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雲一つない真っ青な空に、煙が緩やかに上へ上へと揺蕩う。
畑中大和は、スラリとした膝を窮屈そうに折り曲げ、墓前にしゃがみ込んでいた。
今日この日は、幼馴染みの十三回忌。親族らは先に予約していた店へ行ってしまい、この場に残ったのは大和一人だった。
「こんな所でどうしたの?」
ふと、ほど近くから掛けられた声に、大和はビクリと肩を強ばらせた。
(こんな辺鄙な場所に人……?)
優しく穏やかで、ともすれば遠くに飛んでいってしまいそうな、そんな声音。それに、どこかで聞いたことがあるような心地よく耳に馴染む声。
幼馴染みの墓がある場所は山深く、都会から車で二時間は優にかかる。
しかし「こんな所で」とはどういうことだろう。
もしかするとこの近くに住む子供だろうか。けれど、ここは山の中だ。近くと言っても、来る途中で見た家は五軒に満たなかっただろう。ならば──。
(いや、そんなはずがない)
自分の中で浮上した予想に、そんなわけがない、と苦笑する。
幼馴染みは、和音は十二年前に死んだのだ。まやかしだろう、と大和は自分を無理矢理にでも納得させようとした。
けれど、意を決して声がした方を見ると大和の瞳は大きく見開かれた。
小学生ほどの見た目をした少女が、じっとこちらを見つめていたのだ。
(……は?)
緩やかに編み込まれた髪が、風に乗ってふわりと揺れ動く。くりくりとした大きな瞳を逸らすことなく、こちらをじっと見つめている。
『和音』に似ているという確証は無いのに、大和の本能は『和音』だと言っていた。
「ね、何をしていたの?」
好奇心を抑えきれていない声音で、少女が問い掛ける。
大和から十メートルほど先に居るだけで、あくまでも本人の口から聞き出そうとしているかのようだ。
「あー……えっと」
「うん」
相槌を打ちつつ、少女がこちらに歩み寄る。ゆっくり、ゆっくり、大和のいる場所まで距離を縮めていく。
「……オレ」
もだもだと年甲斐もなく手をこまねき、反射的に顔を俯かせる。その拍子で掛けていた眼鏡がずり落ちそうになった。
「大丈夫、ゆっくりでいいから」
いやに近くで声が聞こえたかと思えば、ぽんぽんと優しく大和の頭を撫でてくる。
その手は温かく、もう居ないなんて思えなかった。
◆◆◆
ジーワジーワ、ミーンミーン。
外ではこの季節特有の蝉たちが、これでもかとうるさく大合唱を奏でている。それも相まってか、はたまた扇風機一台という環境が悪いのか。
「暑い!」
言いながら、大和はゴロリと横になった。
手に持っていたシャーペンをポイと投げ捨て、ひとつ大きく伸びをする。
「確かに暑いけど、何も寝転ばなくても」
小さなテーブルを挟んだ向かい側にいる竹原和音が、呆れ声で言葉を発する。
その首筋には、うっすらと汗が滲んでいた。
和音とは幼稚園からの幼馴染みだ。所謂、腐れ縁というやつだろうか。この少女とは、かれこれ十年ほどの付き合いになりつつあった。
「それもこれも夏のせいだ」
やおら引き締まった表情をして、大和は起き上がる。
──そう、夏のせいだ。
暑いのも、宿題がたくさんあるのも、今大変な思いをしなければならないのも。
「……まぁた始まった」
自分の世界に入り込んだ様子の大和に、和音は先程よりも心底呆れたというような声音で言った。
「仕方ないだろ、夏なんだから」
「まぁ……ね。でも、それはそれで冬になったら『冬のせいだ』って言うんでしょ」
「うっ」
和音の指摘にひくりと口が引き攣る。
冬は冬で好きだが、嫌いだ。朝は寒くて布団から抜け出せず、一歩外を出れば冷たい風が吹き荒ぶ。
けれど夏の方がもっと嫌いだった。
この季節にいい事なんて無い。それもこれも宿題が大量にあるせいだ。
夏休みだということにかまけて、新学期が始まる一週間前の今日──和音から「宿題やった?」と聞かれるまで遊んでいたのだ。
言ってしまえば計画性が無いだけだが、大和の持論ではそれはそれ、これはこれという話だ。
「あー……けど、和音とこうやって一緒にいる時間の方が好きだなぁ」
和音の呆れた眼差しから逃れたくて、苦し紛れな言葉を舌に乗せる。
「──も」
「え、なんて?」
小さな声音でよく聞き取れなかったが、いたたまれない視線からは逃れられた。
