の名のもとに、部活が強制だからだ。それより前に帰る場合は、担任と部活の顧問両方の許可が必要なので、いつも教室で時間をつぶしている。美術部の翠は、私よりはちゃんと部活に参加しているが、気が向かない時は行かないし、飽きたら途中でやめてしまう。今日も部活に行った翠だったが一時間で戻ってきた。 「帰れる?」 「うん」 部活動中に帰ることにも慣れた。 「セブンティーンアイス買ってくる」 翠は、正門を出たところにある自動販売機へと走り出した。私があとからゆっくり歩いていくと、翠が自動販売機に寄りかかってアイスを食べていた。 「食べる?」  翠は食べかけのミントチョコを私に向けた。目の前の景色がエメラルドグリーンに染まる。ミントチョコをかじると、甘さより清涼感が口の中に広がった。 「あと、五ヶ月」  翠は言った。 「セブンティーンアイスが食べられる期間」 「あぁ」 「私、エイティーンになったらこのアイス絶対食べない」  シックスティーンの時も食べなかったと翠は言った。   翌朝、碁盤と碁笥を抱えた副部長が廊下に立っていた。 「おはようございます。これ、金庫に閉まっておいてください」  朝っぱらから、とあからさまにうんざりしている私のことなんてお構いなしに、碁笥がのった碁盤を押しつけてきた。副部長が手を離した途端、碁盤の重みが両手にずしっとのしかかる。席につき、黒と心の中で唱えてから碁笥の蓋を開ける。白。やっぱり目に見えないものは当たらない。蓋を閉めようとすると、横からすっと手が伸びてきた。 「落ちてた」 黒の碁石がのっている市川の手のひらに、黒い文字が書いてある。 「呪文?」 「あはは。数学のテスト範囲だよ」  碁石を受け取ると市川の肩越しに翠の顔が見えた。目が合ったと思った瞬間、翠はもう別の方向を見ていた。 放課後、翠は私の席に座って落書きの延長のような絵を描き、私は窓枠に腰かけて音楽を聴いていた。翠は暇さえあれば絵を描いている。絵を描いている時の翠は、どこか無防備で柔らかい。鼻歌混じりにささっと書く絵は、どれも実物よりずっと魅力的で、私であっても、私の知らない私に見えた。いつだってそうだったから、私が見ているこの単調な景色も、翠の目には、すべてがそんな風に色づき輝いて映っているのかもしれない。暑くもなく、寒くもなく、暗すぎもなく、まぶしすぎることもない。風はほとんど吹いてないのに、緑の匂いがどこからともなく漂ってくる。囚われるほどの悩みもなく、急かされるほどの楽しみもなく、実際はそれほど遠くない受験が、遥か遠い先の出来事のように思え、ぬるい温泉みたいに、ずっとこのままひたっていられそうな放課後だった。 絵を描く翠の手元がぼやけるほど見つめていた私は、音楽が止まったことにも気がつかなかった。翠がぐっと集中し、鼻歌が途切れると、鉛筆が紙に触れる音だけが教室に響く。それがテストの時と違って優しく聞こえるのは、絵を描く音だからだろうか。それとも、翠が奏でる音だからだろうか。翠は手を止めて大きく伸びをすると、私の視線に気がつき、はにかんだ。私のそばまで来ると、えいっと体を持ち上げて隣に腰かけ、窓枠に二人がぴっちりおさまった。風が吹き、翠の短い髪が揺れ、覚えのあるシャンプーの香りがした。翠は、片方のイヤホンを私の耳から外すと自分の耳にいれた。しばらくは足をゆらしながら一緒に音楽を聞いていたが、ふいに私のつむじに人差し指を立てると、つーっとうなじまでその指を滑らし、髪を二つに分けた。私にはその姿が見えないけれど、きっと絵を描くように編んでいるのだろう。翠に後頭部を軽く押され、うな垂れるように頭を下げていたので、教室に人が入ってきたことに気がつかなかった。イヤホンが急に引っ張られ、外れそうになったのを、反射的に押さえながら顔をあげると、教室の真ん中にいる市川に、走り寄る翠の姿が見えた。 「ねぇ、市川。私と付き合おうよ」  そうか、あれは私を見ていたんじゃなくて市川を見ていたのか。市川の視線は、翠を通り越して私に向けられた。翠が手放した私の髪は今ゆっくりとほどけて、居場所をなくして垂れ下がった片方のイヤホンからは、激しいギター音が漏れ響いていた。 今日もまた副部長からの要請があり、碁盤と碁笥を部室に届けにいった。 「もうすぐ遠征なので」  副部長は受け取った碁盤を机に置いた。 「一人でなにするの?」 「詰碁を解いたり、棋譜を並べたりするんです」  副部長は本を見ながら、早速碁石を並べはじめる。 「ふうん。私もちょっとやってみようかな。教えてよ」  そう言って、目の前の椅子に腰をかけた。副部長は、あからさまに気がすすまない態度を見せたが、渋々教えてくれることになった。 「じゃあ、部長は黒で」  副部長が黒石を差し出す。 「縁起が悪いから白がいい」 「縁起とかそういう問題じゃないんです。先に打つ方が黒って決まっているんです」 「じゃあ、あとでいいよ」 「先のほうが有利だから、弱い人は黒の先手でいいんです」 「白で先に打てばいいじゃん」 「囲碁は黒が先と決まっています」 「なんで?」 「なんでもです。ごちゃごちゃ言うなら教えませんよ。いいから右上隅に黒石を置いてください」  言われたとおり、右上の一番隅に黒石を置いた。 「それは隅じゃありません。隅はここです」  副部長はどこからか取りだした扇子で盤上を指した。 「そこ隅じゃないじゃん」  副部長の指す隅は、上から三マス目、右から三マス目のところにあった。 「囲碁ではここを隅と呼ぶんです。そんなことも知らないんですか。しかもマス目の中に置いてどうするんですか。囲碁は交点、線と線が交わった場所に置くんですよ」 「そうなの?オセロも将棋も四角の中に置くのに?」 「これはオセロでも将棋でもありません」  副部長がパシッと小気味いい音をたてて、扇子を閉じる。 「なんで碁石ってこんな不安定な形なの?せめて片方は平面にしたほうが、安定感があって合理的じゃない?」 「今、碁石の形状はいいですから」 「M&M’Sチョコに似てるよね」 「もうやめますか?」 「いや、やります」  そこから副部長の厳しい囲碁教室が始まった。 「ここが部室か」  翠が部室に来たのは初めてだった。私ですら滅多に来ないから当然と言えば当然だ。最近翠は部活に力を入れ始め、前のように教室に残ったり、さぼって一緒に帰ったりすることが少なくなった。市川と付き合っているのかもしれない。 「囲碁やってんの?」  翠が、うーんと唸る私の横に来て碁盤をのぞきこんだ。 「なにこれ?なにをどうするの?」  翠に聞かれても、私も説明できるほど分かっていない。 「もう、答え合わせしますか?」  副部長が言った。 「ちょっと待って。あぁもう副部長が話しかけるから、頭の中の碁石がとっちらかっちゃった」 翠が帰ったことに気がつかないほど夢中になっていた。遠征までの二週間、毎日碁盤を運び、副部長の勉強の片手間に囲碁を教わった。思った以上に難しく、思った以上におもしろかった。 部長として初めて遠征に参加した。副部長は迷惑そうな顔をしていたが、ついてくるなとは言わなかった。何度対局を見ても、どこで終わったのか、どっちが勝ったのかすら分からなかったが、見ていて飽きなかった。 「部長さんは囲碁をやらないんですか?」  北高の部長が話しかけてきた。当然男子。というより、見渡す限り女子は私しかいない。 「最近、副部長に教わってちょっとやってるんです」  私が得意気に言うと、 「だったら、ペア碁してみませんか?」  と、北高の部長がみんなに提案した。 「ペア碁って?」  と、聞く私の言葉に被せるようにして、無理ですとすげなく副部長が返事をした。 「なんで?」 「卓球のダブルスみたいに、交互に囲碁を打つんですよ。部長はまだ無理です」  副部長は拒否したが、すぐに四校対抗のペア碁トーナメントが始まった。 「わくわくしてきた。分からなくなったら教えてね」  私が耳打ちすると、 「ペア碁は教えちゃいけないんです。囲碁は一手で大きく戦局が変わりますからね、本当に頼みますよ。今の部長の全てをかけて戦ってください」  副部長は真顔で言った。任せておいてと胸をはり、私なりに健闘を尽くしたものの、結果は一勝も出来ずビリだった。罰として、碁盤と碁石の掃除をさせられた。 学校を出ると、今にも降りだしそうな雨の匂いが充満していた。楽しかったという私の言葉に、副部長はそうですかと言ったきり押し黙った。雨の予感のする町を並んで歩きながら、副部長の顔をそっと見る。囲碁部に入らなければ、絶対に話すことはなかったと言い切れる後輩。クラスメイトだとしても接点はなかったと思う。けれど接点は意外なところで生まれ、失われていく。交点がたくさんあっても、打つべき場所はほんのわずか。相手の出方によって大事な石が取られたり、形勢が大きく変動したりする。雨だ、と思うのと同時に携帯が鳴った。急に降りだした激しい雨に着信音はかき消され、やがて切れた。雨やどりの最中に電話をかけてみたが、翠にはもう繋がらなかった。 次の日の放課後、机に突っ伏して寝ていると肩を叩かれた。翠かと思って、顔をあげると目の前に市川が立っていた。 「なに聞いてんの?」  片方のイヤホンを市川に差し出して、また顔を伏せた。 「なにも聞こえないけど」 「なにも聞いてない。ただ、耳にはめていただけ」  突っ伏したまま喋ると、机の木の香りが顔にかかる。 「なんのために?」 「誰も話しかけてこない。例外もいるけど」 「あはは」 「市川ってさ、忘れっぽいの?」 「なんで?」 「だって、しょっちゅう戻ってくるじゃん、教室に」 「わざとだよ」 思わず顔をあげた。 「部活あんまり好きじゃないから、さぼりにくるの」 「へえ」 意外だなと思いつつ、机にまた突っ伏した。今日はなんだかすごく眠い。いつもは使わない頭を、昨日たくさん使ったからだろうか。 「徹夜でもした?」 「逆。すっごい寝た」 「寝すぎじゃない?」 「かもね。けど、なんだか寝てない気分」  また肩を叩かれた。重たい頭を上げ、市川がうながす方向を見ると副部長が立っていた。 「あっ」 碁盤を持っていくのを忘れていた。私は立ち上がり、ロッカーを開けた。 「ない」  碁笥が一つ足りない。黒石が入っている碁笥がなかった。ロッカーの物を全部出し、市川と副部長も一緒に探してくれたが見つからなかった。そもそも碁笥はどこかに挟まったり、隠れたりするような大きさじゃない。一目見ただけでないのは明らかだった。 「ない」  私はそれでも鞄をひっくり返したり、ジャージを振ったりして、どこからかぽろっと出てくるのを期待した。 「だから、金庫で保管してくださいと言ったんです」  副部長の冷めた声に、ジャージを振る手が止まる。 「部長は、幽霊部員になれる部活ならどこでも良かったのかもしれませんが、僕は真剣に囲碁をやっているんです。ちょっとは囲碁に興味を持ち始めてくれたのかなと思っていたのに、正直がっかりです」  静かに憤る副部長に、私は何も反論出来なかった。 「僕は負けたら悔しいです。部長が素人だと分かっていても、あんなにぼろ負けしたら、楽しかったなんて絶対思えないです。囲碁は、部長の暇つぶしのためにあるんじゃないんですよ」 副部長は、地理の教科書を音読するように、冷静に抑揚もつけずに胸の内を吐露すると教室を出ていった。散乱する荷物のなかに私と市川だけが取り残された。 「言われたねー」  茶化すように言った市川だったが、私が衝動的に隣のロッカーに手をかけると、やめなと言って私の手を強くつかんだ。その強さに驚いて手を引っ込めると、市川はパッと表情を変え、開けるなら見張っておくけどねと笑いながら手を離した。 「どこ行くの?」  市川が言った。 「帰る」 「一緒に帰ろうか?」 「なんで?」 「なんでって言われると、確かになんでって気がするけど」 「大丈夫」  学校を離れれば離れるほど、副部長の言葉が鮮明に蘇ってくる。冷静に語られた言葉だからこそ、それは一字一句全身に染みこんで、音の鳴らないイヤホンで塞いでも耳を離れなかった。 来年の今頃、私はこの黒板の文字を書き写したりはしていない。去年も一昨年もここにいたけれど、来年はもういない。来年いる場所にも、五年後にはおそらくいない。教室では先生が板書、校庭では生徒が走っている。私は来年走っていない。ハードルも、剣道も、書道も、合唱も、生涯最後になりうることが高校三年生にはたくさんつまっている。美しく走る人がいた。三階からでも分かる。三階だからこそ分かる、他の人との差異。ヒバリのように軽やかに風にのり歌うように走っている。 水で洗った顔を拭いているタオルをはずすと、目の前に私がいたので、うわっと驚いた顔がおもしろかった。 「今走ってた?」 「えっ?」  副部長が、なぜかこわごわと後ずさりするのもおもしろかった。 「今走ってた?」 「た、体育の授業だったので」  それだけ聞いて教室に戻った。副部長も後ずさりした足を進めて、教室に戻ったことだろう。 放課後、部室にやってきた副部長は、部屋の中に私がいたのでさっきよりもっと驚いた顔を見せ、足を止めた。 「なんでいるんですか?」 「なんでって、部長だから」 「まぁ、そうですけど」 副部長を横に座らせて、三時限分の時間を費やして自作した、囲碁部のタイムテーブルを見せた。 「これのとおりにやれってことですか」 「やれ、じゃない、やろう、だよ」 「なんで急に」 「なんでって、部長だから」 「まぁ、そうですけど」  副部長がタイムテーブルの紙を手にとってじっと見つめる。 「朝練と午後練の前のジョギングいやです」 「ジョギングなくしたら、あとは全部囲碁の時間なんだから、これまでと一ミリも変わらないでしょ」 「一ミリも変わりたくありません」 「健全な精神は健全な肉体に宿る、だよ。副部長が好きな偉大な大リーガーも同意するはず」 「特段好きなわけではありません」  ふーっと息を吐きだすと、副部長は長考に入った。どこからか扇子を取りだすと、パチンパチンと開いたり閉じたりして考えている。声を聞いて、目が覚める。 「では、部長も走るならやってもいいです」  副部長の最善の一手に動揺する人を今まで何人も見てきた。 「私は部長と言ってもマネージャーみたいなものだから、練習には出るけど見てる」 「じゃあやりません」  ぐう。今度は私が長考する番。走るのはいやだ。副部長の手から扇子をぬきとり、開いたり閉じたりしてみるけれど、思ったようなきれいな音は出ない。  朝の校庭は想像以上に敷居が高く、二人そろってその一歩を踏み出せないままいた。結局、校庭外周を走ることにした私たちは、学校の裏手にある大きな欅の木の下に向かった。校庭外周はかなりの距離があるので、朝練で走っている部活はない。そこでひととおりの準備運動をしてみたものの、走りだすきっかけがつかめない。 「先どうぞ」 「そう言って、自分だけ逃げるんじゃないでしょうね」 「そんなことしないよ」  副部長は長考に入る気配を見せたが、ふっと軽く息を吐くと、何かを決心するかのように走り出した。その一歩目からもう美しかった。200mほど進んだところで振り返り、私を待つ副部長を再び走らせるために、私も走りだした。学校の裏手に沿って500mほど続く砂利道を抜けると、あとは延々とあぜ道が続く。私たちが走り抜けると、濃い緑の苗が揺れ、蛙が水しぶきのように縦横無尽に飛び跳ねた。一歩ごとに頭に浮ぶことや、振り払おうとすればするほどあふれてくる記憶に飲みこまれそうになったら、すこし下がって副部長の走る姿を見るようにした。 「このペースだとホームルームに間に合いません。