「ううん、続きやろうか。ほら、早くしないと日が暮れちゃう」
そう言って、和音は新しくノートを広げる。
サラサラと滑らかにシャーペンを走らせているが、伏せられた瞳からは感情を読み取ることは出来ない。
けれど、ここで少しの違和感が頭をもたげた。
僅かだが普段の幼馴染みとは違う、と。
(落ち込んでる、っつーかなんつーか)
先程言った言葉が駄目だったのだろうか。どちらにしろ、和音にそんな表情をさせたことに少なからず罪悪感を覚える。
「どうしたんだよ、んなしょげちゃってさ」
大和はテーブルに身を乗り出し、お前らしくない、と言葉を継ぐ。
本当に言いたいこととは違うが、どうか伝われ、と想いをのせる。
「大和は優しいね。……なんでもないから気にしないで」
それまでの重苦しさが嘘だったかのように、和音はニコニコと微笑む。
大和に向けられた表情は、やはり少しの違和感があった。しかし、それも一瞬のこと。
けれど、その一瞬だけ見えた『何か』に怯えるような瞳は嘘じゃないと思えた。
◆◆◆
和音が自身のノートと向き合っている隙をついて、ちらりとベランダを盗み見る。
「そろそろ日が暮れるな」
大和は部屋の入口に、和音はベランダの窓に背を向けているため、大和の方からは空の様子がよく見えた。
「……もう帰らないと」
ぽつりと呟いたような独り言は、小さな部屋ではやけに響いて聞こえる。
その言葉がどこか寂しげで。
「なぁ……泊まって行かね?」
つい口を突いて出てしまった。
「え」
大和の申し出に、和音はきょとんとした表情で首を傾げる。数秒経ってようやっと理解したのだろう、和音の頬がみるみるうちに真っ赤に染まった。
「え、いや、オレ、なに言って」
大和も釣られたように、ともすれば和音よりも燃えるほど頬に熱を持った。
(おい待てオレ!! こんなの、まるで)
帰ってほしくないみたいじゃないか、という言葉はすんでのところで飲み込んだ。
それよりも和音の誤解を解かなければ、という事で頭がいっぱいで。
「あ、えっとな、別にお前が心配だからってわけじゃないぞ!? お前があんまり寂しそうな顔してたから──」
「あははははっ!」
次から次へと溢れ出てくる言い訳じみた言葉は、唐突な和音の笑い声で止まった。
あははは、と文字通り腹を抱えて笑う和音に、今度は大和がきょとんとする番だった。
「あー、おかしっ。ふふ、こんなに笑ったの久々」
いまだクスクスと泣き笑いをする和音に、先程までの憂いを帯びた影はまったく無い。
「ありがとね、大和」
パンッと軽く膝を叩き、和音が立ち上がる。
「また明日来るから」
ニコリと太陽のように優しく微笑む少女は、この世の何よりも綺麗だと思った。
「あぁ……また明日」
そんな幼馴染みを見てか、大和はそう言うだけで精一杯で。
そうしてドアが閉まる音が聞こえてしばらく。
和音の明るい話し声がここまで聞こえてくるから、きっと母と軽く話し込んでいるのだろう。
大和はフラフラとベッドの縁に座り、枕を引き寄せる。
「──行かないでくれ、なんて言えないだろ」
一人きりになった部屋で、その声は寂しげにこだました。
◆◆◆
朝起きてすぐの事。
大和は朝食を食べながら何の気なしにテレビを観ていた。
トースターでこんがりと焼いた食パンに、母が作ってくれたスクランブルエッグとウインナーを載せて食べる。大和にはこの時間が至福のひと時でもあった。
「ここで速報をお伝えします。東京都○○区で殺人事件が発生しました」
アナウンサーが述べた場所は、大和が住んでいる所からほど近くだった。
(そういや、あそこに和音が居るっけ)
モグモグと食パンを咀嚼し、飲み込む。
それからさしてテレビに注視するでもなく、コップに手を伸ばした時だ。
ワイドテレビから、見知った顔が映る。
テレビに映った画面には、和音が満面の笑みでピースしている。
「被害者は同区の高校へ通う竹原和音さんで──」
その衝撃で手がぶつかり、コップを取り落とした。
大和は何があったのか信じられなかった。
「は……。な、んで」
フルフルと唇が、身体が震える。
なんで、どうして、と何度もその言葉が頭の中を反芻する。それほどすぐには信じられなかった。
(昨日オレと勉強してただろ。帰る時お前はまた明日、って……)