少しペースアップしましょう」  と、言い終わる前にペースをあげた副部長に私もついていく。欅の木が見えたところで、始業のベルが鳴った。私たちはラストスパートをかけ、そのまま一気に教室へとかけこんだ。息を切らして席に座ると、翠がそばにやってきた。 「どうしたの?」 「ちょっと、走ってきた」 「家から?」 説明しようと唾を飲みこんだところに、先生が入ってきた。校庭を眺めながら息を整える。息が整うのと比例して、走った実感がわいてきた。朝日がまぶしい。  放課後も、もちろん走る。砂利道は軽いジョグで並走した。 「砂利をぬけたら先行って。副部長は囲碁があるでしょ。私は自分のペースで走るから」  ちらっと私を見てから、副部長は分かりましたと小さくうなずいた。いつもより大きく見えた背中は、あぜ道に入りペースをあげた途端、あっと言う間に小さくなり、速いと思わずつぶやいた。あのスピード、フォーム、そして走る時に見せる鋭い眼差しと強気な態度。その中でも私を一番ひきつけたのは、副部長特有の軽さだ。その軽さは、かつて走る時に感じた浮遊感が、手を伸ばせば届きそうな場所にあると錯覚させた。 帰ったのかと思いましたと言う副部長にピースサイン。 「二周?」 「うん」 身体が求める空気を全身で吸い込む。 「副部長って長距離やっていたでしょ?」 副部長は言いたくないことがある時は、分かりやすく押し黙るか言いよどむ。 「なんで陸上部に入らなかったの?」 「……囲碁部があったからです」 「疲れた」 「二周もするからですよ」 二つ並べた椅子の上に寝ころがって足を机に乗せた。 「最高に行儀悪いですね」  そう言うと、背を向けてネット囲碁を続けた。ねぇ、と私は副部長の背中に声をかけた。 「もし囲碁部がなかったら何部に入ってた?」 「囲碁部があるのだから、そんな質問は無意味です」 「だから、もしって言ってるじゃん。もし囲碁部がなかったら」 「そしたら、地底研究部ですかね」 「はっ?地底研究部なんてあるの?ていうか、地底なんて研究してどうすんの?せめて地上を研究してよ」 「ほっといてください」 「今まで気がつかなかったけど、副部長って長距離向きの性格だよね。囲碁と長距離って似ているのかな?」 地底にもぐってしまったのか、答えはなかった。   お弁当を持って校舎裏のプールに忍びこんだ。飛び込み台に腰かけてお弁当を食べる。翠はプールサイドに座り、足を水に浸している。水が張られたプールは強い日差しを全面に受け、直視できないほど輝いていた。学校には、ここ以外にも簡単に忍びこめる場所がたくさんある。屋上、図工室、調理室…。私と翠は、いつでもそんなところで、ごはんを食べたり、さぼったりしているのに、他の人と出会ったことがない。翠はそのことに、多少の優越感を覚えているようだけど、私が感じるのは劣等感だけだ。 「最近、真剣に授業受けているね」  水面に映った翠の顔が、輝きながら揺れ動く。 「私?そう?」 「いつも真剣にノート取ってる」 「えっ?あぁ、これだよ」  私は制服の胸ポケットから、今朝副部長から渡された紙を取り出して、翠に渡した。 「何これ?」 「詰碁。囲碁のクイズみたいなものかな」  ふーんと言って、翠は紙を太陽に透かした。副部長はいつの頃からか、私のために詰碁を用意してくれるようになった。 「朝、副部長からそれを渡されるんだけど、放課後までに答えられないと、こんなものも解けないんですか?って顔するの」  私は副部長の顔まねをした。 「なんか分かる」 翠は鼻で笑った。 「翠は?絵描いてる?」 「あんまり描いてない」 そういえば、最近翠が絵を描いているところを見ていない。授業中も寝ていることが多かった。翠は足の甲で水をすくうようにして、遠くまで水飛沫を飛ばした。あっという声と共に、翠の手から離れた詰碁が風に舞い、プールの中央に落下した。私たちはなすすべもなく、キラキラと揺れて輝く詰碁を見つめた。    相変わらず黒石は見つからず、私たちは走り、時は過ぎていった。副部長は家から持ってきた自前の碁盤と碁石を使い始め、黒石を失った碁盤は、部室の隅に放置されたままだった。 「もう、負けですよ」 「えっ?」 「投了です」 「まだ、こんなに空いているところあるよ」  私が抗議すると、副部長が呆れた声で反論する。 「碁石をただ置けばいいってゲームじゃないんですよ。空いていても打つところはないです。部長の負けです」 「負け負け言わないでよ」 「負けは負けです。部長こそ、ちゃんと負けましたって言ってください」 トイレ行ってきますと立ち上がった副部長が、わっ!と声をあげ、腰を抜かすようにまた元の椅子に腰をおろした。いつからいたのか、扉のところに翠が立っていた。私は驚いたフリをして、碁石をぐちゃぐちゃにした。 「あっ、今わざとやりましたね」 「副部長が大声出すから驚いたんだよ」  副部長は何か言いたげな顔を見せながら、トイレに行った。 「帰る?帰れるよ」  私が言うと、翠は、んーとイエスともノーとも取れる曖昧な返事をして、副部長が座っていた椅子に腰をかけた。 「真面目にやってんだ」  翠はつまんだ白石を適当に盤上に置いた。 「真面目っていうか、試合…じゃなくて、試合って言うと対局ですって怒られるんだけど、この前、遠征した時の対局で、こてんぱんに負けたらしいんだよね、私」 「なにその、らしいって」 「自分では負けたのか勝ったのか分からないの。終わりがいつなのかも分からないんだよ。囲碁って本当に難しくて、意味が分からない」 「こてんぱって、どれくらい?」 「やっぱりこてんぱって言うよね。私がこてんぱって言ったら、副部長がこてんぱんですって言うの。調べたら本当にこてんぱんだった。ジュースかける?って言っちゃって、ジュースおごらされたよ」 「ジュースおごらされるくらい負けたってこと?」 「副部長曰く、野球で例えるなら500対0だって」 「500点も入れられるなんて逆に奇跡じゃん」  翠がおはじきのように黒石をはじいているところに、副部長が戻ってきた。 「どうぞ、対局始めてください」  翠が副部長に譲るようにして席を立つ。 「今度の対局では勝てそうなの?」 「無理です」  副部長が答えた。 「ちょっとー、やってみなきゃ分からないでしょ」 「分かります。囲碁は運の要素ないですから。勝つことがあるとするならば、今後の部長の努力次第です」 翠が窓を開けると気持ちのいい風と一緒に、翠のシャンプーの香りが部室を通りぬける。翠は黙って私たちの対局を見ていたが、そのうち棋譜の束を手にとると、裏に絵を描き始めた。副部長はちらっと翠を見たけれど、何も言わなかった。音の極端に少ない部室にしみわたる、翠が鉛筆を動かす音。 「こう見えても私、負けず嫌いだから。同じ相手に二度は負けないよ」  片付けをしながら、このままじゃ負けますよと念を押す副部長に私は宣言した。翠は、描きあがった絵を壁に貼っている。私と副部長が囲碁をしている絵。 「十分、負けず嫌いに見えていますよ。どう見えていると思っているんですか」 副部長は、喋り初めと終わりに聞こえよがしにため息をついたあと、翠の描いた絵をじっと見つめ、すばらしいですねと言った。 「いいやつじゃん、あいつ」 「どこが?いちいち腹立つんだよね」 かかとを踏んで歩く翠の上履きの音がペタペタと廊下にこだまする。 「兄弟みたい」 「どういう意味?似てるってこと?」 「じゃなくて、二人とも言いたいこと言い合っている。遠慮なしに」 「えっ?」 「あんまり本音言わないじゃん。いつも最後の二言、三言飲みこんで。珍しい、本当に」  とっさのことで、言葉を見失ってしまった。  「なんてね。顔がそっくりってことだよ」  翠の乾いた笑い声が人のいない廊下に響く。私も同じように笑ってみたけれど、うまく声にならなかった。西陽が照りつける廊下は、昼間みたいに明るい分、暗さが浮きたつ。あふれる孤独やせまりくる焦燥感は、この景色がもつ共有の思いであって、きっと私個人のものではない。それが正しいかどうか翠に聞いてみたいけれど、私の言葉はいつも出口を探してさまよっているうちに、シャボンのようにパッとはじけて消えてしまう。 その日はとにかく暑い日だった。クーラーも扇風機もなくうだるような暑さの中、それぞれが下敷きやノートを仰ぐ音がせわしなく、更に暑さが増していた。たまに吹く風にカーテンがめくれあがり、空にはためくこいのぼりのように教室をひらひらと漂っている。 「今こんなに暑かったら、夏はどうなっちゃうわけ?」  翠は両手で下敷きを仰いでいる。まだ二時間目。太陽はこれからますます昇ってくる。 「かき氷にうずくまりたい」  校庭が熱した油のようにぐらぐらと揺れている。 「いいね、かき氷!食べに行こう!」  翠が私の手をひっぱった。始業のベルが鳴りひびくなか、翠に手をひかれるようにして廊下を走り、階段を駆けおりた。 「今日はもう、夏休みってことにしよう」  翠は裏門のレールの上を、ハードルを飛び越えるみたいに高くジャンプした。 氷ぜんざいと氷いちごと練乳白玉と小倉あんみつを、翠と分け合って食べたあと、スーパーの上にあるゲームセンターでエアホッケーともぐら叩きをしてから、小さな観覧車に乗った。最高地点から飛び降りても、軽い捻挫で済みそうなくらい小さな観覧車。私たちは、その小ささを乗ってから降りるまで笑い続けた。その後でカラオケ屋に行き、制限時間いっぱいまで歌って外にでた。空の明るさに目を細めると、取り返しのつかないことをしたような気分に襲われた。明るさに目が慣れず立ちすくむ私の横で、翠もまた遠くを見つめてたたずんでいた。 次の日、翠は学校を休んだ。翠と過ごした時間の余韻に浸っていた私は、その休みが二日、三日と続いても、特に気にすることはなかった。五日目に担任から呼びだされ、翠が休んでいる理由を聞かれた時もピンとこなかった。知らないと答える私の顔を見て、だったら風邪かぁと担任が出席簿の翠の名前をものさしで叩いたその時だった。翠が休んでいることをはっきり認識したのも、その理由が風邪じゃないと確信したのも。夏の続きを生きていたのは私だけだった。翠はもう学校に来ないだろう。そんな予感がした。 翠が欠席して二週間ほど経った朝のホームルームで、翠が休んでいる理由を誰かが聞いた。風邪をこじらせていると答える担任の定まらない視線で、クラス中が嘘だと悟った。そういう小さなことで信頼を失っていくことに、大人は気がついていない。私も何人かに理由を聞かれたが、知らないと答えた。本当のことだった。更に数週間が経つと、翠の不在こそが日常に成り代わった。みんなが気にもとめなくなればなるほど、私はその理由を探しもとめ、私だけが翠という幻を見ていたんじゃないかと混乱した。五時間目の授業中、急に激しい雨が降り出した。開け放たれた窓から風にあおられた雨が教室に入り込み、滞留した湿気と入り交じると、教室の中はさながら濁った水溜りのようになった。激しく降り続く雨が薄い膜となり校庭を覆い隠す。雨は三日間降り続いた。私は、雨の中走り続けた。もう、走ること以外で出来ることが見つけられない。   本当の夏休みが終わり、新学期が始まっても翠は学校に来なかった。秋口に入り文化祭の準備が本格化すると、どのクラスも遅くまで残って作業を進めていた。文化祭や体育祭などのイベントごとに参加する人はたいてい決まっている。運動部の三年は既に引退し、文化部は文化祭をもって引退となる。最近は走ってもいないし、部室にも行っていない。管理・運搬すべき碁盤と碁笥もないので、副部長とも全然会っていない。 「もう、帰るんですか?」  二階の階段の踊り場で、副部長にばったり会った。ところどころ赤く色づいた手には、刷毛が握られている。出会い頭に会ったからか、見慣れない普通の学生生活を送っている姿を見たからか、動揺したらしい私は階段を踏み外した。 保健の先生が、真っ赤に腫れた足首を白い湿布で覆った。保健室を出ると、付き添ってくれた副部長が廊下で待っていた。 「骨折」  私は言った。 「えっ?」 「絶対骨折」  副部長は鼻で笑うと、もう帰りますか?と聞いてきた。 「帰るよ。骨折だもん」 「じゃあ、送ります。鞄とってきますので、正門で待っていてください」 賑やかに準備が進む様子を、暗い桜並木のもとで眺めながら待っていた。私はいつだって、大勢の人がいる場所から離れたところにいる。そこへの近づき方が三年間分からなかった私に、近づいてくる人がいる。意外すぎる真っ赤な自転車を押していても、走るフォームの美しさは変わらない。 「お待たせしました。乗ってください」  副部長は当然のように、自転車の荷台を叩いた。 「えっ?いいよ」  私は手を大きく振った。 「骨折なんですよね?」 「そうだけど歩ける」  私は右足をかばうようにして歩きはじめる。 「すごく痛そうですよ」  副部長は私の足首を見て、顔をゆがめた。 「痛いよ。だって骨折だもん」 「じゃあ乗ってください。重くても平気ですよ」 「失礼な。重いから乗らないわけじゃないよ」 「あっ、そうなんですね」  副部長は本気とも冗談ともつかない口調で言った。 「その足じゃ、しばらく走れないですね」  そう言われて、しばらく走らなかったことを激しく後悔した。 「無理しない方がいいですよ。捻挫のほうが長引きますから」 「疲れた。左足も疲労骨折したかも」 「しませんよ」 結局私は、副部長の自転車に乗せてもらった。部活外の副部長。自転車を一生懸命漕ぐ副部長。手に残る赤いペンキ、後ろに乗る私、目の覚めるような赤い自転車。私は声を出して笑ってみたが、笑い声は夕闇に溶け込み、前のめりで坂を上る副部長には届かない。 「明日、遠征があるんです。最後、一緒に行きませんか?」 前を向く副部長の声は、風にのってちゃんと私の耳に届いた。 次の日、副部長の真っ赤な自転車に二人乗りをして、遠征に向かった。正門を出たところで、文化祭の買出しから帰ってくる市川とすれ違った。 「どこ行くの?」  と、聞いてきた市川にデートと叫ぶと、いいなぁと言う市川の声と、ちがいますよと言う副部長の声が重なり合った。市川の笑い声が背中越しに聞こえた。 その日のペア碁でも、結局勝てずに終わった。悔しすぎて自転車に乗ることすら自分に許せず、痛い足をひきずりながら歩いて帰った。 「長く打てたし、惜しかったですよ。この前よりは格段に上達しています。みんなもびっくりしていたじゃないですか」 前回の遠征の帰り、副部長が押し黙った理由がよく分かる。 「だから、勝つのは難しいって言ったじゃないですか。部長、囲碁始めてどれくらいだと思っているんですか」 「あぁ、悔しい!悔しい!」  私は地団駄踏んだ。翠が休んでいることを考えまいとして、学校では囲碁の勉強を半ば取り憑かれたようにやっていたから、勝てる自信があった。 「そんなことしたら本当に骨折しますよ。でも、部長がちゃんと勉強していたことは分かりましたよ」 「こう見えても私、負けず嫌いだから」 「だから、十分そう見えています」  私だって本当は悔しかった。あの時そう言い返したかった。けれど、悔しかったのは負けたからではないことに、今日負けて気がついた。私が悔しかったのは、いい加減な気持ちで幽霊部員をしていたことや、興味本位で遠征に行ったり、ペア碁をしたりしていたことを副部長に見抜かれたからだ。囲碁部や副部長をどこかで見下していた自分に対してだ。 「そういえば最近、みどりさん…でしたっけ?見ないですね」  身体が一瞬にして体温を失う。 「部長とよく一緒にいたショートカットの人。みどりさんって名前じゃなかったですか?」 