ぐるぐる、ぐるぐる。
大和は自責の念に駆られ、テレビの音も母が肩を揺さぶる振動も、遠くで起きている出来事のように思えた。
その間もアナウンサーは、原稿をサラサラと読み上げる。
「……を受け、輸送先の病院で死亡が確認されました。犯人は現在逃走中です。近隣住民の方はくれぐれもご注意ください」
アナウンサーがそう締め括ると、CMが流れる。
そうして速報が終わってからも大和は未だに信じられず、悪い夢を見ているのかと空目さえした。
「昨日、無理にでも泊まっていけって言えば良かった」
「大和……」
つっかえつっかえながらも、なんとか言葉を絞り出す。
母は大和の震える肩を抱き、安心させるように何度も撫でさすった。
──あの時の笑顔が、あの時の会話が、和音と話す最後になるなんて。昨日の自分はなんて馬鹿なんだろう。
あの時、もっと強く言っていれば、大和の提案に頷いてくれただろうか。
あの時、日が暮れていくことを言わなければ、和音は帰らずにいてくれただろうか。
もう戻ってこない『あの時』が、和音の表情が、何度も脳裏に浮かんでは消えていく。
自分でも知らずのうちに涙が零れ、息が上手く吸えなくなった。
「っ……ふっ、和音……」
ボロボロと温かい涙が頬を伝う。
そうして大和は今までの自分の行動を、自分が抱いていた想いを自覚した。
それから以後、大和が恋する事は無くなった。
◆◆◆
人は生きているうちに様々な事が起こる。誰と付き合った、誰と結婚した、子供が生まれた。
そうして小さな幸せが積み重なって、好きな人と肩を寄せ合って笑う。
生きていれば当たり前の事だが、今の大和には、そのどれもが無い。あるはずがないのだ、自分は和音が亡くなってから恋することをやめてしまったのだから。
あのニュースを観た後、大和は放心状態になった。
母から聞いた話によると、どうやら和音は大和の家に来る途中で襲われたらしい。
そのことを聞いた瞬間、約束しなければ良かった、という自責の念に駆られた。何故、どうして、と何度も思った。
幼稚園の頃から幼馴染みの和音に、事ある毎に突っかかっては困らせて。
泣かせた事もあったが、笑わせた事の方が遥かに多かった。
すべては小さな行いが積み重なった罰なのだ、とも思う。
けれど、今思い返すと和音のことが好きだったが故の行動だと思えた。
容姿こそ違えど、どことなく似ている。だから和音と少女を重ね合わせてしまったのだろう。
いくつもの記憶が思い起こされたのも、きっとそのせいだ。
なのに。
(なんで、なんでオレは……この子を『和音そのもの』だと思うんだ)
有り得ないのに。
和音はとっくに死んでいて、もう会えないはずなのに。
(そんなはずない、って)
ギリリ、と知らずのうちに唇を噛み締める。微かにだが、口の中に鉄の味が広がった。
「あぁ、跡が付いちゃう」
そう声がしたかと思えば不意に頬へ手を添えられ、唇に柔らかく温かいものが触れる。
「は……?」
何が起こったのか分からず、大和は文字通り目を白黒させた。
この少女が口付けた、という事実に脳内がついて行かない。
「ねぇ、お兄さん」
小学生ほどの見た目にしては妖艶な笑みを称え、少女は言葉を紡ぐ。
やけに大人っぽい声だな、と場違いなことを思った。
「……ふふっ、面白い顔」
クスクスと笑い、今度は両手で頬に手を添えられる。
小さな手は大和の顔の半分にも満たない。
けれど、触れられた箇所からじんわりと温かさが広がり、何故だか視界がボヤける。
「ずっと想っていてくれてありがとう──ただいま、大和」
にこりと笑みを浮かべる少女は、あの頃よく笑っていた幼馴染みで。
「和音」
「うん」
風に攫われてしまいそうなほど小さな声だったが、少女──和音にはしっかりと届いたようだ。
「和音、和音……!」
和音だと確信した瞬間、何度も何度も名前を呼ぶ。今まで和音を想った日々をぶつけるかのように。
「うん、大和。あなたに──ずっと逢いたかった」
二人はポロポロと涙を流しながら、強く抱き締め合った。
隙間無く抱き合い、お互いを確かめ合うかのようにキスをする。
空高くにある太陽が、二人の再会を祝福するかのように燦々と照らしていた。
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