久々に聞くみどりという言葉が、うまく翠に結びつかない。 「いや、翠だけど」 「最近見ないですけど、どうかしたんですか?」 「最近見ないって、私と会うのも久々でしょ」 「ちょっと前まで、よく部室に来ていました」 「えっ?」 「部長がいない時も、ひとりでふらっとよく来ていましたよ」 囲碁の手はあんなに先まで読めるのに、この空気は全く読めていない。身体中が痺れて、足がもつれる。 「休んでる、ずっと」  自分の声がうわずっていることに動揺した。 「病気か何かですか?」 「分からない」 副部長がどんどん遠くなっていく。 「分からない?」 「うん。突然来なくなった」 そうなんですねという、その素っ気ない反応につられて話を続けた。 「どう思う?」  副部長の背中に問いかけてみる。 「どうって?」  と言った副部長は、気がつくと隣にいない私の姿を探して、後ろを振り返った。 「足痛むんですか?」  本当は全然痛くなかった。足の痛みなんて感じる余裕がなかった。私はうながされるまま荷台に座ると、副部長は自転車をこがずに押して歩いた。車体がほんの少し、副部長のほうへ傾いた。 「なんで休んでるんだと思う?」  そんなの知りませんよと言われると思った。それでも良かった。とにかく直接関係のない誰かに、でも翠は知っている人に話を聞いてもらいたかった。間違いでもいいから、答えが欲しかった。曖昧じゃない、ゆるぎのない答えが。部長、と副部長が呼びかける。 「岡目八目って知っています?」 「知らない」 「岡目八目。囲碁を打っている人よりも、周りで見ている人のほうが八目先まで見通せる、第三者のほうが、当事者よりも物事を客観的に判断できるという意味です。自分が当事者の出来事は、よく分からないものなのかもしれませんね」  夕暮れ時の町にカタカタと車輪の回る音が、やけに大きく響いて聞こえる。夕陽と雲がミルフィーユのように重なりあい、町をピンク色に染めあげた。 「囲碁みたいに、後から対局を振り返れたらいいのにね」 「それで最善の一手が分かればいいですけど、人間の行動に最善の一手なんて、きっとないんだと思います。それに分かったとしても時間は戻らないですから」 「そうだね」 「答えがない問題は解かないに限ります。答えがない問題を出された時は、相手も答えが分からないまま出しているんですよ、きっと。みどりさんもまた、部長に答える為の答えを探しているんだと思います。問題を解く人がいなければ、答えは必要になりません。だから、どちらにとっても解かないに限ります。みどりさんが来なくなった、ただそれだけのことです。問題も答えもありません」 「解きたくなったら?」 「それはもはや、部長の問題ですよね。みどりさんの問題じゃなく」 夕陽のように、何かが溶けていく。翠からしたら、私が囲碁を始めたり、走り出したりした理由が分からなかっただろう。私も分からない。分からないから言葉に出来ない。もやもやとしたものがあるのは分かる。誰もがそのもやもやを突き破ろうと、言葉や思いの前に行動することしか残されていない。そのもやもやで形作られているのが私たちだ。だからみんなどこか不安定で、地に足がついていなくて、とらえどころがないのだ。雲のように、その姿は見るたびに変わっていく。 副部長のサドルを握る手に、力が入っているのが分かる。反対に私の手は力が抜け落ち、荷台につかまっているのがやっとだった。副部長の手は大きいけれど、私の手なんかよりもずっと華奢で細く長くきれいな手だ。人差し指と中指で碁石を挟み、すっと狙いを定めて打つその瞬間は、副部長の手をより一層美しく神々しく見せる。繊細で美しいけれど、力強さと意思を感じさせる手。 「今日で囲碁部は引退」 「分かりました」  副部長が静かにうなずく。さっきまで優しいピンク色だった空は、今圧倒的な赤に変わり、夕陽は私たちを飲みこんだまま、世界に飲みこまれ沈んでいく。 「幽霊部員だったけれど、一応けじめとしてね」  どういう位置づけであれ、二年半囲碁部の部員だったのだ。 「ありがとうございました」  副部長が頭をさげた。 「幽霊部員でいてくれて。おかげで部活がつぶれずにすみました」  副部長の目も赤く光っている。 「知っていたんだ」 「はい。知っていました」 「こう見えても私、いいとこあるから」 「十分そう見えていますよ」  四月の総会の前、顧問に呼ばれてこう言われた。 「おまえ、将棋部にうつれ」  私はこの時初めて、将棋部の顧問が囲碁部の顧問を掛けもちしていることを知った。顧問すら幽霊顧問だったのだ。 「今年の囲碁部は新入生が入らなかったから、おまえを含めて二人しかいない。おまえがやめれば囲碁部は一人になり廃部が決定する。どうせ幽霊部員目当てだろ。だったら将棋部にうつれ。じゃないと必然的に部長は三年のおまえになり、少なからず仕事があるぞ。俺も興味のない囲碁部の顧問なんて正直面倒だからな。利害一致ってことで、明日の総会には出るな。そこで廃部を決める」  確かに幽霊部員目当てだ。普通に部活をやっている人よりは、たいぶ根性がひねくれている。それでも先生ほどには汚れてはいない。そんなことを提案されたことに腹が立った。取引に応じると思われたことに、私のしょうもないプライドは傷ついた。冗談じゃない。次の日、総会に出席している私を見つけた時の顧問の苦みばしった顔は、今まで見たどんな顔よりも醜かった。 「来年、新入生が入るといいね」 「部長が身を挺して残してくれた部活ですからね。絶対存続させますよ」 囲碁とマラソンはどこか似ている。無限の宇宙を感じられる瞬間がある。対局が佳境になり集中した時の副部長の目と、風と一体になって走る時の副部長の目もまた同じだ。副部長は囲碁をすることによって、ずっと走っていたのかもしれない。だとしたら、もっともっと走ってほしい。サドルを握る副部長の手が、マウスではなく、もっといっぱい碁石に触れてほしい。軽やかにとんでほしい。 文化祭が終わり、校内が落ち着きを取り戻した頃に行われる、全校生徒参加の強歩大会は、運動部にとってとても重要な『マラソン』大会だ。それは引退した三年生にとってもまたしかりで、本当の引退はこの強歩大会と言っても過言ではない。男女上位二十名の結果が個人名ではなく部活名で発表されるくらい、部対抗の意味合いが強く、どの運動部も毎年、部の威信をかけて戦っていた。結果は次の大会までの一年間、部室棟の廊下に貼り出されたままになる。夏休みが明けた頃から、運動部はひそかに走りこみに力を入れ始め、はなから勝負するつもりのない文化部は、完走を目指してただ歩くだけなので、この時期ほど文化部でよかったと思う時はない。 校長の挨拶や体育教師の諸注意などのあと、全員でラジオ体操の第一、第二の両方を終えると、十分後のスタートが告げられた。運動部の生徒は各部の集合場所に集まって、顧問からの指示に耳を傾けたり、軽くストレッチをしたり、気合をいれたりしている。文化部の生徒は、その辺に適当に座り、おしゃべりをしながら気楽にスタートを待っていた。 鉄棒のところで、アキレス腱を伸ばしている副部長が見えた。 「走るの?」 「部長のご両親はご健在ですか?」  あまりにも唐突に、ご健在なんて言葉を聞かされて面食らっている私を無視して、副部長は話を続ける。 「うちは母一人子一人です。父は中二の秋に亡くなりました。トライアスロンのランの最中、僕と母の見ている前で心臓発作を起こして倒れ、それっきり。それ以来、母は僕が運動することに異常なほど過敏に反応するようになりました。運動靴も体操着も捨てられ、僕は体育の授業すらまともに受けられませんでした。僕が死んだら、母は一人になってしまいますからね。母が死んだら僕も一人ですし。でも、命があることと生きているということは違うんだということに、ようやく気がついたんです。僕はずっと死んでいました。母もです。我が家で生きていたのは、皮肉なことに死んだ父だけでした」  ストレッチを終えてすっくと立ち上がった副部長が、私の目をまっすぐに見つめた。 「僕は生きることにしました。僕自身のために。だから走ります」  スタートまで五分です、と校内放送が流れる。 「部長は走らないんですか?」 死んでいるのは私も同じだ。 「部長も長距離やっていたんですよね?」 「なんでそう思うの?」 「一緒に走っていたんですから、たいていのことは分かります」  そうだ。私たちにはきっとそれが一番分かりやすい。 「それに…」 「それに?」 「囲碁もやりましたし」  そうだ。そうだった。一緒に走って、一緒に囲碁をやっていたんだ。 「走りますよね?」 「走る」  副部長は、よしっと言って太ももを叩くと、二、三回ぴょんぴょんとその場で飛び跳ね、十位以内狙いましょうと手を差し出した。 「本当は三位以内としたいところですが、お互いブランクがありますからね」 不敵な笑みをうかべる副部長の手を握りしめ、うんと軽くあごを引いた。 最初に一年生がスタートし、十分後に二年生、更に十分後に三年生がスタートした。スタートとゴールは一緒だが、コースは男女で異なる。女子は校庭を一周して正門を抜けると左に曲がり、平坦な住宅街を走るが、男子は校庭を三周して正門を抜けると右に曲がり、アップダウンの激しい山道を走る。 ずっと、一人になりたくて走っていた。物心ついた時から、嫌なことがあったり、言葉に出来ないもやもやとしたものが溜まったりすると、家の近くを走っていた。長く走れば走るほど、身体は軽くなり無心になれた。どこまでも速く、どこまでも遠く、永遠に走っていられるような気がしたし、走っていたいと思えた。そこには走るという行為しかなかった。 小学校の陸上クラブもそれなりに楽しかったが、長距離だけに専念できた中学校の陸上部の楽しさは、その比ではなかった。週に一度しかなかった陸上クラブに比べ、毎日、それも朝練・昼練・午後練と、日に三回も走れることを思えば、マラソンより駅伝の練習が多いことや、理不尽な上下関係、雑用なんて、どれも些細なことだった。ただ一つ、応援を強制されることには違和感があった。入部してすぐに応援にかりだされた春の駅伝大会で、みんなが声を枯らすほど必死に応援するのが不思議でしょうがなかった。私は応援するのもされるのも苦手だ。走ってない人が、走っている人にがんばってと応援して、そこに一体なにが生まれるのだろう。私にとって、応援は耳障りな雑音でしかなかった。マラソンは自分との戦い。応援なんかで邪魔されたくないと思っていた。二年の夏に行われた県大会に、三年生以外で唯一選手として選ばれた時、仲間に応援しないでほしいとお願いした。その甲斐あってか最終区を任された私は、二人を抜いて一位でゴールした。そのあとの全国大会では惨敗だったが、個人の走りとしては満足だった。全国大会終了と共に三年生が引退して新体制になった部の雰囲気が、がらりと変わったような気がした。それは気のせいでもなんでもはなく、数日後に長距離選手が全員、他の種目へと転向したことではっきりした。県大会の日に、来年も絶対優勝しましょう!と、涙を流しながら抱きついてきた後輩は、幅跳びに転向した。私は一人黙々と練習を続けたが、駅伝シーズンになっても誰も戻ってこなかった。県大会の日、監督と二人で会場に向かい、出場者の前で優勝旗の返還をしたのが、私の陸上部としての最後の活動となった。誰も助けてくれないし、時が解決してくれることもなかった。県大会優勝と書かれたのぼりが校舎から取り外されるのをほっとして見ている自分に、走ることが苦痛になっていたことを思い知らされた。 声を聞いた。記憶にからめとられ身動きできずにいる私を、現実に引き戻してくれる声。重力を認識した身体は途端に重くなり、息苦しくなる。声のあとに、景色が戻る。最後はトラックを一周する。走り終わった一・二年生が、トラックの内側を何重にも取り囲み、半狂乱で応援をしている。 「部長!」  副部長が大きく手を振っているのが見えた。ぶちょー、ぶちょーと大声を出している。コース間際で応援している人たちの後ろで、ぶちょーと声を出しながら並走してくる。 「がんばれー、部長ー!!」  私が走るのは、あふれる思考や感情から解放されて、本当の意味での一人になるためだ。そうしないと、自分に出会えない。それは今でも変わらない。けれど、応援する人がいる幸せ、応援される喜び、応援せずにはいられない気持ちが初めて分かった。応援するって、されるってこういうことだったんだ。一人になりたいということは、一人じゃないということ。たくさんの人に関わって生きているということ。それは幸せの上に成り立つ、贅沢な願望だったのだ。私はあふれてくる感情と副部長の声におされるように、校庭を一気に駆けぬけた。 「部長!部長!」  ゴールした私に、副部長が手を振りながら走って近づいてくる。こんな時でさえ、にくたらしいほど完璧なフォームだ。部長!部長!と、それだけを連呼している。 「部長!やりましたね。十位以上三十位以下ですよ!たぶん」 「……その…たぶんって……なによ……」  息があがって、まともに喋れない。ゴールしたあとも、身体が自然と動く。すぐには止まるなという在りし日の監督の声が蘇る。うろうろ歩く私の後ろを、母親につきまとう子供のように副部長がついてくる。 「最初はタイムを計っていたんですが、部長の姿が見えた途端、なんか興奮しちゃって、それどころじゃなくなってしまいました」  副部長は走り終えたばかりの私以上に顔を上気させ、興奮していた。 「……めがね」 「えっ?」 「めがね……どうしたの?」 「あっ、忘れてた」  副部長はあわてて顔を触った。 「……あれ?ない」  今度は、ジャージのポケットを探っている。 「邪魔だから途中ではずして、ポケットにいれたんですが、どこかで落としたのかもしれません」 「……今頃踏まれて…ぺちゃんこかもよ」 「探してください。よく見えないんですから」  それまで普通だった副部長は、急に信じられないくらい小さな石につまずいてころんだ。 「適当に応援してたの?」 「まさか。部長のことは見えなくても、分かりますよ」  副部長は足についた砂を払いながら立ち上がった。 「で、副部長は何位だったの?」  ようやく落ち着いた私は、手洗い場の横にある段差に腰かけた。 「途中から一年と混ざってごちゃごちゃになったので、定かではありませんが、二十位いや、十位以内には入っていると思います」 「本当に?」 「はい」 「へぇー。それはちょっと見たかったな」  と言うと、へへっと副部長は無邪気な笑顔を見せた。本当に見たかった。副部長が本気で走る姿を。生きている姿を。隣に腰をおろした副部長の体温がピリピリと伝わってくる。 「正直、びっくりしました」 「もっと遅いと思った?」 「いや、長距離をやっていたことを指摘された時」 あぁ、そんなこともあった。ヒバリのように軽やかに風にのり歌うように走っていた副部長。今思い出しても別人のような気がする。 「びっくりっていうか、怖いっていうかなんていうか…、心臓一突きって感じでした」 「えっ?そんな?ごめん」 「いえ、部長が謝ることはないんですけど。なんていうか、心臓一突きされて苦しいけど嬉しい気持ちもあって」  副部長の真剣な顔は、いつだって私から逃げ場を奪う。 「走っているだけで、長距離やっていたって分かってもらえて、そういう走り方がまだ出来ていたんだって単純に嬉しかったです。でも、なんで陸上部に入らないのとか言われて、何も知らないくせにって頭にきたりもして。嬉しかったり、頭にきたり、苦しかったり、なんか言葉に出来ない気持ち、今もうまく出来ないんですけど、そんな気持ちが胸のあたりをこう、ぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるして、それで結局、ただ走りたいんだなってことに気がついたんです。あぁ、僕はずっと走りたかったんだなぁって。生きるってそういうことだなって、部長が気づかせてくれたんです。今日、走って良かったです。本当に良かった。この日の為に、密かに練習していたんです」 「ずるい」  へへっと、副部長はまた笑って、続々とゴールへ飛び込んでくる人を眩しそうな笑顔で見つめている。大声援はまだ続いていて、時々隣にいる副部長の声ですら、かき消されるほどだった。副部長も私も、今日走れて良かった。もっと早く走ることができたらと思うのは、今日走れたからこそだ。きっと、昨日だったら走れていなかった。副部長にも私にも、今まで過ごしたすべての時間が必要だったのだ。副部長が私より一年早く走れて良かった。心の底からそう思う。それから二人で、対局を振り返るようにマラソンコースを歩き、コース中盤の草むらのなかで、副部長のめがねを発見した。 翌日、部室棟に総合結果が貼り出された。学年関係なしに、タイムで算出される順位は、出てみないと正確な結果が分からない。女子は四位、男子は一位のところに囲碁部の文字があった。私も、ひそかに走っていた。新入生が入部せず、囲碁部が今年で消えるのなら、せめて一年間、囲碁部の名前を結果発表のなかにだけでも残したいと思ったからだ。 「これが囲碁部の実力です」 そう言って、副部長は囲碁部と貼り紙に書かれた文字を嬉しそうになでた。  翠がいないまま秋は終わり、冬が来て、卒業式が終わった。入学式は休んだと翠から聞いたことがある。翠らしいと言えば翠らしい最初と最後かもしれない。式後の三年生の教室と廊下は、収拾のつかない騒ぎになっていた。その喧騒を抜け、私は美術室へと向かった。 絵の具の匂いがする美術室は、同じ教室とは思えないほど静かで寒い。さっきの騒々しさが嘘のように、扉を閉めるとその声はほとんど届かない。教室の翠のロッカーは、昨日片付けが済んでいた。担任が開けると、体操着が一組かかっているだけだった。 「休む準備していたのかな」  がらんとしたロッカーを見て担任は首をひねったけれど、翠は私物のほとんどを、部室のロッカーに入れていたことを私は知っていた。 「やる?」  声のする方を振り返ると、入口に市川が立っていた。私が片付けを手伝ってとお願いしたのだ。翠のロッカーを片付けてほしいと、美術部の顧問に何度も言われていたが、私にそんな資格なんてないと今日まで先延ばしにしていた。あれ以来、翠とは何の連絡も取っていない。市川には翠からの連絡があるのか。休んでいる理由を知っているのか。ずっと聞けずに今日まできてしまった。美術室のロッカーを開けた途端、荷物が床に飛び出してきた。散乱する荷物と懐かしい翠の香りが漂うなかで、顔を見合わせて小さく笑った。昨日のロッカーにはいなかった翠が、このロッカーにはあふれている。翠はここに置いていったのだ。荷物も、私も、市川も、高校生活の何もかも。 「片付ける」  私が自分に言い聞かせるように言うと、市川もまた強くうなずいた。私はロッカーのものを片っ端から段ボール箱に入れた。市川も躊躇せずに段ボール箱に入れていく。ポーチ、漫画、スケッチブック、タオル、どれもこれも見覚えのあるものばかりだった。一つ一つ時間をかけて思い出せば、いつどの場面で翠が使っていたものかすべて思い出せる。だからこそ、残すもの残さないもの、大事なもの大事じゃないものを一切分けることなく、全て段ボール箱へ無造作に詰め込んだ。カチャカチャと音のするお菓子の缶を持ち上げると、ゴムがパチンと弾け、床に色とりどりの絵の具が散らばった。 「突然いなくなるってずるいよな」  市川は独り言のようにつぶやくと、足元に落ちた絵の具を拾って投げた。青い絵の具が段ボール箱に当たって落ちる。市川の言葉の続きを待ってみたものの、ナイスと言って笑ってみせるだけだった。 それを目にした時、私の心臓は警鐘を鳴らすかのように早鐘を打った。動きを止めた私の視線の先を見て、あっと声をもらした市川が、両手でゆっくりと取り出して蓋を開けた。ロッカーの奥の奥、骨壷のようにひっそりと置かれていたもの。間違いない。紛失した碁笥。黒。私は初めて中身を当てた。 「あぁもう、疲れた」  私は床にしゃがみこんで大きなため息をついた。 「好きだったんだよ、たぶん」 「囲碁が?」  思わず尖った声が出ると、市川は違うと笑って私を指さした。市川の視線の先を、初めてとらえたような気がした。 「すべてを知りたくて、すべてを知ってほしかったんだよ」  市川の言葉に、鮮明だったはずの翠が急に色褪せ薄れていく。 「気がついてなかっただろ、翠がいつも見ていたこと。あの時の告白は、俺にじゃなかったんだよ」 翠は知っていたのかもしれない。市川と私が一年の初め、少しだけ付き合っていたことを。少しで終わったのは、市川のことが好きだったサッカー部のマネージャーに泣きつかれたり、呼び出されたり、変な噂さを流されたりすることに疲れ、市川をなんとなく遠ざけているうちに自然消滅したからだ。市川も何も言ってこなかった。私も翠に一度も連絡していない。入学式を休んだ理由も、市川とつきあっているのかも、進路も、絵が好きだったのかですら聞かなかった。翠が一歩近づけば一歩だけ、三歩近づいたらきっちり三歩分、無意識のうちに後ろに下がっていた。無意識だからこそ、翠を傷つけた。ずるいと言った市川の言葉は、翠に対してじゃなく私に対しての言葉だ。私は市川から逃げた。学生生活からも、部活からも、陸上からも、そして翠からも、ずっと逃げていた。 段ボール箱を持って、校舎裏の焼却炉へと向かった。焼却炉の蓋を開け、段ボール箱を市川と一緒に抱えて押しこんだ。逆さになって開いた口から、翠のものがこぼれ落ちる。担任から、翠のものは全て処分していいと言われた。翠がそう言ったのだろう。 「燃やしたい」 焼却炉の中をのぞきながら私は言った。 「今?」  後ろに立つ市川の声が耳元をかすめ、焼却炉の中へと落ちていく。誰かが燃やすまでなんて待てない。誰かになんか燃やされたくない。自分の手で、今、燃やしてしまいたい。黒く積もった灰の上にうず高く積み重なった翠の荷物は、小さな口から差し込む太陽の光りを浴びて、生きている証のように様々な色彩を放っていた。 「じゃあ、燃やそう」  市川はポケットからライターを取り出した。市川の身体からほのかに香る煙草の匂いに、憧れに近いものを感じていたあの頃の気持ちがふと蘇った。私は焼却炉に手を入れて、手前にあった紙をつかんだ。翠の書いたスケッチ。翠といた頃の私。窓に腰かけ、校庭を眺めながら音楽を聞いている私が描かれていた。 「これでいいの?」 「うん」  きっとこれこそがいいんだ。市川が火をつけると、あっと言う間に私が燃えた。焼却炉の中に投げいれると、火は一旦見えなくなり、消えたかなと思う私たちをあざ笑うかのように乾いた音をたて、大きな炎を立ちあげた。私は、今朝見知らぬ下級生がつけてくれた胸章を投げいれた。名札、生徒手帳、制服のリボン、入れられるものは全て放りこんだ。火はどんどん大きくなり、小さな口から私を飲みこもうと手を伸ばしてくる。顔が焼けるように熱い。涙が止まらないのは、きっと煙のせいだろう。もう行こうと腕をつかんだ市川の手も炎のように熱かった。熱風に舞った髪の先端が、炎を捉えて焦げた。 市川が紙パックのコーヒー牛乳を買ってくれた。一年の時、市川が最初に買ってくれたものだ。飲んだ後の紙パックを洗って、部屋に飾っていた時もあった。二人並んで美術室の棚の上に腰をかけた。 「上履き泥だらけ」 日当たりの極端に悪い校舎裏は、いつもぬかるんでいた。 「今日で最後なんだし、もうなんでもいいじゃん」  市川の言うとおり、私たちの高校生活は、残りコーヒー牛乳200ml分。 「やっと終わった」  えっ?と市川に聞き返されなければ、言った実感さえなかった。 「やっと終わったなぁって思ってさ」  今度はちゃんと意識をもって言った。 「そうだな」  長い沈黙。言うべきことはもうなにもない。 「いつも校庭を見ている」 市川がそう言った時も、私は校庭を見ていた。 「今も、授業中も、放課後も。いつもなに見ていたの?」 「なにも」  私は何も見てなかった。見ようとしてこなかった。 「音楽の流れていないイヤホンと一緒か」 静かにしていると聞こえるはずのない、燃える音が聞こえてくるような気がした。さっきまでここにあったものが、もう炎に包まれて燃えている。私だってあそこに入れば、同じように燃えてなくなる。消えるのは本当に簡単だ。 「一年の時と三年の時とじゃ、だいぶ印象変わったよ」  「そう?一年の時は翠がいなかったからかな」 「あと、あれ。囲碁部も」 そうか。そうだったのか。岡目八目。身近にいて、けれど他人の翠には、私の気持ちが何手も先まで読めていたのかもしれない。 「私、碁石を副部長に返してこなきゃ」 「うん」 「これありがとう」  私が棚から飛び降りると、乾いた泥がぱらぱらと床にこぼれ落ちた。 「捨てておくよ」  市川は座ったまま手を伸ばした。 「ありがとう」  私は市川に空の紙パックを投げた。 「じゃあね、バイバイ」  私が手を振ると、じゃあなと言って市川は紙パックを振った。市川の進路を私は知らない。市川も私の進路を聞いてこない。 「鼻声」  泣きはらした声を、市川がからかった。私たちはきっともう会うことはないだろう。私と市川は似たもの同士。だからお互いまた会おうの一言が言えない。言って後悔するより、言わないで後悔するほうを選んでしまう。腕に残る市川の熱い手の感触も、いつかは消える。 「なんですか」  副部長が息を切らしてやってきた。 「あっ、来たの?」 「呼び出しておいてなんですか」  確かに、部室に呼び出したのは私だ。 「ホームルームは?」 「真っ最中ですよ。トイレに行くふりして出てきたんです」  久々に見る副部長は、髪が伸び、別人のように大人びて見えた。 「焦げてませんか?」  副部長が触れた私の髪が、ほろほろっと床に落ちた。指についた髪を不思議そうに見つめる副部長に、何も言わず碁笥を差し出した。副部長は、あっと小さく叫ぶと、私の髪をつかんだ指で碁石を手に取った。 「本物だ」  副部長が言った言葉はそれだけだった。 「うん。本当にごめんなさい。ちゃんと謝れてなかったから」 「僕も部長に謝らないと」 「副部長は謝ることないでしょ」 「あの時、真剣に囲碁やっているって言ったの、あれ嘘です。そう自分に言い聞かせていただけです」 「副部長は真剣にやっていたよ」 「フリです」 「フリでも、そうしようと思うところが真面目に取り組んでいる証だよ」 「…実はあんまり囲碁好きじゃないんですよね」 「そうなの?」 「難しくてよく分からないから囲碁」  相変わらず真顔なので冗談なのかどうか分からない。けれど、思わず吹きだしたら、副部長も吹きだした。 「あっ、そうだ。これ」  副部長は笑いながら、ポケットから白い封筒を差し出した。 「なに?」 「開けてみてください」 封を開けて便箋らしきものを広げて見ると、それは碁盤だった。 「碁盤のハンカチです。ハンカチとしても使えますし、碁盤としても使えます」 「こんなのよく見つけたね」 「見つけた時、買うしかないって思いました。僕とお揃いです」  そう言うと、ポケットから同じハンカチを取りだして見せた。そろそろ行かないと、と副部長は碁笥を抱えて廊下に出た。私は、その一歩手前で見送った。 「また囲碁の相手してくれる?受験が終わったらでいいから」  考えるより先に言葉が出ていた。 「いいですよ」  副部長はあっさりうなずくと、呆気ないほどすぐに背中を向けた。同じ制服を着ているからこそ、その違いがよく分かる。個性は決して服装なんかで埋もれない。引き止める言葉もなく、そのうしろ姿を静かに見送っていると、副部長が振り返って言った。 「通信碁しませんか?」 「通信碁?」 「お互いに一手ずつ書いたものを手紙で送って、囲碁をやるんです」 「手紙で?それってものすごく時間がかからない?」 「かかります。だから気が向いた時でいいんです。部長にはぴったりだと思いますよ。気楽にのんびりやりましょう」  それもそうかもしれない。私は、いいよと答えた。 「じゃあ、先番は僕で」 「ちょっと待って。副部長が先に打ったら、私、絶対負けるじゃん」 「後でも先でも、部長に勝ち目はありません。先番を僕にしないと、永遠に対局が始まらない気がしますから」 悔しいけど、そのとおりだ。途中で嫌になってやめるかもしれない。でも、その時は必ず言おう。それだけは絶対に。私はもう逃げたくない。 「生徒名簿から住所探して送ります」  副部長は言った。 「私の名前、知ってるの?」 「海野ですよね。海野あかり。知っています。当然です」 副部長に名前を呼ばれて初めて、海野あかりという人物の輪郭をとらえた気がした。長い間、見失っていたもの。私は確かにここにいる。傍観者でも、幻でもなく、現実の渦の中にしっかりと存在し、身の回りで起こる出来事すべてに、どうしようもないほど深く関わっていた。私は私の中にずっといた。 「海野あかりさん!」  副部長が大きな声で私の名前を呼んだ。 「ご卒業おめでとうございます!」 「ありがとう!井上匡くん!」 私も副部長の名前を叫んだ。もちろん、知っていた。副部長は驚いた顔を見せると、次の瞬間には照れ笑いをして控えめに手を振ると、今度は本当に走って行ってしまった。あの完璧なフォームで。颯爽と。 副部長が走り去る姿は、卒業の寂しさを初めて感じさせてくれるものだった。寂しいと思える出来事が、一つでもあったことが嬉しい。私たちをゆるく束ねていた糸は、今日で解かれてしまう。ぼーっとしていても同じ空間に存在するなんてことはなく、お互いに歩みよらなければもう会うこともない。当たり前のように喋ったり、プリントを配ったり、授業中に目があったり、廊下の突き当たりでばったり会ったり、走っている姿を目撃したり、廊下に貼り出された詩を読んで意外な一面を発見したり、ふとした瞬間に普段は見せない表情を目にしたりすることはもうない。髪の毛を切っても、出来物ができても、風邪をひいても、失恋しても分からない。毎日一緒にいるということは、隠すことが無意味なほど、全てを知られるということだった。間違いや勘違いもたくさんあるけれど、好きも嫌いも、長所も短所も、不機嫌も喜びも、涙も笑いも、私のすべてをさらけ出して生きているのと同じだった。 私は生まれて初めて、別れというものを実感し、体験した。全ての出来事が、とても遠い過去のように思える。風に乗り、校舎を飛び越え、煙の匂いが私の元へと届く。明日にはこのざわめきのなかに、この空間に存在しないなんて想像がつかない。今日が卒業式だからじゃない。いつだってそういう日々だったのだ。今までも、そしてこれからも。卒業しても何も変わらない。けれど、変えようと思えばいつでも変えられる。時々思い出す事も、全く思い出さない事も、常に考えてしまう事も、答えのない問いも、いつか同じ思い出として交わる日がきっとくるだろう。楽しい思い出も、苦い記憶も、市川も翠も副部長も、すべてが一つになる場所へと歩いていこう。私ならたどりつける。そう信じて。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加